ソアラ編 第四十七章 ソアラの魔術とルーメンの疲労② 癒し魔術が効かない
ソアラの詠唱が、また一つ、川辺に響いた。
「偉大なる風の根源よ、集いし刃をここに現したまえ――ウインドカッター」
風が走り、水面に細く、しかし確かな切れ目が刻まれる。先ほどよりも深い。刃の持続も長い。
完成に近づいていることは、誰の目にも明らかだった。
「……いい」
ルーメンはそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
視界の端が、わずかに暗む。立っていられないほどではないが、足元が頼りなく感じる。
体の奥から、熱を奪われるような感覚がじわじわと広がっていた。
(……おかしい)
ここまでの疲労を感じるほど、動いてはいない。魔術を使った量も、決して多くはない。
指導の合間に、自分自身へヒーリングもかけている。
それなのに、重い。
「少し、休もう」
声に出したのは、自分でも意外なほど自然だった。
ソアラは驚いたように振り返る。
「え、あ……はい」
心配そうな視線が向けられるのを避けるように、ルーメンは川辺の大木へと歩き、幹にもたれかかった。背中に伝わる木の感触が、ひどく現実的で、逆に自分の体が遠くなる。
「……キュアヒーリング」
今度は、より強い癒しを選ぶ。
柔らかな光が、先ほどよりもはっきりと彼を包んだ。通常なら、この段階で体の重さは抜けていく。疲労は薄れ、頭は冴え、呼吸も楽になる。
だが。
(……変わらない)
光が消えても、体の内側に残る倦怠感は、そこに居座ったままだった。
それどころか、じっとしていることで、逆に自分の状態がはっきりと分かってしまう。腕が重い。背中がだるい。胸の奥が、空洞になったような感覚。
「……ブライトヒーリング
光は、先ほどとは比べものにならないほど強く、暖かい。悪い部分があれば、そこに魔力が集まり、はっきりと“違和感”として感じ取れるはずだ。
だが、何もない。
(……?)
痛みも、詰まりも、傷もない。
それなのに、疲れだけが残る。
「ルーメン、大丈夫?」
エアリスが、近づいてきて声をかけた。
「顔色、よくないよ」
「……うん。ちょっと、疲れてるだけ」
言葉は即座に出た。反射的に、心配を否定する。
「少し、任せてもいい?」
「もちろん」
エアリスはすぐに頷き、ミリィも無言で位置を取る。二人に指導を任せるという判断は、自然だった。無理をする理由はない。そう思いたかった。
ルーメンは木にもたれたまま、目を閉じる。
川の音。風の流れ。ソアラの詠唱。
そのすべてが、遠く感じられる。
一方で、疲労感は、薄れるどころか、ゆっくりと増していった。まるで、体の中から何かを引き抜かれているような、説明のつかない感覚。
(……今日は、ここまでにした方がいいな)
そう思った矢先。
「……はぁ……」
ソアラの息が、明らかに荒くなった。
発動回数は、すでに二十回近い。上位魔術をこれだけ連続で使えば、魔力切れを起こしても不思議ではない。
「ソアラ、今日はもう十分だよ」
エアリスが声をかける。
ソアラはふらつきながらも、頷いた。
「……はい……ちょっと、魔力……使いすぎました……」
その様子を見て、ルーメンはほっとする。
原因がはっきりしている疲労は、理解できる。
だが、自分の体は違った。
ソアラが発動を終え、詠唱を止めた瞬間。
不思議なことに、増え続けていた疲労の波が、ぴたりと止まった。
完全に消えたわけではない。
だが、“これ以上悪化しない”という感覚だけが、はっきりと分かった。
(……?)
その一致に、言葉にならない違和感が胸に残る。
偶然だ、と片付けるには、妙に整いすぎていた。
「今日は解散だな」
ルーメンは、そう告げる。
「僕も、少し疲れた」
あくまで軽く。深刻さを滲ませないように。
ソアラは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません……」
「気にしなくていい」
「上位魔術は、体への負担も大きい。今日はよく頑張ったよ」
その言葉に、ソアラは少しだけ安心したように笑った。
四人は、それぞれ帰路についた。
ルーメンは歩きながら、自分の体調を確かめ続ける。
疲れている。確かに。
だが、“癒しが効かない疲労”というのは、今まで一度も経験したことがなかった。
理由は、まだ分からない。
ただ、胸の奥に残る、はっきりとした感触だけが、静かに告げていた。
何かが、今までと違う。
その夜、ルーメンはいつもより早く床に就いた。
夕食を終え、体を休めようと横になった瞬間、重力が一気に体にのしかかるような感覚があった。
まぶたを閉じるだけで、意識が沈んでいく。思考を巡らせる余裕もない。ただ、深いところへ引き込まれるように眠りに落ちた。
どれくらい眠ったのか。
目を覚ましたとき、窓の外はすでに明るかった。差し込む朝の光が、いつもと変わらない色をしている。
体を起こす。
(……軽い)
昨日まで、あれほど重く感じていた手足が、嘘のように動いた。胸の奥にあった空洞のような感覚も消え、呼吸は自然で、魔力の流れも澱みがない。
「……治ってる」
思わず、独り言が漏れる。
寝不足だったのか。
ここ最近、毎日川辺で魔術を教え続けていた。
ソアラの特訓、エアリスやミリィの補助、移動の往復。確かに、体を休める時間は少なかった。
(そうだよな……ただの疲れだ)
自分にそう言い聞かせるように、軽く腕を振り、魔力を巡らせてみる。
違和感はない。減っている感覚も、欠けている感覚もない。
昨日のことが、少し現実味を失っていく。
回復してしまえば、都合よく納得できる。
原因が分からない現象ほど、「もう治った」という結果は、強い説得力を持つ。
(考えすぎだ)
そう結論づけるのは、簡単だった。
それに、今日も約束がある。
川辺で、四人が集まる日だ。昨日の続きをやらなければならない。
ソアラのウインドカッターは、あと一歩で完成に近づいている。
準備を整え、家を出る。
朝の空気は澄んでいて、昨日の疲労を嘲笑うかのように、体は軽い。足取りも自然で、呼吸も深い。
川辺に近づくにつれ、昨日の違和感は、頭の隅へと追いやられていった。
(……大丈夫だ)
自分に、そう言い聞かせる。
昨日と同じ道。昨日と同じ時間。昨日と同じ場所。
ルーメンは、いつも通りの顔で、川辺へと足を踏み入れた。
川辺には、いつもの三本並んだ木が立っていた。
風は穏やかで、水面は朝の光を反射してきらめいている。昨日と何一つ変わらない風景。そう見えた。
エアリスとミリィはすでに来ていて、少し遅れてソアラが姿を見せた。
足取りは軽く、表情には期待と緊張が入り混じっている。
「おはようございます、ルーメン君」
その声は明るかった。
昨日、上位魔術に挑戦していたときの、張りつめた表情とは違う。今日こそ、という思いが滲んでいる。
「じゃあ、昨日の続きからやろうか」
ルーメンはそう言って、ソアラの前に立った。
自分の体に違和感がないことを、もう一度だけ確かめる。魔力の巡りは正常。問題ない。
「まずは、ウインドカッター。昨日の感覚、覚えてる?」
「はい」
ソアラは力強く頷いた。
「刃を“飛ばす”というより……空気そのものを、薄く鋭く引き延ばす感じ、ですよね」
「そう。それを意識して」
ソアラは一歩、川へ近づく。呼吸を整え、両手を軽く広げる。
「偉大なる風の根源よ……」
詠唱が始まった瞬間だった。
胸の奥が、微かにざらついた。ほんの一瞬、息が詰まるような感覚。だが、すぐに消える。
気のせいだ、と判断するには十分なほど、軽微な違和感だった。
「集いし刃を、ここに現したまえ……ウインドカッター!」
風が走る。昨日よりも、明らかに鋭い。
水面が一直線に切り裂かれ、細かな水飛沫が立ち上がる。
「いい……!」
ルーメンは即座に評価を口にした。
「今の、かなり近い。刃の密度が上がってる」
「本当ですか?」
ソアラの声が弾む。
「うん。次は、発動の瞬間に……」
言いかけた、そのとき。
(……重い)
急に、肩に何かを乗せられたような感覚がきた。
首の付け根から背中にかけて、鈍い疲労が広がる。
(昨日と、同じ……?)
否定しようとした思考より先に、体が反応した。
呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。
「もう一回、同じのを」
そう言ってしまう自分に、違和感を覚える。
いつもなら、少し休ませるところだ。だが、口から出たのは次の指示だった。
ソアラは迷わず詠唱を始める。
二度目。三度目。
発動のたびに、刃は洗練されていく。
同時に、ルーメンの中で、疲労が積み重なっていく。
(……おかしい)
はっきりと、そう思った。
これは、単なる疲れではない。発動に“合わせて”来ている。
詠唱が始まると、胸が重くなる。刃が放たれると、体の奥が引き抜かれるように感じる。
(でも……)
ソアラは、確実に成長している。今、止める理由はない。
「もう少し。今の感覚を、逃さないで」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
内側で何かが軋んでいるのに、表には出ない。
エアリスが、ちらりとルーメンを見る。
その視線には、わずかな引っかかりがあった。
「ルーメン……?」
小さく名前を呼ばれたが、ルーメンは気づかないふりをした。
ソアラは、またウインドカッターを放つ。
水面が、昨日よりも大きく割れた。完成に近づいている証拠だ。
その瞬間、
(……っ)
視界が、一瞬だけ揺れた。
立っていられないほどではないが、確実に“削られた”感覚がある。
ルーメンは、奥歯を噛みしめる。
(大丈夫だ。まだ……)
そう自分に言い聞かせながら、心のどこかで、確信めいた違和感が芽生えていた。
これは、偶然じゃない。
だが、その理由は、まだ形を持たない。
ただ、ソアラの魔術が深まるほどに、自分が消耗していくという、説明のつかない事実だけが、静かに積み上がっていった。




