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エアリス編 第一章① 魂の邂逅

第一章 生まれ変わり ― 梅の花からの授かりもの ―


 視界は、ただひたすらに、暴力的なまでに白かった。

 それは色が失われた世界というよりも、あらゆる色彩が極限まで飽和し、ひとつの無機質な輝きへと収束してしまったかのような空間だった。音はない。風が肌を撫でる微かな抵抗も、大地を踏みしめる足の裏の確かな感触さえも、ここでは定義を失っている。ただ、自分の意識という名の、いまにも千切れそうなほど細い糸だけが、この空虚な空間に辛うじて繋ぎ止められていた。

 俺は歩いていた。いや、「歩いている」という主観的な錯覚の中にいたのかもしれない。

 霧の奥へ、さらに奥へと進んでいく。前世の川田光一としての記憶が、濁流となって意識の淵を掠めては消えていく。

 

 中学時代から執拗に続いた、理由なきいじめ。そして社会に出てからも、俺を待っていたのは人間の尊厳を土足で踏みにじるような過酷な日々だった。外の世界はどこまでも冷酷で、尖った氷のように俺の心を削り続け、俺という存在の価値を粉々に砕いていった。

 そんな俺を、唯一繋ぎ止めていたのは、この上なく温かい家庭だった。

 妻や娘は、ボロボロになって帰宅する俺をいつも心配し、優しく迎え入れてくれた。家族は、俺が壊れてしまわないよう、最後まで懸命に支えようとしてくれたのだ。居間の暖かな灯りと、用意された温かい食事。彼女たちの無償の愛こそが、俺がこの世に繋ぎ止められていた唯一の理由だった。

 

 けれど、外の世界で浴びせられる悪意の猛毒は、あまりにも深すぎた。家族の優しさに触れるたび、「こんなに愛されているのに、なぜ自分は社会の中で無能だとなじられなければならないのか」という自己嫌悪と、最愛の家族に心配をかけ続けているという申し訳なさが、逆に俺を鋭く追い詰めていった。

 心の中に溜まった澱は、家族の温もりをもってしても溶かしきれないほどに凍りつき、限界を迎えた俺は、ついに自らその物語の幕を下ろすという、最も悲しい決断を下してしまったのだ。

 最期の瞬間に見た、庭の片隅で咲き誇っていた、あの満開の梅の花。

 あの凛とした白さは、家族が向けてくれた愛と、俺が失ってしまった心の平安を象徴しているようだった。

 ふと、白一色の世界に「色」が差した。

 無数の花弁が、見えない大気の律動に揺れ、空間そのものが呼吸しているかのように微かな光を放っている。

 ――梅の花だ。

 そこには、現実の法則を根底から超越したような、巨大で神々しい梅の木が一本、満開のまま屹立していた。

 俺はその美しさに吸い寄せられるように一歩を踏み出そうとしたが、違和感に気づいた。自分の手を見ようとしても、そこには「手」がない。足元を確認しようとしても、そこには「足」もない。俺の意識は肉体という器を完全に失い、ただの魂の塊としてそこに漂っていた。

 崩れ落ちるという感覚さえも抽象的だったが、俺の意識は梅の木の根元、光が澱みのように溜まっている場所へと沈んでいった。途端に、全身を形容しがたい幸福な倦怠感が襲い、意識は遠のき始める。

 その時だった。

 「……私を、愛でてくれてありがとう」

 声が響いた。それは耳という器官で聞く音ではなく、魂の最深部に直接染み込んでくるような、透き通った女性の声だった。

 「あなたの人生は、あまりにも厳しかった。過酷すぎた運命の中にいたわね。でも、そんな暗闇の中でも、あなたは家族を愛し、温かい絆を大切に守ろうとした。あなたの魂は、決して穢れてはいないわ」

 俺の意識の核に、ひとひらの花弁がふわりと触れた。

 温かい。それは、妻や娘が俺の手を握ってくれた、あのリビングの柔らかな日差しのような熱量だった。

 「あなたは本当によく耐えたわ。だから、もう一度、ね。いってらっしゃい。今度は、春の中で」

 光が増し、視界が爆発的な白に塗りつぶされる。それが、俺の古い人生の最後であり、新しい物語の最初の一頁だった。


 「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」

 次に意識を取り戻したとき、俺を包んでいたのは静寂ではなく、荒々しい生命の熱気だった。

 誰かの、肺を引き裂くような激しい呼吸音。焦燥と喜悦が入り混じった、複数の人間の野太い声と繊細な震え声。

 閉ざされていた瞼を、鉛のように重い力で無理やり押し上げる。すると、そこには見たこともないほど眩しい、暴力的なまでの色彩に溢れた世界が広がっていた。

 「リオラさん、よく頑張りました! 元気な男の子ですよ!」

 白い布を纏った女性の、弾むような声が鼓膜を打つ。

 俺の未熟な身体は、温かな布に包まれ、そのまま柔らかな胸元へと導かれた。

 「……ほんとに? この子、無事に……一ヶ月も早かったから、心配で……」

 母と呼ばれた女性、リオラの声は、疲労困憊しているはずなのに、極上の絹を撫でるような柔らかさと、安堵の涙の湿り気を湛えていた。

 その時、視界の端から、一人の男が転がるようにして駆け寄ってきた。

 「リオラ……!」

 大きく、節くれ立った、けれど驚くほど繊細な震えを帯びた手が、リオラの青白い頬をそっと包み込む。

 男の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ、その頬を伝って落ちていた。

 「リオラ、本当によく頑張ってくれた……。ありがとう。本当に、ありがとう……! この子は、俺たちの宝物だ。俺たちのところに生まれてきてくれた、奇跡なんだ。本当に……本当に、ありがとう……!」

 

 父、ランダル。

 その声は、地響きのように低く響きながらも、割れ物を扱うような畏怖と、魂が震えるほどの歓喜に満ちていた。

 前世で俺の心を粉々に砕いたあの怒号とは、何もかもが違っていた。ここにあるのは、ただ純粋な、理由のない「肯定」だった。

 「おう、ルーメン……俺の息子だ。よく来たな、よく産まれてきてくれた……。お前は、俺が命をかけて守ってやる」

 父の指先が、俺の小さな掌にそっと触れる。その熱量は、俺の凍りついていた記憶の深淵を、ゆっくりと、けれど力強く溶かしていくようだった。


最後まで読んで頂きありがとうございます


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