短編7: 頼まれたと思ってた
「神崎くん、絵すっごく上手!」
「わあ、すごい!」
「沙也加ちゃん、これあげる」
「ほんとに?! ありがとう! ずっと大切にするね!」
「神崎くん、私にも描いて!」
「うん、いいよ」
自分の描いた絵で友達が喜んでくれるのが嬉しくて、周りにあるいろんなものを描くのが好きだった。
「おい!惺夜。宿題と勉強に集中しろ。絵なんか描いても飯は食えねえぞ」
「馬が走るのを見てたら、ご飯食べられるの?」 僕は訊いた。「下着のお姉さんたちがいたら、ご飯食べられるの?」 それは決まって金曜日と土曜日に起こることだった。
父に顔をぶたれた。バランスをくずして倒れ込んだ床。
父は自分の絵が大嫌いだった。手からクレヨンを奪うと、そのままゴミ箱へ投げ捨てた。
箱が底を打つ、二回の鈍い音。一回、そして二回。
父が部屋を出ていく足音は、いつも決まって大きな四歩だった。毎週のように父の部屋から知らない女人が出てくるのを見た。その人たちはいつも、柔らかい飴をくれた。
夏になると、お母さんは決まって新しいクレヨンを買ってくれた。でも「四色だけでいい」と言った。隣り合う形が同じ色にならないように塗るなら、四色あればページ全体を埋めるのに十分だったからだ。手に持つペンが四本だけなら、父さんに見つからないように隠すのも簡単だった。
家にはいつも紙がなかったので、古い封筒や新聞紙に絵を描いた。
「神崎くん、何か描いて!」
「いいよ。紙ある?」
「うん、この連絡帳の空白のページに書いてよ。それなら毎日見られるから」
「わかった」
紙のすみずみまで、形と色で埋めつくした。友達が絵を見て笑ってくれる時間が、たまらなく好きだった。
朝のホームルームの時間だった。算数の宿題を忘れていたので、葵先生が話しているあいだに、集められる前にぜんぶ問題を解いた。先生の話はあんまり聞いていなかった。
「神崎! すぐ前に来なさい!」
体が勝手に跳ね上がった。教室のおしゃべりと騒音が、一瞬で消えた。静寂の中に響く、自分の心拍音。
「来なさい!」
葵先生の机まで歩いて行った。二十八対の目がこちらを見ていた。
「沙也加ちゃんの連絡帳に落書きしたのは、あなたね!?」
「はい、僕が——」
葵先生がデスクを叩いた。黒板に鋭く反響する破裂音。体がまた跳ね上がった。説明しようとしたけれど、あごが固まって動かなかった。
先生の机の上に開かれたページを見下ろした。すごく綺麗に色を塗れたと思っていた。笑おうとしたけれど、涙がまつ毛からこぼれた。靴の上に落ちる、水滴の正確な間隔。
一回、そして二回。
「なんで笑ってるの!? 自分が何をしたか分かってるの? 他人の持ち物を汚して何が面白いの!? 恥を知りなさい!」
沙也加ちゃんは顔を真っ白にして、だまりこんでいた。
すると二列目から大和くんが手を挙げた。「神崎くん、僕の連絡帳にも描きました」
ぽつぽつと上がっていく、何人かの手。ただ、頼まれたと思っていただけだったのに。
「親御さんにも連絡しますからね!」
「謝りなさい! クラスみんなに向かって、今すぐ頭を下げて謝りなさい!」葵先生が叫んだ。
頭を下げる。視界に入ったのは、床の上に広がる水滴。あごは固まったままだった。
「反省してないわね」先生は吐き捨てるように言った。「一番後ろの隅に立っていなさい。壁に向かって。二時間目が終わるまでそのままです」
教室の左後ろの隅へ歩いて行き、白い壁に向かって立った。壁にはポスターや絵が貼ってあった。涙のせいで壁が滲んで、絵はもう見えなくなっていた。
壁の表面には、小さなぶつぶつがたくさんあった。視線が泳がないように、そのぶつぶつを数えた。
一列目は142個……二列目は139個。
背後で葵先生が教科書を読みはじめ、授業が元通りに進んでいった。持続した時間は、ちょうど2,100秒。
そのあいだ、ずっとじっと立ち続けた。外を飛ぶ飛行機の音が聞こえた。風で揺れる木の音が聞こえた。
あの日から、クラスメイトに突き飛ばされたりするようになった。小さく丸められ、机の上に置かれた昔の絵。「ほら、お前のゴミ返してやるよ」
二度と届かなかった、沙也加ちゃんへの言葉。
二度と交わさなかった、クラスメイトとの会話。
二度と触れることのなかった、カラーペン。
そしてお母さんは、夏になっても会いに来なくなった。




