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数学研究部は問題なんて朝飯前  作者: 数式舞
数学研究部は問題なんて朝飯の後で
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短編6:監査 - The Audit


地下のバーへ続く階段を駆け降りる。喉元まで出かかった謝罪の言葉を、道すがら何度も反芻した。重厚なベルベットのカーテンをかき分けると、いつもの隅のボックス席に百香里(ゆかり)の姿があった。淡い琥珀色の灯りに照らされた彼女は、ひどく小さく、頼りなげに見えた。


映奈(あきな)! 来てくれたんや、ありがとうなぁ」


バッグを放り出し、革張りのソファに滑り込む。肺の空気をすべて吐き出すようなため息が漏れた。


「ごめん、遅くなって。ひどい渋滞だったの」


「気にしんといて。かまへんよ」


青ざめた顔に、弱々しい微笑が浮かぶ。その消耗しきった様子に、私は息を整える間もなくバーテンダーを呼び止めた。


「ネグローニを。アンゴスチュラを一滴、ロックで」


バーテンダーが去ると、外界の喧騒は霧散し、代わりに重苦しい沈黙がテーブルに居座った。私は身を乗り出し、彼女の瞳を真正面から射抜く。


「本当に私でいいの? こんな話をする相手が」


「うん、映奈の意見が聞きたいんや。甘ったるい慰めは、もうお腹いっぱいやし」


「……で、彼とは?」


「別れたんよ」


百香里は視線を落とした。指先でグラスの縁をなぞり、ダークウッドの木目を虚ろに追っている。


「六年もかけて?」


「うん。あの人、結婚する気がぜんぜんないわ」


「ふうん。契約前に、条件の確認はしなかったの?」


「ううん……」百香里は乾いた、形ばかりの笑いを漏らした。「先の計画まで、頭が回ってへんかったみたい」


私は背もたれに体を預け、彼女を品定めするように眺める。「なるほどね。でも、どこで『損切り』の結論に至ったの? 計画を修正すればやり直せたかもしれない。浮気のような契約違反があったわけでもないんでしょ」


百香里は躊躇い(ためらい)、肩を強張らせた。「そんな単純なことやないの。彼、何かを感じ取ってたんやわ。私がまだ、過去の何かを引きずってるって……彼のことをな」


運ばれてきたネグローニが、暖かい空気の中でじわりと汗をかく。オレンジの香りが、沈滞した空気をわずかに切り裂いた。


「どんな深い愛にも幽霊はつきものよ」


声を潜め、私は続けた。「あなたも自覚はあるんでしょ。最初の男——その残像が、今もあなたの脳内に居座っている。賢い男なら、その違和感を敏感に察知するわ。……ねえ、教えて。どうしてたった一人の『過去の役者』のために、劇場を丸ごと建て直すような無駄な真似をするの?」


百香里が弾かれたように顔を上げた。


「『美しい幻影』を選び、仮面を被って誰も傷つけないようにする……なんて詩的な理論もあるけれど」私は肩をすくめ、まだ手をつけていないグラスを指差した。「はっきり言って、それはただの計算ミスよ。舞台にもういない相手のために、嘘をつき、取り繕い、綱渡りを続ける。そんな関係、とっくに破産しているわ。なぜ六年もかけて、回収不能な感情的負債を積み上げたの?」


「……じゃあ、隠すべきやなかったんかな」


「あなたはカードを伏せた。その結果がこれよ。過去を受け入れられない男なら、六年目じゃなく初日に見限るべきだった。減価償却(げんかしょうきゃく)は、時間をかけるほど残酷に進むのよ」


震える、不揃いな吐息が彼女の唇から漏れる。顔を上げた彼女の瞳には、薄い膜が張っていた。


「……言うのは、簡単やもんね」


自分のドリンクを啜る彼女を横目に、私はネグローニを見下ろした。赤黒い液体の中に、冷徹な表情をした自分の顔が映っている。


「数学が機能するのは、ダメージが蓄積される前に数式を適用した時だけ」


私の声音の変化に、百香里は驚いたようにまばたきをした。


「あなたは六年間、楽だからという理由で漂流を続けた」

まっすぐに彼女を射抜く。「摩擦を恐れて重要な問いを避け、舵取りを彼に丸投げした。これからは、着工前に設計図を精査すること。誰かと付き合う前に、ちゃんと頭を使いなさい」


バーの静寂を、あえて二人の間に沈殿させる。


「いい? 『ノー』は、それだけで完結した一文よ。飾り立てる必要はない。基礎が歪んでいるのに『後で修正できる』なんて期待して家を建て始めないこと」


百香里は長い間、呆然と私を見つめていた。まるで見知らぬ人間を見るような、あるいは初めて真実を突きつけられた子供のような目だった。やがて、数年分の澱を吐き出すような深い息をつくと、彼女は静かに頷き、グラスを煽った。


私は結露で冷たくなったグラスを手に取る。


「美しい幻影はもう終わり」

暗赤色の液体を喉に流し込む。「これからは、明確な境界線を引きなさい」


百香里は濡れた瞳のまま、私の肩に身を寄せた。


「なぁ、映奈の飲みもの、一口飲ませてくれへん?」


「どうぞ」


彼女の指が私のグラスに触れる。ためらいがちな一口。そのとき、冷たい雫が私の手のひらに落ちた。それが結露なのか、彼女の涙なのか、私には判別できなかった。


「……苦いわぁ」


「少なくとも、美味しいふりはしなかったわね」


彼女はゆっくりと私の肩に頭をのせ、そっと腕を絡ませてきた。


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