短編5:くしゃくしゃの紙
「星野先生。弾性エネルギー密度の計算で、剛性にひずみを乗じてゼロから降伏点まで積分すると、積は剛性と降伏ひずみの二乗の積の半分になりますよね。降伏ひずみを『降伏応力÷剛性』と置換すれば、レジリエンスの公式が導き出せる。……でも、なぜレジリエンスは降伏応力の二乗に比例して、剛性に反比例するんですか? これって、微積分的なトレードオフの最適化を暗示しているんでしょうか」
「鋭い視点ね、内田さん。二次の応力項が現れるのは、線形な応力とひずみの関係において、エネルギーが二次の性質を持つからよ。あの『1/2』は、単純な三角形の積分係数。剛性が高まれば降伏ひずみの区間は狭まり、蓄積可能な総エネルギーは圧縮される。最大のレジリエンスを弾き出すには、それらのパラメータを最適にバランスさせる必要があるの」
私は星野先生の言葉を、一言漏らさぬよう書き留めた。鉛筆の芯がノートの表面をリズミカルに削っていく。
「ありがとうございます。……やっと、腑に落ちました」
「よかった。ところで、そろそろ帰ったほうがいいわ。もう随分遅いもの。送っていこうか? 車を出せるけれど」
時計に目をやる。20時45分。
「大丈夫です、先生。まだ、やることがあるので」
「こんな時間に?」
「はい……買い物を、しなくちゃいけなくて」
「本当に? 大丈夫?」
「はい、はい! 全然平気ですから」
星野先生の視線がわずかに鋭くなり、その瞳孔が微かに散大した。私は反射的に目を逸らす。先生はいつだって優しい。けれど、時折、射抜かれるような恐怖を感じることがある。
「……そう?」
「先生こそ、早く帰ってください。こんな時間まで付き合っていただいて、ありがとうございました」
「いいのよ、内田さん。もし何かあったら、遠慮なく相談して——」
「はい! もう片付けますね。お店が閉まっちゃうから、急がないと」
鞄に荷物を詰め込む。唐突に、胸の奥から得体の知れない焦燥がせり上がってきた。方程式の海に潜っている間は、あんなに穏やかだったのに。
「お気をつけて、先生」
ほとんど逃げ出すように、私は部室を飛び出した。先生の存在と、学校の重苦しい静寂を振り切るように。
「傘を持っていきなさい……」
背後で響いた彼女の声は、廊下の闇に吸い込まれて消えた。
スマホの画面に未読通知がいくつか灯っていたが、指をかける気にはなれなかった。玄関まで駆け抜け、そのまま土砂降りの雨の中へ身を投じる。
大通りは深い闇に塗り潰されていた。月も、星も、空の輪郭さえも分厚い雲に遮られ、世界は消失している。叩きつけるような雨粒が顔を打ち、頬を伝う。私は瞳を閉じ、深く息を吸い込み、ただ心臓の激しい鼓動だけに意識を集中させた。雨は、まるで浄化の儀式のように、私に奇妙な安堵をもたらした。
暗闇の中を、ただひたすらに歩く。やがて闇の向こうに、駅の頼りない灯火が見えてきた。その頃には、私は芯までずぶ濡れになっていた。
自宅の玄関に辿り着いた。……なんて言えばいい? どう振る舞えばいいのだろう。
私はドアの脇に力なくしゃがみ込み、ただ震えた。
肌に張り付いたワンピースが乾き始め、布地が強張って冷たく皮膚を締め付ける。
スマホが再び、短く震えた。星野先生からのメッセージだ。
『家に着いたら、連絡してね』
画面に浮かぶその文字を、ただ見つめる。
私は、軋む体に鞭打って立ち上がった。冷え切った指先でドアノブを掴み、鍵を開けた。




