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9 スズ

「元気そうで何よりだよ」


 青井トヨは嫌悪感を露わにしながらそう言った。

 思わず苦笑が漏れる。沖島が青果店に並べられた木箱から橙を手に取れば、トヨは彼女は背の帯にさしていたうちわを取り出して仰いだ。大きな風が沖島に来るのは、わざとだろう。


「そんな邪険にしなさんな」

「お前さんから来るなんぞ碌なことはない。用は何だ」

「急くねえ」


 のらりくらりと果物を手にとって選別を装う。

 トヨが付き合っていられないと顔を背ける前に、沖島は小さな声で呟いた。


「美禰くんのことだが」

「なんだいきなり」

「今、君の孫のところにいるだろう。茶屋の二階に」


 トヨは沖島の横顔を見ていたが、しばらくしてふいと顔を背けた。目の前の葉物を扱う店をじっと見て、うちわを仰ぐ。白髪になった前髪が、さらりと風に乗って流れる。


「ああ。孫に二階を片づけさせて、あの子の居場所を作ってやった。あの子は、私達に恩があると言って、どこの店でも無給で働いていたからね。親を亡くして行き場のないあの子に私達がしてやれたことなど、衣食住を困らせぬようにしていただけだ。家の部屋を一つ貸し、食事を一緒に取って、学習塾に通わせた、それだけだよ。なのに、随分気負って。悲しいくらい聡いあの子は、明るい笑顔で健気に尽くして。どの家にだって一年足らずしかいなかったというのに」

「どの家庭も、美禰くんを追い出したことはなかったらしいね」


 沖島は声を潜めたまま、懐にいるスズを撫でた。

 トヨの眼差しに悲しげな色が差す。


「そりゃそうさ。働き者で、ぽっと光が内側から光っているような、一緒にいて朗らかな気分にさせてくれる子だ。ただ一年経てば、とてもそわそわし始めてな。周りが見ていられなくなるから、誰かが声をかける。今度はうちの商売を手伝ってくれないか? と。あの子は心底ほっとして受けるものだから、誰も引き留めたくともできなかった。どの家も、ずっと居てくれればいいのに、と思っていたに違いないよ。私がそうだった」


 トヨの口調は柔らかく、そして憂うように、美禰のことを語る。

 自分の息子にも孫にも厳しいというのに。

 沖島は漏れそうになる苦笑をどうにか押しとどめた。昔からら、トヨは少しでもからかうとぴしゃりと戸を閉めるようなところがある。


 まあ、一日も経てばそれも水に流してくれるのだが、今はもう少し踏み込んだ話をしたかった。


「美禰くんはここの住人が慈しんで育てたようなものだからねえ」


 沖島がのんびり言うと、トヨが鼻で笑う。


「なんだい。結局何の話をしにきたのさ」

「うん、その美禰くんだけどね、今度は私が預かることになったから」


 皺の刻まれた目尻まで大きく見開いた。口がわなわなと震える。


「なんでお前さんが」

「トヨちゃんに無駄話は不要だね。率直に言うと、私が預らなくてはならない状況になった」


 沖島はトヨに向き直った。

 彼女の顔に動揺が過ぎり、白い顔がより蒼白になる。


「何があった」


 ぎりりとうちわの柄を握る様子で、彼女が察していることに気づいた沖島は、追い打ちを欠けることを躊躇った。それでも、言わなくてはならない。


「昨夜から青井くんが、アルバイトの佐紀子くんと行方不明だ」

「昨夜?」


 トヨはその言葉で、頭を抱えた。小さいうめき声が漏れる。


「祭祀の夜か。美禰は。美禰は無事だったのかい。一緒にいただろう」

「結果的には」


 沖島の返答に、トヨは覆った手で顔を撫で、眉間に皺を寄せた。


「なんてことだ」

「幸いにも、美禰くんには記憶もない。筒木からは謝罪は受けているよ」

「社か――逃げたんだね」


 トヨは強く瞑った目を、ゆっくりと開いた。深い絶望と諦めが浮かぶ。


「ああ、久しぶりの脱走だよ」


 言い、ふと思い浮かぶ。

 十年前もそうだった。


 祭祀の夜に、壷が割れた。

 あの日も同じように蒸し暑く、そして不快だった。

 皆が家路についたのを見計らって、沖島は寺の階段を下りていた。筒木が血相を変えて走ってきたのを、コクヨウがいち早く気づいて尾を立てたのを覚えている。


 あのまっすぐに伸びた尾。

 コクヨウの鈍く光る目。開いた瞳孔。

 沖島は、走りくる筒木の顔を見ながら、凶兆を予感した。


 老朽化だ、ということになったのは、五つ並べられていた壷の、真ん中の薄墨の壷だけが、その場で綺麗に真っ二つに割れていたからだ。


 近寄ることのできない沖島に、筒木は風呂敷に包んでいた壷を見せた。

 半分に割れたそれは、内側が真っ白だった。

 二人で顔を見合わせて、そこに緻密に埋まっているはずの文字がかけらも見当たらないことに当惑した。足下で、コクヨウがフーッと威嚇を始め、再び顔を見合わせた。


 壷も、盤石ではないと知ることになった出来事だった。

 大体閉じこめて三十年。最近はそれ以上は保たない。以前はそうでなかったのは、閉じこめたものが三十年もすれば自然消滅していたのかもしれないし、そこまで凶悪なものではなかったのかもしれない。年月が経てば経つほど、まるで蠱毒(こどく)のように純然たる狂気を育て、あの壷では対応できなくなっている。どうにか、一番弱っている時を見計らって、新たな壷に移すことで、壷割れるのを未然に防いでいた。


 だと言うのに、今回も割れた。

 いいや、筒木は失せたと言った。

 奥座敷に破片はなかったのだ。



「なんてこと」


 トヨは弱々しく繰り返す。

 今、老齢の彼女を貫く絶望は深く、逃げおおせた奴がこの町の夜に潜んでどこかにいるというおぞましさに、脂汗を掻いている。


「あの子は、もう帰っては来ないんだね」

「残念だが、そうなる」

「あのときと同じか」


 同じ。

 沖島は、その言葉が頭の中に同時に弾け、思わず鈴を抱く腕に力を込めていた。

 眠っていたスズが、びくりと身体を揺らす。

 トヨがぼそりと呻いた。


「十年前、祭祀の夜だというのに、不運にも如月家はうちわを玄関に刺しておらんかった。どうして忘れたのかと誰もが不審がったが、家から出て転がっていた美禰がそれ抱いていたのが不幸中の幸いだった。まさか十年経って、自分の孫が同じ目に遭うなど。あんなに、祭祀の夜は気をつけるように言い聞かせてきたというのに」


 同じ。

 今回割れたのは藍色の壷。

 十年前、残滓を吸い取ったのは渋色の壷。まだ壷を変える時期ではない。ということは、別のもののはずだ。しかし、なぜ「同じ」という言葉がこんなにも引っかかるのだろう。


「沖島?」


 トヨが怪訝な表情で見上げてくる。

 と、羽織がふわりと膨らんだ。

 スズがとんと降り立り、尾を揺らす。

 スズの茶色いトラ模様の小さな背を、沖島はまじまじと見つめた。自ら人前に出ることなど、何年ぶりだろう。


 驚いているのは沖島だけではなく、トヨもだった。

 目をくりりと見開いた顔は、幼い頃に初めてシロを見た時に見せた純粋な驚きを彷彿とさせた。一気に懐かしさがこみ上げる。

 美しいガラスのようにきらきらと光る好奇心を滲ませた瞳を、幼い彼女はシロに向けていた。髪は黒く、後ろできつく結っていて、母親の仕立てた着物に朱色の兵児帯をしていた。


 おきしませんせ、触ってもいい?


 そう聞いてきた無垢な瞳と同じものが、スズを見ている。


「ケモノ。初めて見る顔だ」

「あまり出歩かない子でね。シロはよく連れてるし、コクヨウは十年前見ただろう。この子は、スズだよ」

「スズ」


 トヨが繰り返すように呼ぶと、スズはたっと前足を伸ばした。トヨの膝の上に飛び乗る。驚いて身を固くはしたが、トヨが振り払うことはしなかった。彼女はか弱きものに対する庇護心が飛び抜けてたかい。身よりのない美禰をこれからどうしていくべきか、彼女がレールを引いてやったからこそ、なんの問題もなくやってこれたことを、沖島はよく知っていた。


 スズは、トヨが恐る恐る出した手のひらに、ふんふんと鼻を近づけた。そして、顔を擦りよせる。

 と、突然、トヨの目から涙が溢れた。

 堰を切ったようにこぼれるそれは、彼女の皺だらけの手に乗せられたカフスボタンを濡らしていく。青い石のはまったそれが、悲しく輝いている。


 沖島はやっとスズの行動が理解できた。

 スズは、青井の形見をトヨに届けにきたのだ。家からでない臆病な末っ子が、美禰に頼まれた青井探しのためではなく、もう居ぬとわかっていた青井の形見を探すために付いてきていた。


「スズ、おいで」


 沖島が声をかけると、スズはトヨから降り、沖島の腕に飛び乗った。額を撫でてやる。スズはそれでも、トヨをじっと慰めるように見守っていた。



 すん、と鼻を鳴らして、トヨが頭に巻いていた手ぬぐいで顔を拭ったのは、それから数分後のことだった。

 沖島は籠一杯に、梨や柿を見繕っていた。もう一つ、赤々とした柿を手に取る。

 トヨが赤い目をゴシゴシとこすりながら睨みあげた。


「まだいたのかい」

「買い物中なだけだよ」

「ふん」


 鼻で笑うように、少しだけ表情を誤魔化して、トヨが籠を引ったくる。

 紙袋に数えながら入れ、「千五百円」と沖島に手を向ける。

 財布を取り出そうとすると、スズが羽織の中に潜り込んだ。トヨ以外の前に姿を現すつもりはないらしい。左腕でスズをもう一度抱え、支払いを済ませる。


「ケモノ」


 トヨは、沖島の懐に向かって声をかけた。

 スズが身じろぎ、顔だけをひょっこりと出す。


「ありがとう。これはお前の分だよ」


 と、紙袋に黄桃を入れた。


「お前の主人は食べられないがね」


 ちらりと皮肉めいた笑みを見せるトヨに、沖島は安堵した。


「大丈夫そうだ」

「伊達に長く生きちゃいないよ。こんな不条理な出来事など、昔は多くあったもんだ」


 沖島は頷く。


「時代は静かに変わっていくからね」


 そう、変わっていく。

 昔はうじゃうじゃと小さくばらついて潜んでいた奴らも、いつからか秀でたいと貪欲なり、お互いを結びつけ、大きくなっていった。単体のときには弱っている人間だけを見抜いて忍び込み、必要な養分だけを吸い取って出て行っていたというのに、複合体になるとまるで制御ができず、むやみやたらに力をふるうようになった。


 そうして粛正されるようになると、それ以上の力を得ようと進化する。生き残ろうとより狡猾に隠れ、知能まで身につけていく。


 こちら側も、生き残るために手段は選ばなくなる。

 あんな壷まで用意するようになった。いつまでも終わらない鼬ごっこが、もうどれくらい続いていることか。



 沖島は自覚なく疲労感を滲ませた目で紙袋の果物を見下ろしていた。つるりとした柿の表面に、自分の影が映り込む。 

 トヨが小さく笑い、手ぬぐいを頭に巻き直した。


「今の平穏は誰かさんのおかげだと言ってほしいのかい」


 ああ、とぼんやりと返事をし、沖島は頭を振った。


「いいや。私はなんにもしてはいない。いつだって人任せさ」


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