10 残り香
「よく言うよ」
「本当のことだ。トヨちゃんにも任せてしまって申し訳ない」
沖島はゆるく微笑んだ。
トヨがしみじみと息を吐き出す。
「ああ、佐紀子のところの親だね。あそこも随分前には餌にされた親族を持っておる。受け入れ難かろうが、理解は示すだろう」
「皆、忘れつつあるね」
ここがどんな町で、何に寄り添って生きてきたのか。
夜に生きるとは、どういうことなのか。
潜むものが大きくなり力を持ってしまうと、人々の目に入らなくなってしまう。意図して忘れ、見て見ぬ振りをしていくと、本当に見えなくなってしまう。祭祀で巫女が大きな黒い塊を相手に舞を踊る意味を、考えなくなってしまう。
「だからこそだろうよ」
トヨが呟く。
「忘れないように、あれは逃げ出したのさ」
沖島はその言葉に頷かず、トヨの肩を軽く叩いて青果店を後にした。
再びすぐ近くの路地に曲がる。
トヨの言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
空を旋回する白い凧のように。
どうしてかそれは青空で、足下には稲刈りの終わった冬の田圃に残された、ざくざくと枯れきった藁を踏んでまわっていた。近くにはずらりと三角帽のようにまとめられた藁が点在している。子供の声が空に響いている。沖島はぼうっと空を眺めている。手には果物がたんまりと入った紙袋を持ったまま。
何も描かれていない白い正方形の凧が、晴れ渡る空でひらんひらんと風にあおられながら、頭上で旋回している。
同じもの。
忘れないように。
美禰は無事だった。
十年前も、今も、あの子は加護を持っていた。
沖島は夢想を打ち破ると、光を遮る暗い路地を足早に抜け、醤油で甘辛く魚を炊いたにおいのする三番通りへ出た。
夜になれば、石畳を挟んだ一方は立ち飲み屋の暖簾の下で大人たちが所狭しと並び、もう一方では食事処で家族連れで賑わう通りだが、今は仕込みの店主がカウンター内で黙々と作業しているだけだ。おでんのにおいのする店の前を通り過ぎ、準備中の立て札を掛けている、小料理屋の提灯の下がる店の前で立ち止まる。
沖島は片方はスズを、もう片方は果物の紙袋を抱える両手を見下ろすと、引き戸の格子に下駄の先を引っかけて開けた。
「読めなかったんか。準備中やぞ」
しゃがれた不機嫌な声が返ってくる。
清潔感ある白を基調とした和の内装の店の奥で、テーブルを拭いていたごま塩頭の店主が顔を上げた。
沖島と視線がぶつかる。
沖島は人当たりのよい笑みを浮かべ、軽く首を傾げた。
「ちょっといいかな、田淵くん」
「なんだ、先生。朝定食なら終わったばっかりや。寝坊でもしたんか?」
田淵は四角く厳つい顔を、珍らしく少しだけ綻ばせて笑った。沖島が左で何かを抱え、右手には紙袋を抱えている姿を見たからだろう。
「朝から大荷物だな」
「ちょっと買い物をね」
「そら珍しい。三食外食の先生が?」
「うちで美禰くんを預かることになったんだよ」
そう告げると、田淵は糸のような目を見張った。
「何かあったんか」
「ああ、昨夜ね」
「祭祀の夜か」
田淵は深いため息を吐き出すと、腰に手を当てた。
「そうか……十年ぶりやな」
「あの時は君にも協力してもらっていたっけね」
「主に人払いやけどなあ。子供たちに見せんように。あれは酷かった」
田淵は店の天井を仰いだ。
沖島もなんとなく視線をあげる。
店の鴨居にはあちこちに書が掛けられているが、あまりにも達筆のせいか、判別が不能だった。毎日顔を出しているが、未だにその書が誰のものかを聞いたことはない。
「それで、用件は」
「トヨちゃんに根回しを頼んでいるんだが」
「わかった。後で顔を出して手伝っておく」
「君が居れば、スムーズに進むだろう。頼もしい自治会長さん」
「単なる年功序列やわ」
「この町は大人が守っているようなものだよ。小さい彼らからは、どんどん感知する力が減っている。まるで無防備だ。これは進化なのか、退化なのか」
自分が介入しすぎたせいなのか。
種が存続のために交配を繰り返し、弱点を克服して生き残る知恵をつけていくのは、外敵の存在があるからだ。自分たちが預かり知らないところで外敵が排除されていけば、抗う力は生まれないだろう。
沖島はぼんやりとミミズが這ったような字を見上げ、あれは結局なんて書いているのだろうか、とどうでもいい事も考えている。二股に分かれた思考を、田淵が、本当になあ、としみじみと呟いて打ち破った。
「知らないと言うのは、恐ろしいことよ。まあ、しかし、先生よ。この町の子は、この町の子やわ。確かに知らないし感じられくなっとるが、血は瓦町のそれが流れとる。美禰を見てみい。あの子は、生まれながらに自らを守る術を知っとるわ。子供たちの目をじっと見とったら、こん子らは、見えなくなった相手に必要な対応しているだけだと思うんよ。本当は知らんでいいことなんやけどね。あんなのがうろつかないのが一番だ」
厨房の外にいる田淵は、饒舌で人当たりが柔らかい。
職人堅気な顔で料理を出す無口な田淵は、近所の子供たちに怖がられているが、根はとても人に誠実で、義理堅い。
沖島は田淵の顔を見て、目を細めた。
「そうだね」
「まあ、住民への根回しは任せとき。トヨ婆が動くなら、誰も口はださんやろう」
「本当に頼りがいがあるよ、君たちは」
「そらどうも。先生に鍛えられたからな」
「私はなにもしていないよ」
沖島はそう言うと、じゃあ、と店を出ようとした。
「先生」
田淵が引き留める。
「先生は、あの子といて大丈夫なんか」
田淵は、真っ直ぐ見ていた。
沖島は微笑みを絶やさず、その目に頷いた。
「大丈夫だよ。神に誓って――というのも、変な話だが、私はあの子を傷つけない。君はよく知っているだろう」
田淵は返事をしなかった。
ただ悲しげに、視線を落としただけだった。
○
「嘘でしょう、先生。何しに行ってたのよ」
帰って早々、美禰は玄関で沖島を呆れ顔で見下ろした。
スズは石段を登りはじめると懐から飛び出し、さっさと家路について美禰の後ろからこちらをのぞき込んでいる。
これで、手荷物一つしか持てない虚弱な男の出来上がりだ。
「しかも、お野菜じゃなくて果物じゃないの」
「仕入先やトヨちゃんには、君を預かることは話してきたよ」
「ありがとう」
沖島が袋を差し出すと、美禰は受け取って、ちらりと見上げてきた。
「で、食材の買い出しは」
「それがどうもよくわからなくてね」
飄々と言って家に入る沖島の後ろを、美禰がついてくる。
「わかった。買い出しもあたしに任せて。食べたいものはなにか教えてくれる?」
「ああ。シロは帰っているかい?」
「先生、聞いてないわね」
「黄桃だけ残しておいてくれれば、後は好きに食べていいよ。あれは猫たちのだから」
「シロさんなら先生の部屋に行ったっきり、出てこないわ」
「わかった」
美禰の話を半分以上流し、さっとリビングを横切って寝室へ廊下を進む。
家についた途端、シロの気配が余りにもか細いことに、気にかかっていた。まるで家にいないようだ。
薄暗い廊下の左手に、障子が細く開いていた。
入ると、沖島の引いたままの布団の上でシロが丸まっている。
「シロ」
声を掛けると、彼女は目を開け、小さく鳴いた。
すぐにそばにより、仕舞い込んでいた尾の付け根を優しく握った。
沖島の背から、ゆるゆると紫煙のような影が立ち上る。三つの尾へと形を成したとき、沖島はシロの尾を握る手に力を込めた。シロが身構えるように身を固くする。
そのまま、一気に引き抜くと、カラカラと音を立て、尾の先から破片が落ちる。
布団の上にばらまかれたそれは、十もあった。
沖島は顔をしかめる。
「無茶のしすぎだ」
シロは、ケフケフと咳込み、丸めていた身体を伸ばした。前足が宙を掻く。すっきりしたような顔で、何事もなかったように沖島の膝の上に乗る。労いを込めて顎を優しく撫でてやると、彼女は顔をすり付けてきた。軽く抱きしめ、とんとんと身体を叩く。
「駄目だよ、これはまだ呪詛も消えていないのだから」
沖島は布団に落ちた欠片を摘んだ。
ぎっしりと小さな文字が羅列している。破片の周辺を撫でると、ざらざらとした白い質感のそれが指先に刺さるようだった。
シロが鼻先で、沖島が掴んでいた破片を落とす。
「ああ、わかっている。ご苦労だったね。ただ、こんな無茶だけは今後許さないよ」
軽く睨み下ろした沖島の嘘偽りのない陰った瞳を、藍色の双眸がきょろりと見上げる。
「わかったね?」
シロが髭をひくひくと動かす。
「本当にわかってるんだか」
笑むように目を細めるシロは、最後に沖島の頬に軽くすり寄ると、用は済んだとばかりに寝室から出ていった。気ままな彼女らしい。
沖島は、部屋の隅に置いてある書き物机の引き出しを空け、がさごそと手を突っ込んだ。次の引き出しも同じように引っかき回し、最後の一段の日地番深い引き出しに手を入れる。
こつん、と指先に当たったそれ手繰り寄せて発掘したのは、金色の蓋のついた丸いガラス瓶だった。
随分懐かしい。
沖島はそれを両手で持つと、そのままごろりと寝転がった。
天井に向かって翳す。
はい、これ。あげる。
彼女の声は涼やかで、人に安心感を与えた。
住人の皆は彼女のことを好いていて、慕っていた。沖島も例外ではなく、彼女の穏やかな瞳に自分が映り込んでいることが、情けないくらい嬉しく感じたものだった。
彼女はこの瓶に、思い出を入れておくと言って、蓋を開け、入っていた大量のキャンディを床にばらまき、蓋を閉めた。
何をしているのかと沖島が不思議そうに見ているのを、彼女はくずぐったそうに笑いながら見ている。
そうして、彼女はいたずらに目を細めて言ったのだ。
今日の空気を閉じこめたわ。思い出よ。はい、これ。あげる。困ったときに開けてね。
沖島は寝転がったまま、瓶の蓋に手を掛けた。
自分でも驚くほど、躊躇いはしなかった。
かぽん、と蓋が開く。
沖島は、顔の上で逆さまにして、そこから何かが流れてくるのを待った。
何も出てきはしない。
わかっている。
わかっているのに、落胆とも淋しさともいえるような複雑な感情が胸のあたりで暴れる。
沖島は目を閉じて、瓶を腹の上に置いた。
大事に大事に取っておいたのかと聞かれれば、素直に頷くことはできない。現にどこにしまい込んでいたのかも覚えていなかったわけだし、こんなことで簡単に開けてしまった。
悲観的な気分にならないのは、彼女が渡してきたものが多かったからだろう。追い出そうにも追い出せないほど、記憶というものはものよりも厄介だと知らしめられた。
目を閉じて、少しでも彼女の破片を手繰り寄せようとすれば、それがたくさんの記憶を引き連れてきた。そのたびに、過去に連れ戻されそうになる。
それから目をそらし始めたのは、一体いつからだろう。
もう彼女を思い出すことを無意識で避けていることも、自覚していなかった。
沖島の鼻先に、風が柔らかく触れる。
むせかえるような甘い匂いに気づいた瞬間、頭の中にコロンとした花が咲き乱れ、沖島の思考を乗っ取った。




