11 柊
その花は金木犀によく似ているが、白く小さな四枚の花びらはくるりと外側に反り返り、身を寄せ合って葉に隠れている。葉の縁は鋭い棘となっていて、触れると疼くそうだ。彼女はいつも涼やかに笑って、その花を摘んできた。
痛くはないのかい。
沖島が聞くと、彼女は沖島の背中に花びらを並べながらくすくすと笑う。
あら、物知らずね。
背中がむずむずとする。
うつ伏せになって本を読む沖島は、それでも動かなかった。
彼女が楽しそうに、数字を数えている。
とーう。あら、十も乗ったわ。
そう。
沖島の生返事に、彼女はまた笑う。
つれない。つまんないじゃないの。
肩にずしっと心地よい重みが加わると、沖島は文庫本を置いて彼女の髪を撫でた。ふふふ、と喉元が震えている。
彼女は指先を沖島の目の前に差し出した。
綺麗な爪が、ランプに照らされる。
指先に咲く白い反り返った花からは、ほんのりと甘い匂いがした。
これは柊の花よ。
庭のね。
私の家の庭の、柊の花。老木だけど、毎年花を咲かせてくれる。柊の葉は鋭利な棘を持っているけど、年を取って老木になれば葉が丸くなっていくの。人みたいでしょう? ね、誰かさんみたい。
へえ、誰だろうねえ。
あら。私の愛する人よ?
彼女が肩を揺さぶる。背中から、柊の花が布団に落ちていく。
大丈夫。あなたも時間が経てば丸くなるわよ。
彼女はそう言ってからかって、沖島の長髪を指で梳いていた。
優しい指を捕まえて、肩を引き寄せる。
彼女が笑う。気を許した笑みで、慈愛に満ちた瞳を自分に向ける。満たされた幸福が、夜に包まれた部屋の中にふわりと芳香を放つ。
ハッと目を開けたのは、持っていた瓶を落とした衝撃からだった。
腹に落ちたそれは、床に落ちて転がっていく。
沖島は目を見開いたまま、浅い息で天井を見上げた。
自分の息が、静かな部屋の中で大きく響いている気がして、ゆっくりと呼吸を整える。身体中に血が巡り、ようやく指先に感覚が戻ってきた。
ひんやりとした額に張り付いた髪を掻きあげ、畳に転がった瓶を見つめる。
瓶は何事もなかったように、ぽっかりと口を開けて沖島を見ていた。
「――なんて酷い悪戯だ」
呟き、瓶に手を伸ばす。
指先で引っかけて取ると、沖島は瓶の口に鼻を近づけた。
もう残り香の欠片もない。
空気を閉じこめただなんて嘘を、よくあんなに無邪気についたものだ。彼女らしいと言えば、彼女らしい。
けれどそれは確かに、思い出だった。彼女は、これを開けるときが来ると思っていたのだろうか。
瓶を両手の平で転がし、柔らかく撫でる。
彼女の不意打ちの悪戯に、生きた心地がしないほど揺さぶられたことに対するほんの少しの憤りと懐かしい喜びが、ない交ぜとなって波紋のように広がっていく。
そしてそれがやがて、喉を裂くような寂しさへと変わることも知っている。
沖島は波紋が身体の隅々に行き渡る前に、振り切るようにごろりと腹這いに寝転がった。
布団の上の欠片と、すでに拾っていたものも一緒に瓶の中へ入れる。
からんからんと落ちた藍色の破片の間に、水のような液体が染み出てきた。すかさず蓋を閉めると、欠片はすべて包み込まれ、文字を溶かし始めた。
呪詛は黒い炭のように瓶底に溜まる。
じっと眺めていると、炭は突如湧き出てきた白い花に包まれ、消失した。花は欠片の間をするするする撫で回し、新しい文字を破片に刻む。
有無を言わせない優しい力が、大きな波となって瓶の中で力を振るっている。
なんとも物騒な力を仕込んでいたようだ。
思わず笑みがこぼれる。
これこそ、彼女だ。
たおやかで、誰にでも気さくに接するが、本質は絶対に触れさせなかった。どこまでも漲る力を影の中に綺麗に隠して、彼女はいつも柊の花の香りを纏っていた。人々を愛し、邪なものを恐ろしいほどの清廉さで屈服させた。
誰もが、彼女を「先生」と呼んだ。
「先生」
廊下の奥から、美禰の声がした。
沖島は掛け布団を寄せ、瓶を隠す。起き上がり、ひょいと部屋から顔を出した。
「どうした?」
美禰がエプロンの裾を掴み、じっと上目で見てくる。
「うん?」
「あの、今大丈夫?」
「ああ」
「柿、一緒に食べない?」
なんでそんな一生懸命な顔で、と思ったのが顔に出たのか、美禰は慌てて声を張った。
「いいじゃない、先生が買ってきたんだから、一人で食べるのはどうかな、と思っただけなの」
照れ隠しがなんと下手なことか、最後は睨みあげてきたので、沖島は眉を下げて笑った。
「そうだね。折角買ってきたんだし、みんなで食べようか」
リビングに行くと、部屋が広くなっていた。
壁に埋まる作り付けの棚に無造作に放り込んでいた物がすっきりと整理整頓され、さらにどこから出してきたのか、小さな猫の置物まで細々とレイアウトされている。混沌としていたリビングダイニングが、見事に洋室への憧れが投影した和洋折衷の空間へと生まれ変わっている。
沖島はぽりぽりと頭を掻いた。
「これはまた綺麗にしてくれたね」
感心が込められた声に、美禰がほっとしたように顔を綻ばせる。
「大変じゃなかったかい」
「平気よ。あたしの好み全開ですけど」
「いいや。居心地いいよ」
沖島は、ダイニングの椅子に座る。
テーブルの横では、三匹が仲良く肩を並べて桃を租借している。
満足げに細められた目が、きらきらと光っていた。
「彼らも嬉しそうだ」
「みんな桃が好きなのね。たまに買ってきてもいい?」
「そうしてくれると助かるよ。私はそれに触れないからね」
美禰は前に座ると、きょとんとする。
「先生アレルギーでもあるの?」
「そうだね。そんな感じかな」
「適当ね。ご飯の支度するからちゃんと申告してくれないと困るわ。アレルギーって怖いのよ?」
美禰の怪訝な表情を見ながら、沖島は綺麗に剥かれた柿に手をつける。歯ごたえのある柿はしっかり甘い。
「うん、甘い。美味しいよ」
「先生」
「アレルギーというか、桃とハーブが駄目かな」
「ハーブ? あの、乾燥した西洋の薬草?」
「そう。一度お茶で飲んだんだが、駄目だったね」
薬草には慣れているから平気だろうと、舐めてかかって飲んでしまって三日三晩寝込んだのも、遠い思い出だ。彼女が笑いながら看病してくれた。
こればっかりは私はなにもできないから、頑張って。
そう言って、膝枕をして額を撫で、歌を歌っていた。
「へえ。そうなんだ。わかった、覚えておくね」
美禰の声が耳に届き、頭の中の彼女の声が霧となって消える。
沖島は、機械的に手を動かして口に柿を押し込むことで、内心の動揺を隠すことに成功した。
いけない。あの瓶の蓋を開けてから、彼女の記憶が不意打ちにのように襲いかかってくる。それはあまりにも鮮明過ぎて、日常と錯覚してしまいそうになるほどに。そうして目が覚めた後には、ぬるく幸せだった現実が確かにあったことを思いだし、胸の奥が疼くように痛んだ。
美禰が目の前で座っていることを強く自覚しながら、柿を咀嚼する。
と、沖島の足を何かが撫でた。
テーブルの下を見ると、スズが前足で沖島の足を叩いている。
彼女の桜色の瞳に、慰めが浮かんでいる。
沖島はちょいちょいと手招きをして、スズを膝の上で抱いた。気遣いに感謝を込めて小さな額を撫でていると、今度はずしんと肩に衝撃がきて、重くなる。
頬にすり寄ってきたのはシロだった。手を回して、首を撫でると、ごろごろとのどを鳴らす。
コクヨウはテーブルに飛び乗ると沖島の顔を一瞥して、くるりと尻を向ける。ついでなのか、それともたまたまなのか、コクヨウの尾が沖島の顔にふわりと触れていった。
すぐさま美禰の隣に座り、手に額をすり付けている。
「先生、モテモテね」
美禰が、胸にスズを、肩にシロを乗せて猫に戯れられている沖島の姿を見てくすくす笑う。
「君こそ。コクヨウのお気に入りだ」
「本当? だったら嬉しいな。コクヨウさんとってもイケメンだもの」
美禰はくしゃりと笑い、コクヨウをわしゃわしゃと撫でた。まんざらでもない顔で、コクヨウは小さく口を開けて鳴く。
「それはそうと大志くんは?」
「玄関に荷物を置いたら帰っちゃったわ。躓かないように、石段まで送っていってあげたわよ。先生の家が暗すぎるってぼやいてたわ」
「言いそうだねえ」
いつものようにぶっきらぼうな物言いで、美禰が照らす足下を、美禰が転ばないように注意しながら歩く青年の姿が目に浮かぶようだった。
大志の家は、ぼろぼろだった美禰を最初に受け入れた家だ。彼にとっては同い年だろうが、妹のように思っているのだろう。庇護の対象であり、いつまでも放っておけない弱者なのだ。
美禰はそれを甘んじて受けることはなく、むしろ美禰こそ大志の世話をよく焼いていた。
沖島かま最後の柿を口に放り込むと、スズとシロは揃って飛び降りて、出窓へと向かった。
調和のとれたリビングを、心なしか嬉しそうに横切る。雑多にしていたことをほんの少し申し訳なく思った。
「美禰くん」
「なあに」
「片づけの極意はあるかい」
至極まじめな顔で聞いてきた沖島に、コクヨウを撫で回していた美禰がまん丸い目を向ける。
ぱしぱしと瞬きをしたかと思うと、吹き出した。
「先生どうしたの。足の踏み場さえ確保しておけば、後はどうでもいいって感じだったじゃないの」
「正解だ」
「そんな驚いた顔しても駄目よ。見ればわかるんだから。無頓着だけど、この子たちのための生活水準だけはなんとか守ってきた感じでしょう」
「それも正解だ。すごいね」
「だって、物に対する愛情がないもの」
美禰は目を伏せて、軽やかに言ってのけた。沖島は今度こそ本当に驚いて、美禰をじいっと見つめた。
「君はそう感じたのかい」
「え、なに? 駄目だった?」
「いいや。そんなこと言われたのは初めてで」
「ふうん? 沖島先生って、この子たちにはすっごい愛情持ってる割には、物に対して……ううん、なんていうのかな、消耗したり、役目を終えた物に対して適当でしょう。新聞積み上げてるの見たらわかるわ。資源ゴミにもしないし、窓拭きに使ってもいないし」
「新聞で窓を拭くのかい?」
沖島は身を乗り出して聞いていた。
美禰はまた目を丸くして、笑う。
「そうだよ。拭くの。綺麗になるのよ。新聞も使い道って案外たくさんあるのよ。湿気取りにもなるし、野菜の保存にも適してるの。先生にとっては読み物だけど、それだけじゃないんだから」
諭すように言う美禰は、もう悲しさを大人のために必死に隠している小さな子供ではなかった。
「へえ、大きくなったね」
「何言ってるの」
やや呆れた眼差しで、首を傾げる美禰に、コクヨウが同意を示すように頷く。
「先生はいつもぼんやりしてるのね。ねえ、コクヨウさん」
「わかった。これからは物にも敬意を払うよ」
「そこまで?」
美禰がからからと笑う。
その顔を、沖島は優しげに眺めていた。




