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36 響


「沖島」


 気づくと、轍がいた。

 見下ろし、いつも通りの達磨柄の甚平を見やる。

 仏頂面をした幼い顔の頬には、再会に浸った後の幸福が浮かんでいるように見えた。泣きぼくろの上の目をじろりと動かし、少年が見上げてくる。

 いつにも増して同情の色が濃いその目に向かい、沖島は微笑んだ。

 轍の表情は厳しくなり、今度は口を歪めた。


「おまえ、本当に信じられねえわ」

「おや」

「心外って顔すんな、白々しい」

「中々ひどいね。手厳しい」


 くだらない話をしている暇はない。

 そんなことは、轍とて承知している。早々に話を切り上げようとしていたが、美禰と大志が未だに沖島の尾に守られているのに気づきて、ほんの少しだけ表情を変えた。


「あれは」

「私がしているようでいて、そうではないんだよね。彼らの意思だよ」


 轍はわかっていたように息をもらした。

 少年の容貌には似つかわしくない気苦労を感じるものだった。


「あいつらのってことは、響のだろう」

「そうなるね」

「まだ身が危険だと?」


 こちらを見ずに怒気をはらんだ声で、轍は吐き捨てた。

 沖島はそれにはなにも返さず、肩をすくめるだけにとどめた。答える気がないのは轍も承知のはずだ。

 轍はガリガリと頭を掻いた。

 可哀想に、その小さな双肩には背負っているものが多すぎる。


「ああ、そうだ。有紗くんは悟ったようだよ」


 沖島の追い打ちに、げんなりとした顔が鬱陶しげに沖島を見据えた。


「今、それを、言うのかよ」

「君が随分私を心配してくれているようだから」

「嫌味だよな?」

「ふふ」


 沖島は笑って流した。

 後ろから彼女がどんどん近づいてくるのを感じながら、轍の背を押す。


「君は君のすべき事に専念しておいで。筒木と倉本くんが君の帰りを待っているし、大志くんの両親への説明も、美禰くんの様子も見なければならないだろう? ついでに、出ていった有紗くんが無事()()()の思惑通りに戻ってきたのだから、向こうの引き上げもしてこなければね。まあ、そのあたりは田淵が引き受けてくれるかもしれないが。おや、結構大変だ。大丈夫かい?」

「嫌味だろ」

「とにかく」


 苦笑をかみ殺する轍の肩をとん、と押す。


「大丈夫。私は、大丈夫だよ」


 轍はどうしてか真剣味を帯びた瞳をほんの少しだけ揺らしたが、そのまま肩の奥を見て、決心したようにその場で足を後ろに引いた。白鼠へと姿を変えて飛び、肩をかすめる。

 轍の心に触れる。その心根の優しい気配を霞のように消し飛ばすほどに、彼女の持つ熱量を秘めた静かなる意思が、煌々と夜空の下で輝きながら迫ってきている。


 とうとうここまできたか。


 沖島の肩に、何かが触れた。

 羽織だった。肩に淡い色のそれがかけられたことに気づき、飛んでいったのが随分昔のように感じる。実際には、一時間も経っていないだろうに。

 美禰からそれをかけられたのも、ずっとずっと遠い記憶のようだ。

 その時なぜか、内側で荒れ狂っていた感情の波が、ぴたりと静止するのを感じた。

 沖島はゆっくりと振り返る。


 響が立っていた。


 昔と同じように、沖島の頭一つぶん下で、艶やかな髪を無造作に後ろに流して、着物を着て。

 彼女が全体的に白く透けているのを除けば、響は何事もなかったように存在していた。視線を下に落として唇をほんの少しとがらせているのも、何一つ変わらなかった。今にも「だからね、田淵の口べたさはどうかと思うの」など、昔からたらたらと言っていた言葉が、その唇からこぼれ出しそうだった。


 それに、どう答えただろうか。

 彼女は人に慕われ、人を愛し、毅然とした姿でカゲを容易く祓っていたが、心寄せる人の前では、どこか子供のような無邪気さと愛嬌を惜しげもなく見せることがあった。そういうところが、彼女の兄弟と呼ばれる彼らを惹き付けて仕方なかったのだ。


 響がふと思い出したように顔を上げる。

 どんぐりのような目が、沖島を見つけて、優しく細まった。

 喉につかえていた声が押し出される。


「響」


 その名前を口にした途端、自らを縛る感情が、解き放たれたよう全身に血を巡らせた。カッと全身が熱くなり、だというのに頭は冷静だった。その片隅で、沈み込めていた記憶が戻ってくる。

 彼女と話をするときの、甘い幸福が。


「どこに隠れていたんだい」


 響は細めた目を軽く伏せて、睫毛を振るわせる。

 その仕草一つに、時間が一気に巻き戻っていった。

 響は唇をうっすらと開く。



 あの子たちの中に。そして、あなたの中に。



 穏やかな声が、頭の中で水面を揺らすように響きわたる。

 沖島が首を傾げると、響も似たようにこっくりと首を傾げた。


「相変わらずだ」


 答えているようで、全く答えていない。

 微笑んではぐらかす姿は、間違いなく沖島の知っている響だった。

 


 何か言いたいの?



 響がくすくすと笑う。

 沖島はあまりの懐かしさに、頬がゆるむのを感じた。


「そうだね。言いたいことならたくさんあるよ。私をコクヨウから引きずり出しておいて、自分はお役御免と逃げおおせた後の私たちになにが残されたのか。それをする前に考えたことがあったのかな」



 ないわ。



 きっぱりと言い切る。

 その表情は清々しかった。自分の影響力を軽視しているのではない。知った上で、それを行動に移したことに対する罪悪感など微塵もないのだ。沖島は腕を組んだ。


「それは酷い」



 ふふ。そうね、酷い。

 


 本当にそう思っているのか、響の声はやわらかだった。

 昔のように。

 沖島が響と過ごしたたった数年の濃密な時間が、ふっと戻ってくるようだった。もっと彼女といたかった。たとえ、響が住民皆に沖島という新たな住人を紹介して回るために残しておいた時間だとしても、そんなことはせずに、二人で畳の上に寝転がり、本を読み、そして響に邪魔をして欲しかった。あのときはそんな時間が、これからずっと続くのだと思っていた。自分にも響にも、時間というものは永遠なのだと知っていた。あの瞬間一つ一つが、どんなに尊い永遠だっただろう。

 失ってからというものは、その永遠を心底恨んでいるというのに。


「ずるいね。私もそろそろこの輪から離脱したいのだけど」


 沖島の本音に、響はぱちくりと瞬きをしてから視線を下げ、右手の人差し指で自分の唇をなぞった。

 彼女が深く考え込むときの癖だった。主に、とてもよくないことを考えるときの、だ。

 しばらくして、響は不思議そうに沖島を見上げてきた。



 それは本気かしら。



 夜空を宿す瞳に、沖島は愛情をたっぷりと含ませて見つめ返した。


「本気だよ」


 花が咲くように微笑む響の頬に、そっと指先を伸ばす。





    ○





「まずいな」


 最初に耳に届いた声は、よく知っているはずなのに、知らない声のように感じた。


 誰だったっけ、とぐるぐると泥の底で微睡んでいるうちに、あちらこちらから光がやってきて、自分の周りを照らし始めた。

 あまりの眩しさに、美禰はそれを手で払いのける。

 しかし、いくら払っても払っても、それは根気よく逃げてはまとわりついてきた。

 そうしていると、ようやく目が慣れてきて、ふと自分がなにをしていたのかがわからなくなった。

 必死で記憶を呼び起こしている最中も、耳に届いた声を反芻していた。どうして「まずい」のか。この懐かしい声は、よく知っているのに、こんなに切羽詰まった声は一度も聞いたことがない。この声はいつも穏やかで、優しくて、なのにいつもどこか哀れんでいた。


 誰を?

 私を。

 私は哀れまれていた。


 祭祀の夜に両親を失ったからではない。確かに、それでたくさんの同情の目を受けてきたが、自分の身を守るにはそれにいちいち傷ついてなどいられなかったし、彼らもその目を向けることに罪悪感を持っていたのを見れば、何も見ないようにするのがお互いのためだと知っていた。けれど、あの子だけは。あの子だけは、同情ではない、ただただ純粋な哀れみの目で、私を見た。それを隠すこともしなかった。私は酷く安堵したのだ。彼のその目は、私の境遇ではなく、私という人間に向けられたものだったから。

 少年の目は、いつも私を哀れんでいた。


「轍、くん」


 ぱちんと泡が弾けた音が頭の中でして、美禰は意識が浮上するのを感じた。泥から手足が抜けて、身体が引っ張り上げられていく。光に向かっていく。

 うっすらと開いた視界から見えた夜の空が、今日は眩しいほどに輝いている。記憶がフィルムのように猛スピードで美禰の頭の中を駆け巡った。



 猫屋敷と呼ばれる静かで寂しい山の麓の家、沖島の絡まった後ろ髪、足下でするするとじゃれていく猫たち。祭祀の夜の湿った風、いなくなった佐紀子、茶屋の桃色の暖簾の先の不吉なにおい――


 だめよ。


 頭の中に、恐ろしく甘い声が響いた。

 美禰がびくりと身体を揺らした途端、狭まっていた視界が一気に広がった。二つの顔が自分を見ている。


 大志と、轍だった。

 心配そうににのぞき込んでいた大志と違い、轍の横顔はこちらを見ながらも、意識は別のところにあるようだった。


「轍くん」


 美禰が呟くと、ようやく轍は強ばっていた顔を美禰に向けた。ハッとしたように美禰の周りを視線がなぞる。


「あいつか……逸らしたな。美禰」


 轍は美禰の顔をじっと見つめ、頷いた。


「平気だな」

「平気って、本当かよ」


 大志が轍を見上げ、軽く睨む。

 その視線が、何故が美禰の目に強く留まった。


「どうしたの」

「え」


 大志がぎくりする。

 やってしまった。

 いつもなら絶対しない失敗をしてしまうなんて。

 美禰は、自分が大志に抱えられていることに気づき、その腕をやんわりと押し返しながら身体を起こした。石畳がやけに冷たい。


「ごめん――私」

「何を覚えてる?」


 轍が言葉を遮った。美禰の前に立ち、身じろぎもせず決して目を逸らさない轍に、美禰はゆるゆると首を振った。


「よく覚えてないの。変だな……誰かが家に来たような気がするんだけど、ドアを開けたような……ううん、違う。えっと、コクヨウさんが外に出たいって玄関に。それで、私も出たんだけど」


 先ほどから記憶を絞りだそうとするが、できない。霞んでいて何も見えない。

 意識が冴えて来ると同時に、美禰の中に漠然とした不安と確信が広がっていく。

 私は、何も思い出す気がない。

 恐れている。よくわからないものに、身体の全てが怯え、拒絶している。今いる場所がどこかもわかっているのに、どうしてここにいるのかと問うことができない。こんな感覚には覚えがある。幼い頃も、つい一週間ほど前も、私はいつも忘れようとしている――


「とりあえず、おまえたち帰れ」


 美禰の危うい不安を見透かしたように、轍はしっしと手を振った。澄んだ顔が、労るように向けられている。安堵がこみ上げ、肩の力が抜けた。


「大志、後で話に行く。両親におまえから話しても問題はねえけど?」

「いや、頼みます」


 大志がかしこまったように頭を下げ、立ち上がると、美禰の腕を引いた。轍に背を向けるように立たされる。美禰がそっと伺うように見上げた大志の顔には緊張が混じっていた。自分を通り越して向こうへ。決して見ないが、一刻も早くここから離れたいと書いてあった。


 いつも物静かな大志にしては、表情が忙しい。


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