35 母君
尾は、鉄壁となり大志と美禰の二人を守り続けている。
恋い焦がれた相手を前にどれほど心が浮き足立とうと、揺らぐことはなかったようだった。
自分ではないどこか別の場所から、美禰への庇護心は湧き出ている。それはきっと、カゲの山で微睡むことをやめ、響を一心に見つめる混じりあった三毛色の彼らの意思であり、つまり、響の意思ということになる。
どうして、そんなことを。
沖島が美禰の青白い顔に影を落とす伏せられた睫毛を見ていると、ふいに甲高い鈴の音が頭に真っ直ぐ突き刺さった。あまりの激痛に、有紗がバッと頭を抱える。
「いっ」
ぎりりと歯を食いしばる有紗を横目に、沖島は響の手の先に続く空を見上げた。
光っている。
夜空に輝く星々が、一際強く。
煙のように儚いはずの内側から、強く発せられ続ける鈴の音に、共鳴している。
祝福を受けている彼女は、手を伸ばしたままさらに強くそれを求めた。指先がピンと伸びる。
それに答えるように、空から星が彼女に向かって落ちてきた。
りいんりいんと、満ちあふれる歓喜が石畳の上に波紋のように広がっていく。
聞こえるのではない。直接脳に刺してくる。
沖島は震えた。
こんなにも美しい音だというのに、同時に感じる気高さに身体が竦む。ひれ伏し、許しを乞いたくなるような圧倒的な力を、彼女は簡単に振るってのける。
なんて懐かしい。
なんて、狂おしい。
響がそこで力を振るっていると言うだけで、何かがふつふつと沸き上がっていく。喉を苦しめるようなそれが爪を立てていく。
響は髪を膨らませたまま、両手を広げた。
黒く濡れた空を慈しむように迎え入れ、いつか自分に全てを与えてくれたその両腕が、夜空を抱いた。
柊の花が立ち上るように天に向かう。
広がった髪の隙間から、彼女の横顔が見えた。
笑っている。
ああ――来る。
沖島がふっと身体の力を抜いた瞬間、ドッと空から塊が降ってきた。
風。
あるいは雲。
彼らが”母君”と呼ぶ、尊い存在の掌が、その場に降った。
押しつぶされるように、誰もが頭を垂れる。
あらがえない力を前に為す術もなく、膝をつく寸前で、その手は消えた。
力が抜け、身体がふらつく。
痺れるような疲労感が押し寄せ、自分が息を止めていたことに気がついた。
ほんの数秒だっただろうに、酸素不足のせいか目眩が襲ってきた。
一瞥されただけだった。
遙か高くからちらりと見下ろされた瞬間、自分がどれほど愚かで些末な存在であるか一瞬にして悟らされた。大きな目には何の感情もない。それがまた、たまらなく、恐ろしかった。
身体に染み着いた気を抜くために、沖島は頭を降る。
すると、隣で何かが跳ねた。
有紗の肩をつかんでいた櫂が、白いもやの兎となり、勢いよく有紗の頭上を飛び越えていったのだ。
後ろへふらついた有紗を、沖島が軽く支える。
が、気丈にもすぐに体勢を立て直して沖島の手を払った。
「信じられない」
呪いの言葉を呟くように、有紗が唸る。
沖島は、有紗の見ているものを追った。
がらんとした、石畳の上を。
皆が囲い、響が対峙し、彼らが微睡んでいたはずの忌々しいカゲは、文字通り消失していた。塵一つ残らず、壷への封印も必要とせず、無慈悲に葬り去られたような無惨さで、元から何もなかったように消し去られていた。あんなにも手を焼いたというのに、もう記憶にすら残りそうもない。
思わずカゲに同情をしてしまいそうになる。
なんと容赦がない。
沖島は苦笑を漏らした。
大志も、呆然と美禰を抱きしめたまま、じっと身体を強ばらせている。今や響の存在自体におびえを見せていた。
「本当、信じられないねえ」
沖島は小さく呟く。
「私も消されていたかもしれない」
「へえ。残念ね、無事で」
有紗がふんと鼻をならしながら、左肩をさする。
「痛むのかい?」
「プライドがね」
有紗はしかめっ面で返した。
「無理もない」
沖島が緩く笑うと、有紗は宙を睨んだ。
その横顔は、有紗の言うプライドとやらよりも、彼女の人に見せぬ繊細な芯の部分が傷ついた、と言った方が正しいような気がした。
沖島は、有紗が見ている光景を眺める。
ひどい有様だった。
カゲなど最初からいなかった。
今あるのは、七十年ぶりの感動の再会の場面だけだ。
鳥居前の森のあちらこちらから、白いもやが立ち上っている。
それは、帯のように天高く舞い上がった。
じっと立っていた翼も、人の形を捨てて飛び立ち、加わる。
残っているのは轍だけだ。
轍は視線に気づいたように沖島を憐憫の眼差しで見つめ返し、皆と同じようにあっさりと向こう側へ帰って行った。
その瞬間の、懐かしむ目の中に浮かぶ昂揚は、轍にしてはとても無防備で、ひどく純粋で、幼かった。
ひらひらと舞う白い帯がようやく揃う。
彼らは響の周りでくるくると舞いながらより一体感を強め、その感情を共有し、噛みしめていた。
ともすれば、歓喜の歌声が聞こえてきそうだ。
魂の震えが、空気を否応なく高めていく。
そうして、白いもやは、彼らの母によって生み出された本来の姿である十二支へと変化し、赤い目玉を子供のように煌めかせた。
鳥居前は今や、静謐で清らかな空気で満ち満ちている。
その中心で、響がゆっくりと地に降り立つ。
柊の花は、彼女を助けるように身体を縁取るように綺麗に纏まった。
十二の純粋なる魂は、ぐるぐると回りながら、響の周りで喜びに弾んでいる。響の差し出した右腕に、彼らはすがりつく。
「爺様、何したの」
見ていられなくなったのか、有紗は静かに振り返り、石畳を見た。
ずっといたはずの筒木は、沖島の背後で石のようにうずくまって動かない。存在すら忘れていた沖島は、顎を撫でながら何でもないことのように答えた。
「まあ、ちょっとおいたをね」
「ふうん」
有紗は落ち着き払っていた。
うなだれている祖父の肩を見る。
「半分抜けてる」
「さっきお叱りが飛んできたのかもしれない」
有紗の言うように、筒木の身体からはすでに魂が半分叩き潰されていた。意思というものを失った人形となり果てているのを見ても、沖島は同情する気には全くなれなかった。
有紗がため息をつく。
「まあ……これくらいで済んだのなら温情があったと言うべきね」
「君は、意外と冷静で冷淡だ」
沖島は、有紗を見た。面白がるように目を細める。
「そして意外と賢い。だろう?」
「何が言いたいの?」
にらみ返してくるその目には、今回の件が何の為に起きたことか悟っているように沖島には見えた。
ならば、悪戯に触れて機嫌を損ねるのは躊躇われる。
沖島はにこりと笑い、濁した。
「何でもないよ」
「嘘くさい」
「聞く気はあるのかい?」
沖島の柔らかな言葉に、有紗はしかめっ面でサングラスをかけた。
「それより、あれはどうするわけ」
有紗はあからさまに話題を変えた。鳥居を見やる。
腰を抜かしてへたり込んでいる倉本が真っ青な顔で、虚ろな目をあちこちへ動かしていた。有紗と沖島の向こうで繰り広げられる、この世のものではない壮観な光景を前にし、茫然自失の状態だった。
情けない。
「へえ、お仕置きで済んだのか」
「済んだ? 本気でそう思ってるの?」
有紗が鼻で笑う。
「彼がしたことに比べればね。田淵くんは怒り心頭だよ?」
沖島がこともなげに言うと、有紗は大きなため息をついて頭を掻いた。
「なにやらかしたのかは面倒だから聞かないけど、なら、こっちで引き受ける?」
有紗は沖島を見て、やや呆れてありがたい申し出をしてくれた。町で預けるべき立場の田淵が受け入れ拒否をするとなると、有紗が引き受けざるを得ないだろう。
「一人も二人も変わらないし」
と、筒木を見下ろして呟く。
「そうだね。轍に任せておいてくれるかい? ほら、終わったようだ」
沖島は、こちらにやってくる気配を感じていた。ずっとだ。有紗と向き合って話し始めてからずっと、響の視線はこちらに向いていた。
有紗も気づいている。
だからこそ、近づくにつれて表情が険しくなり、今すぐここから離れたいと言わんばかりに、身体が鳥居の方に向く。
「手を貸そうか?」
沖島は尋ねた。
有紗はぎょっとする。サングラスで目元が隠れていても、その目に非難がましい色が浮かぶのが見えるようだった。
「冗談じゃない。やめてよ。灯! 柄!」
キッと向こうを睨み、有紗は呼んだ。
「手伝って。もういいでしょ」
言い終えぬ内に、有紗の周りに白いもやがかかる。
虎と鳥の姿だったのは一瞬で、彼らはすぐに人の姿に戻り、有紗の両隣に立った。二人とも白に浅黄色の袴という、翼と同じ格好だったが、体格がまるで違う。
大きな図体の男が、凛々しい眉間にしわを寄せた。
「有紗、その格好は」
「面倒な説教は後にして」
「後にしても聞かないでしょ」
人形のように細身の男は、やや垂れた目を困ったように細めた。
有紗はしっしと手を振る。
「どうでもいいの。灯は爺様を、柄はあそこにいる男をうちに連れてって。轍が戻るまで、扱いは客人よ」
「はいはい。お茶でも煎れてあげようかね」
柄は足を出して身軽に飛び、三歩ほどで倉本の傍によった。轍によく似た柄を見上げる倉本の呆けた顔を見て、沖島は倉本への関心を切った。
「……じゃあ」
灯が、筒木の腕を引いて担ぎ、低い声で言う。
沖島はそれが自分に向けられたものだと気づかず、有紗の肘で小突かれたことでようやく「ああ」と声を絞り出した。
灯はばつの悪そうな顔で、しかし哀れむような視線を残して鳥居の向こうへ帰って行った。
「なんてアホな顔してるの、センセ」
有紗も灯と似たような目を向けている。
沖島は笑った。
「灯は、私を憎んでいるだろう?」
「十二もいれば、それぞれ思うところはあるでしょうよ」
有紗はちらりと迫り来るそれを一瞥し、身を翻した。
「あたしにはあれがそれほど良いもんだとは思えないけど。それでも、あいつらからすれば、心から慕う姉らしいからね。面白くない」
有紗は関わり合うことなどごめんだというように苦笑した。
「まあ、頑張って」
有紗は背を向けたかと思うと、すぐに足を止める。
「それから――今回は手間をかけさせた。ごめん」
ぽつりと言い残し、有紗は吹っ切れたように颯爽と戻っていった。
何気なく見送る沖島の両脇を、白いもやの塊がひゅんひゅんとかすめていく。姉に挨拶を終えた彼らが、有紗の元へと戻っていく。派手な花柄のシャツの後ろ姿は、にぎやかな者たちで囲まれた。彼らはそれぞれ体格も性別も違うが、皆一様に同じ色を纏っている。
遅れて戻った櫂が、これもまた有紗と似たような派手なシャツを靡かせて有紗の後ろへと歩く。
あの子なら、大丈夫だろう。
沖島は漠然と、しかし強い確信を持って彼らを見送った。
背後に、強い気配を感じながら。
音もなく近づいてくる圧倒的な魂の塊が、その純度が、恐ろしいくらいに自分に向けられていることをずっと感じている。
あまりにも懐かしい、あまりにも狂おしい彼女の気配。
むせかえるほどの、花のにおい。




