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34 白い花


 誰の視線も一気に集め、その姿を、動き一つを誰もが追いかける。

 引力めいた力が、目の前でどこまでも自由に冴え渡っていた。



 彼らは、誰も決して触れぬカゲに向かって頭から向かっていった。有紗の知っている神聖なものの持つ揺るぎない自信とはまた違う、泥すらも抱きすくめるような有無を言わさぬ包容力のような末恐ろしい力で、相手を飲み込もうとしていた。


 本当に、厄介だわ。

 自分にそれが向かって来たときに、はねのけられる自信は有紗にはない。ぼうっと放心して、それが心臓を貫いた瞬間まで気づかぬだろうことはわかる。


 漂っていた蜜が吸着するように泥人形の動きを封じ、細いリボンのような手が胸のあたりを貫く。手は二手に分かれ、空虚な穴が開いた。


 翼と轍の顔がちょうど見える。

 不思議な顔をした二人。

 わかっている。

 ()()の気配を濃厚に感じ当てられているのだ。


 穴に三毛猫のまだらな身体をねじ込ませ、次の瞬間、どっと風の塊が透明の円柱を作り出した。

 カゲと外側を遮断するように、風が地面から――いや、そのずっと底から絶え間なく風を送りだしてくる。

 泥人形は身を捩って、身体から現況である彼らを追い出そうとするが、簡単には離れない。彼らはくるりくるりと身体を回しながら手を、足を使い、穴を広めていく。ぼとぼとと、肉片らしき泥が落ちていく。

 落ちたそれは砂のように消えていった。


 浄化している。

 有紗の知る尊い行為である「浄化」とは似て非なる力で――まるでどこかに引きずり込むような凶暴さを湛えた力で、カゲをけちらせていく。落ちて消えたように見える欠片は、もしかするとそのどこかに吸い込まれているのかもしれない。石畳の隙間に、この町の地の底に。


 が、向こうの執念もなかなかだった。

 簡単には連れて行かれまいと、両足を踏ん張って雄叫びを上げる。

 決して空に届くことのない低い地鳴りが、ふつふつと醜い気泡となって沸き上がり、弾け、生ぬるく有紗の頬を撫でていく。

 今や人の形は崩れ、小さな山になっていた。

 その黒い頂上付近で、三毛猫が微睡んでいる。くつろいでいるように見えるが、彼らは身体を回転させながら内側から爪を立てて削っていた。


「――しつこいな」


 有紗の隣で、沖島がぼそりと呟いた。


「まずいの?」


 聞き返す。

 沖島は、有紗を見ることなく、息をもらした。

 笑っている。


「まずいかまずくないかで聞かれたら、まずいだろうね」

「そんな笑って」

「有紗くんも感じているとおり、あれらは君らとは正反対の場所にいながら、その恩恵も享受している、いわば混沌とした存在だ」


 沖島は状況とは相反してのんびりと言う。ちらりと櫂を見ているのはわかった。肩を掴んだままの櫂の手に力が入る。

 櫂は沖島の肯定派でもなければ否定派でもないはずだが、苦手らしいことはその手からびしばしと伝わってきた。


「だから?」


 有紗は聞くと、沖島は肩を揺らした。


「何が面白いのよ」

「君は中々、度胸があるね。天性のリーダーシップがある」

「はあ?」

「褒めているんだよ」


 言ったのは、有紗に向けてではない。隠れたまま姿を見せようとしない、兄弟たちに向けてだった。


「何言ってるの」


 有紗が聞き返すも、沖島はこちらに興味を失ったように顔を背けた。


「あれを持ってきてくれているかな?」


 沖島の問いかけに答えるように、カゲの中で回転する三毛猫がぴくりと反応した。

 黒い山はどろどろと溶け出しながら、それでいてまた形を成そうと脈動し続けている。

 尾が、その山から出た。

 三つの尾のうちの一つ、白い尾。

 ゆらりと揺れ、先が蕾のように膨らんだ。

 尾の先からぽっと光が出たかと思うと、それは瞬き一つの間に沖島の手へと落ちていた。


 瓶だった。


 小さなそれは、中に何が入っているのか、真っ白だ。

 沖島は一度だけ手の中で転がしてから、蓋に手をかけた。骨ばった指先に力がこもる。


 有紗はぎくりとした。

 それを、開けるつもりなのか。

 何故か、そのただのジャムの瓶のようなものがどうしようもなく恐ろしく感じた。開けてはならない、と沖島の手をはたき落としたくなる。

 その動揺を見透かしたように、沖島がふっと口をつり上げた。



 寒い予感が、ぞわりと背を這う。



 次の瞬間には、有紗の視界は真っ白に埋め尽くされていた。

 サングラスをかけていたのを忘れるほど、白い閃光が眼球に直接差し込んだように痛い。一瞬自分がどこに立っているのかを忘れるほど、強烈な光だった。


 光?


 有紗は霞んだ思考の中で、自分の嗅覚が何かを嗅ぎ取ったことに気づいた。



 甘い香り。

 むせかえるほど濃厚な、五感を遮断する、花の香り。

 誰かのにおい。



 有紗はカッと目を見開いた。

 サングラスをむしり取り、背にいる櫂の気配をしっかりと感じる。

 両手をきつく握りしめ、足はヒールで石畳を割らんばかりに力を込めていた。

 そうして、前を見据えた。


 白い花が、石畳の上でくるりくるりと渦を巻くように踊っている。有紗の腰あたりまで、花の渦はあった。

 そうしてその真ん中に、誰かが立っている。

 身体はうっすらと透け、彼女が「人間」ではないことは明白だった。肌は白く、髪も白い。花模様の白い着物に、大きな羽織を肩に掛けて、ゆっくりとこちらを振り返った。

 途端に、喉の奥から感情が込み上がった、

 窒息するほどの息苦しさに、有紗は衝動的に口を開いていた。

 そのまま、吐き捨てる。



「出たわね――この、性悪女」











 沖島は自分の目が信じられなかった。

 目の前で、花が舞い踊っている。

 見間違えようのない柊の白い花が、一つ一つに意思が宿っているように群になって動いている。


 その中心に、記憶の片隅でうずくまっていた、恋い焦がれていた人物が立っていた。


 いいや、よく見れば、帯から下は霞となっているのもわかる。彼女が不確かな存在であることも、映像を映し出しただけのような姿を見ればわかるというのに、沖島の説明できないどこかから感情が溢れだしていた。

 彼女だ。



(ひびき)



 もう随分前に口にしなくなっていた名が、ぽろりとこぼれる。

 白い着物に、白い髪。

 自分の知っている彼女ではない彼女が振り向いた。

 聡い黒い双眸が、夜空のように濡れている。

 長いまつげが瞬くと、その光がすべて落ちてしまうような、心をざわめかせるその目は、沖島が知っている響そのものだった。


 どうして。


 全身が硬直する。

 柔らかな手で掴み取られた、幸福と弛緩と緊張が、次々に沸き上がってくる。子供のように身を竦ませながら、それでいて許しを待っている。彼女が、微笑んで招いてくれるのを、期待している。膨らんでいく。

 どうか、笑って。



「――この、性悪女」



 沖島の興奮を、低いうめき声がかき消した。

 ハッとする。

 有紗が、サングラスを取って、響を睨み殺さんばかりに見ていた。

 不思議なほど、有紗の目は真剣だ。

 自分とは相反する感情を突きつけられ、沖島は奇妙な心地になった。冷や水を浴びせられたように、ゆるゆると現実に引き戻される。

 この子は何を言っているのだろう。


「今、何て?」


 沖島は、じっと敵対心を剥き出しする有紗に尋ねていた。

 サングラスを取れば、化粧っけのない幼さの残る顔立ちだ。昔と変わらず、警戒心の強い表情をして、有紗は響きを見たままさらに顔を歪めた。


「性悪女って言ったのよ。文句ある?」

「そうじゃなくて。君、彼女の事など知らないだろう」

「知ってる」


 有紗は短く答えた。

 後ろで響に魅せられていた櫂が「えっ」と声を漏らす。


「有紗、何言ってんの。姉上は七十年前に」


 そこで言葉を切って、櫂が沖島を見た。

 非難がましい目ではなかった。轍のように哀れみを持った目でも、翼のように無関心でもない。ただただ、沖島という人間を彼の言う「姉上」の一部だと認めたくないというやりきれない気持ちがあるのが見て取れた。

 有紗は櫂の手をちらりと見てから、沖島を見上げてきた。黒髪が輪郭をなぞり流れる。


()()、私の前によく出てきてた。だから知ってる」


 憎悪が灯った目で、有紗はゆっくりと言い含めるように繰り返した。


「全部、知ってるのよ」


 耳に染み込むように有紗の声が頭まで届いた瞬間に、沖島は悟った。

 真っ直ぐな目は、自分を貫くように見ている、だというのに、有紗からは映像が欠片も流れてこない。

 知っている。

 この子は、本当に知っているのだ。

 頭でちらついていた予感が確信へと変わった。



 この子は、もしかして――



 ふと、沖島と有紗の間を鋭利な風が抜けていった。

 冷たい花の芳香を残し、二人の髪をなびかせる。

 響だ。

 沖島は、自らの内側に怖々としたものを感じながら、そしてそれを奇妙に思いながら、そこにいるはずのなかった人を見た。


 自分の目に、懇願が浮かんでいるのを自覚する。

 響は沖島を見ていた。

 夜に濡れた目が瞬き、ゆっくりと三日月のように細くなる。

 微笑んでいる。

 いつしか真似るようになっていた笑み。

 轍の哀れみを買う笑み。

 住人が警戒心を解く笑み。

 本来の彼女のものである笑を浮かべ、響はうっすらと唇を開いた。


 それだけで、何とも言えぬ高揚感がその場に膨れ上がる。



 響はカゲに向かい、ふわりと両手を広げた。羽織が風もなくはためく。そのまま、ゆらりと一つ高く飛んでいた。

 視線が宙で止まる。

 沖島だけではない。今、この場で響を見ていないものなどいなかった。それは、目をなくした小さな山となっているカゲであっても、だ。

 響が何をするのかその目で確かめずにはいられない。

 たとえ彼女が透けていようとも、自分の視線一つ上で渦巻く花の中心で手を広げた姿から目をそらすことができなかった。

 花が、帯の下で長い着物を縁取る。

 響はすっと顔を上げた。

 白い手を伸ばす。

 その向こうに夜空が透け、何かが強く光った。

 懐かしい何か。  

 響が膨らんだのは、それを手にした直後だった。

 長い絹のような髪がふっと扇のように広がる。

 反射的に、下駄の鼻緒をつかむ指に力が入った。沖島が隣の有紗の前に右腕を出したのと、衝撃波が辺り一面に円状に広がっていったのは同時だった。


 パンッと、その場の淀んだ空気が遠くへ弾き飛ばされる。


 彼女の発する何一つ色褪せない神気が、問答無用で身体中を見透かしていく。

 沖島の袖の奥で、有紗がぐっと息を詰めた。響への侮辱か、それとも庇った沖島への苛立ちか、顔が苦しげに歪んでいた。



 気配が落ち着いたのを見計らい、腕を退ける。

 その時、ふと、視界の端で呆気にとられた大志の顔が見えた。

 カゲの山の傍で、二人はやわらかな膜のようなものに包まれている。そう思ったところで、それが自分の尾であることに遅れて気づいた。

 ぐったりと目を瞑る美禰をしっかり抱きしめる大志は、怖々と響を見上げている。その顔は白い。


 沖島には、あの二人が遠いところにいるように思えた。

 自分と有紗はこちら側の人間で、狼男であるはずの大志は、向こう側にいる。

 何の違いなのか。


 それを、沖島は深く探ることはしなかった。


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