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32 腕の中

 二人とも怪我はない様子だ。

 一方の佐紀子だったものは、三つに切り裂かれようとも美禰の元に向かって修復しようとのたうち回り、悪足掻きしている。

 彼らは鋭い爪を立てて戒めた。見下ろし、ヒゲを揺らしながらふんと鼻を鳴らす。

 沖島は鷹揚に頷いた。


「そうだね。確かに、根性はある」

「沖島あ、そろそろ()()ぞ」


 轍が声を上げたので、手を挙げて返し、沖島は大志を見た。


「じゃあ、大志くん、それ、外して」

「はあ?!」


 未だ緊張が残る場に、大志の素っ頓狂な声が響く。

 ふっと笑う者もいたようだ。沖島の背後の木陰がかすかに揺れた。あの柔らかな笑い方は、気の穏やかな(ほろ)だろう。

 沖島は美禰の腹に巻き付く腕を指さす。


「だから、それだよ」

「いやわかってるけど!」

「はいはい、君しかできないから、どうぞ」


 沖島が軽く流すと、大志は自分の胸の中でぐったりと眠る美禰を見た。腹に、人の皮をまとった腕がぐっとめり込んでいる。一目見て苦しそうだとわかると、大志はバッと躊躇うことなく手を伸ばした。

 翼と轍が目を見張る。

 大志が、爪を出した。

 薄く、短く切られた爪ではない。その上から、鋭く硬質な牙のような黒い獣の爪が、ぬっと出てきた。

 大志自身は驚いている様子はなく、それ以上の変異は見られない。


「これは面白い」


 沖島は感心した。

 歴代、その血を持って生まれた者の中には、背にびっしりと灰色の毛が生えたり、足が獣のそれになってしまったりと、戻れぬ変化に苦しみ隠居を余儀なくされた者もいたという。だが、どれも苦痛を伴ってのたうち回るので、どうにか社に運び込み、力を借りて治まるのを待つのだと、他ならぬ轍から聞かされた。その疲れ切った口振りから見て、血を自覚し暴走するそれを押さえ込むのは、心身ともに疲弊するほどのものらしかった。


 それが、大志はまるで息をするかのように自然に一部を変化させた。


 意図しているのかいないのか、自分の異質な変化に戸惑わない大志の横顔は、至極冷静に見えた。

 爪をめり込ませ、美禰から簡単に引っ剥がした腕を、沖島に投げて寄越す。


 足下にごろりと転がってきた剥き出しの柔らかな肉塊を草履で踏み、沖島は大志に向かって目を細めた。

 大志は沖島がそうすると、決まって怯えた目をして、苦手だと、相容れない相手だと饒舌に訴えかけてくるのに、今やどこか温度を下げて、沖島をただ見上げている。迎合したくはない大志自身と、ヒエラルキーに従順であれ、と頭を押さえつける全身を巡る血の間で、やや葛藤があるようだ。だが、大志はどこかで納得しているようにも見えた。


 轍が、その姿を複雑そうに見ている。

 二十五まで待って、社に呼び込み、厳重な警戒をした後、真実を告げて手綱を強く握る算段が、どうしてか荒治療と屈服がセットになって沖島に握られてしまったことに関して、心底不服なのだろう。


 じろりと睨んできた轍と、肩を落としている翼に、もう一度「不可抗力だ」と微笑んでおいた。

 轍が言ったように、もう時間はない。


「さて」


 沖島は踏んづけたままの動かぬそれを見下ろした。

 指にはまだ、糸を握ったままだ。

 思い出したようにもう一度捻り、それからふっと息を吹きかけた。


「お疲れさま。あんな手の込んだこをしてまで逃げようとするなんてご苦労なことだね。そんなに外に出たかったのかな? 喰うはずだった獲物をじっと見下ろしているのが辛かった? 君が焼き払ったあの家で」


 沖島の声に反応するように、糸がもがく。


「彼女の家族を殺したね」


 沖島はずいっと顔を近づけた。

 ただの糸にしか見えない。非力で、愚かで、けれどどん欲なあれの一部。



 どうしてもどうしても、手が出せなかった。



 一瞬の残像が、沖島にはしっかりと見えた。



 暗い。夜だ――いいや、ここはいつも夜だが――誰もが寝静まった静かな祭祀を終えた夜の中で、小さな美禰が石畳に投げ出される。彼女は眠っている。目覚める気配はない。必死の形相をした母親の手で、引き戸はしっかりと閉められた。

 美禰の母親が振り絞った、最後の力で、これは家に閉じこめていたのだ。

 如月の家ばかりに生まれる、高潔で不幸せな血を、あの子も分け与えられていたらしい。


 沖島の記憶の水面を、聡明な女性がそうっと揺らす。

 沖島が、生まれたばかりの赤ん坊に、ネックレスを届けに行った際、あの子は絶望することなくゆっくりと息を吐き出して「この子が今度の”娘”になっちゃったのね」と悟った。菩薩のような顔で、娘を慈しんでいた。

 彼女が母親として、美禰を導くには適任な女性であると確信し、心から安堵した。短命でないことを祈りながら、それでもなお彼女の腕の中ならば、苦しまないのではないかとさえ思えた。

 最後まで、役目を――母親としての深い愛情を美禰に与えていたのだ。



「ずいぶん執念深いねえ。ならば、今自由にしてあげようか。好きにするといい」


 沖島はそう甘く囁くと。指の力を抜いた。

 糸はスッと視界から消える。

 それは加速し、佐紀子の身体へと向かっていた。

 爪を立てていた彼らは、沖島の意思をくみ取って、三つのしっぽを回して飛び退く。

 糸が、三分割された身体を掬い取って縫い合わせた。ずいぶん雑ではあるが、何とか地に足を着けているように見える。ガタガタに縫われた身体の間で、黒い影が繋ぎ、肌にまとわりついていく。

 佐紀子の顔だけがきれいに元に戻り、にっこりと微笑みを浮かべた。


「無駄だよ。彼女の顔を元に戻したって情に流されるような者はここにはいない。残念だけどね」


 けれど、悪い考えではない。

 沖島は感心した。

 佐紀子の身体を乗っ取っていた藍色の壷のカゲよりも、やはり知恵が働くらしい。


 わざとらしく悲しそうに眉を下げ、佐紀子は身を捩った。切れたままの浴衣がはらはらと揺れる。肌はもう瘴気に浸食され、痣だらけになっている。肉片がぼろりと落ちる度、また糸が出てきて縫いつける。


 ああ、と沖島は踏んづけていた足を退けた。


 糸で手繰り寄せられるように、腕は石畳の上を滑って行く。

 右腕が縫われ、佐紀子は満足したようにカクカクと頷いた。



「ちょっと、何よこれ」



 突如、嫌悪感を出した声が割って入る。

 沖島の背後の黒い森から、二人は颯爽とやって来た。

 月明かりで照らされ、スポットライトが当たった有紗と櫂が、こちらに向かってきていたのだ。

 沖島は思わずきょとんとする。あまりにも浮ついた格好だった。

 有紗と櫂は鳥居をくぐりながら、軽快に話を弾ませた。


「えー。さっそく先陣気っていっちゃうの? 度胸有りすぎ」

「うっさいな」


 たかたかと跳ねる櫂は、蛍光色の花柄に、膝のあたりが破れたジーンズで、サンダルを履いているし、それをねめつける有紗は、おかっぱ頭に黒い大振りなサングラス、櫂と似たような派手な花柄にスカートとヒールという、ここでは滅多にお目にかかれない格好をしていた。


 まるでバカンスを満喫中の二人組だ。


 有紗がふと気づいたように沖島を見た。サングラスをちらりと下げ、上目遣いで見る。睨んでいるように見えるが、彼女の警戒心の強さの現れであって、そうではないことを知っているので、沖島はにこりと笑みを返した。


「やあ。お久しぶり。どこにバカンスに行っていたのかな?」


 有紗がサングラスをかけ直す。


「東京よ。バカンスじゃなくて移住のつもりだったんだけど?」

「そうそう。あのまま様子見てバックレようって」

「余計なこと言わないの」


 ばしっと叩かれた櫂が、おかしそうに笑う。

 有紗は櫂がぶらぶらと持っていた壷を引ったくった。

 そのまま沖島に投げて寄越す。


「センセ、ほら」


 沖島は手を伸ばして受け取った。すとんと腕に着地するざらりとした渋色のそれを感情のない目で見下ろす。

 和紙で封をされた壷は、軽石のように軽かった。

 これが人の骨で焼かれていることを、忘れそうになるほどだ。

 人の命は尽きると、これほど軽いとは。


「それにしても、豪快な渡し方だね」

「時間ないんでしょ」

「おお。なんか変なのがいるよ、有紗」


 櫂は目の上に手をかざし、しげしげと異物を眺めた。目をぱっと見開く。


「えー、あれ? 佐紀子じゃない?」

「あんた目が悪いんじゃないの。あれは、もう違う」


 有紗はちらりと見ると、はっきりと言い切った。

 相変わらず容赦がない。彼女もまた、佐紀子の友人だったはずだ。美禰と大志もいることもわかっているだろうに――さらに言うと、彼女の前で祖父がうずくまったままでいることも見えているだろうに、有紗はまったっく視界に入れなかった。


 ただただ、姿を見せぬ者たちの緊張を感じ取り、佐紀子だったものへ集中していた。奇抜な格好の内面は、恐ろしく安定している。有紗がじっと目を離さないでいるおかげで、あれは沖島が視線を外していても暴れ出さず、律儀にただ立っていることしかできない。

 沖島は、鳥居を背負うように立つ華奢な姿を眩しそうに一瞥する。

 立派だ。

 あまりにも、立派すぎる。





   ○



 



 有紗がその連絡を受け、すぐさま帰れ、と言われたときから嫌な予感はしていた。


 思い出せば一ヶ月前に届いた祖父からの手紙も、なんだか妙だった。

 なので深く考えず、玄関のシューズボックスの上においたままにしておいた。開封もしなかった。

 お小言が書かれていても、心配を書き連ねられていても、どちらにしろ行き着く言葉は「帰ってくるように」だとしか思えなかったからだ。


 しかし、ずっとその存在が気になってはいた。ただの茶封筒。なんの変哲もない、少しばかり分厚いそれは、なんだか呼ばれているような感じがするのに、いっぽうで開けるもんかと意地になっていた。気になって気になって、結局佐紀子に連絡をして、変わりはないか聞き出すうちに、懐かしくなって顔を見て話がしたくなった。


 ホームシックを認めるには気恥ずかしく、瓦町をこよなく愛する彼女に町の外にでてもらい、「こっちの生活もいいね」と言ってほしかった。肯定が欲しかった。


 それほど急かされるのはどうしてなのか。

 有紗はずっとシューズボックスの上の物言わぬ手紙を見ながら、佐紀子にどうにか「わかった、行くよ」と言わせるために何時間も粘ることとなる。



 バスや電車を乗り継ぎ、自分がこの部屋を初めて見た時のように、佐紀子が物珍しそうにフローリングの床を見ているのを見て、あの町からでてよかった、と心底思ったのだ。 


 陰気な町。

 夜だけがまとわりついて、どこまで行っても離れない。几帳面な碁盤の目をした長屋も、提灯が揺れる石畳も、どこで何をしようとも、あの腕の中にいるのだと思わされる。漆黒の空の下は、闇が続く限り、有紗にはあまりにも窮屈だった。

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