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30 あやかし

 彼女は、たぐいまれなる神気を持った正真正銘の「母君の娘」だった。手を触れる必要など無いほど簡単にカゲを包み込んで、邪な意思を問答無用で引き抜いてしまうほどの恐ろしい無垢な力を、息を吸うかのように振るった。


 それがどうしてこう転じてしまったのか。

 できるのは、カゲを捕まえて苦痛を与えて締め上げる、それだけだ。

 彼女の力を正当に使いこなせず、ただ生き続ける力だけは使いこなせている。

 これが無力でないなら、なんと言えようか。



「自己評価低すぎるんだよ、おまえ」


 轍がまた足を蹴る。

 沖島は苦笑して、轍の頭を撫でようとした。すぐに振り払われるが。


「それ持ったまま触るとか、ありえねえ」

「そうだった、そうだった」

「わざとらしい」

「ありがとう」


 本来ならば、ここにシロとスズとコクヨウが揃えば、あっという間に決着もついたろうが、今は頼れないらしい。焦燥感がこみ上げる。

 それは、退治しているカゲに対してではなく、二匹の無事を確かめられないことに関してだ。なによりスズは、まだ未熟だ。コクヨウがついていながら、美禰を連れ去られ、こちらにもこられない状況となると、最悪の展開しか頭に浮かばない。


 ふと、カゲに向かって威嚇をしたままのシロが、ちらりと振り返った。

 宥めるような深い藍色の目が、ゆっくりと瞬きをする。


「おい」

「ここに、すぐに渋色の壷を」


 沖島は口早に告げた。


「はあ?」

「割るから」


 何に使うんだと問いつめられる前に、沖島はさらりと言ってのけた。

 正気かと言いたげに凝視した轍は、しかし気を取られたように空を仰いだ。ひゅっと、乾いた風が轍の前髪を揺らし、丸い額を撫でる。


 町の入り口である杉鳥居の向こうから、乳白色の風の塊がやってくる気配がした。

 沖島も相づちを打つ。


「タイミングが良いね」

「まったくな。すぐ帰れるんじゃねえか」

「田淵くんのおかげだ」

「後で礼を言っとくわ。本当に手の掛かる」


 轍は気むずかしい顔をしたまま、指先でこめかみに触れた。

 轍の眼差しの先で、紺碧の空の中に柔らかな霧が両手を広げている。


 戻って来る。

 ずんずんと目的を持って、風に乗って。

 先の尖った小さな舟が、夜空を駆けてくる。

 それは、未だ睨めっこをする鳥居前に集う顔触れに舟の底を見せつけながら、鳥居の奥へと消えていった。



「沖島さん」


 翼が離れた場所から声を張り上げたのは、轍が「すぐ来るらしい」と沖島に耳打ちをした直後だった。


「なんだい」


 沖島が尋ねると、涼しい顔をしたままの翼が佐紀子の後頭部から目を離さないままゆっくりと口を開いた。

 佐紀子を睨み殺さんばかりに、冷徹に見つめている。


「来ます」


 なにが、と聞き返す前に、翼はすっと横に一歩退いた。

 ゆるやかな下り坂が見える。

 白い煙がふわりと石畳から巻き上がった。

 その真ん中を、黒い肢体が駆け抜けている。

 次いで、小さな身体をめいっぱい伸ばして追いつかんとするスズを見つけて、沖島はようやく微かに険しかった表情を和らげた。

 轍もほっとしたように、肩から力を抜く。


「違います」


 翼が言うやいなや、二匹の後ろに走ってくる人影が見えた。

 轍がすぐに気づく。


「……ありゃあ、大志か?」

「困ったね」


 大志は何かを抱えて、まっすぐこちらに走ってきていた。

 この状況をどれほど理解できるか、考えただけで億劫だった。沖島の所行を見て騒がれでもしたら鬱陶しいことこの上ない。それにもっと、面倒事になりえる因子を大志は持っている。

 沖島は声を潜めた。


「彼、自分が人ではないことを知ってるのかい」


 轍が大志を捉えたまま、眉をほんの少しひそめた。


「いいや。二十五の年に聞かせる予定だ」

「それはそれは」

「あいつの親もその前もそうやってきた。もう随分血は薄れてるが、獣の血を持っていることを自覚したときが、一番厄介だからな。心身ともに自制できると踏んだら聞かせるつもりだった」

「おや。じゃあこれは大変だ」

「他人事だろ」

「そりゃ他人事さ。私は猫派だしね」

「はいはい」


 轍は、大志を迎えるために離れていく。

 小さな背中だが、これほど頼りになる者もいない。

 沖島は、自分に背を向けるのは轍だけであることを承知している。まだ気を許していると言ってもいい翼でさえ、隣を歩く。町を歩き回る榻も、どこかに隠れている残りの八人も、沖島の前に出ても来ない。


 それでいいのだ。

 それほど愛おしんでいるのだと――彼女は愛された人間だったのだと、刺さるようにわかるのだから。そうでいてくれなくては、存在意義はない。


 轍の背中が遠くなる代わりに、コクヨウの顔がはっきり見えた。凛とした灰褐色の目が、まっすぐこちらを見ている。



 きみ、親だってさ。



 そう呟くと、ふんと鼻を鳴らすように彼は笑った。テグスのようなヒゲがぴくぴくと動く。

 その後ろで必死についてきていたスズが、シロを見つけて鳴いた。シロも佐紀子に向けていた威嚇を解いて、スズを向かい入れる。

 スズが身体にまとわりついて離れないのを後目に、コクヨウは沖島が伸ばしたままの尾に飛び乗って来た。


「やあ。おかえり。なにがあった?」


 沖島の目線に来たコクヨウが、目をカッと開く。




 瓶が倒れている。白い花で満ちたそれを、黒い手が転がす――彼は随分昔のことを思い出している――して、何かに気づいたように視界が切り替わる。走っている。見知った廊下を、低い位置で滑っている。ぱっと開けた明るい玄関のドアが開いているのが見え、そこでスズが黒いカゲに覆われてもがいていた。身体に怒りが雷のように降りる。牙を剥いている。カゲはべったりとスズに乗りかかり、退かない。美禰を案じている。スズを案じている。爪でそれを消すことはできようとも、スズが無事である保証はできない。躊躇っている。スズを置いて美禰を探しに行くべきとわかっていても、彼はそれができない。そのとき、玄関の隙間から、ふと甘い芳香が流れ込んできた。カゲが一瞬身じろぐ。次いで、誰かが肩で隙間を空け、なだれ込んできた。大志だ。床にへばりつくスズを見て、それからこちらに目を向ける。ほんの数秒目があった次には、大志は持っていた紙袋から果実を取り出し、カゲへと投げてよこした。桃がぶつかる寸前に、カゲは自らの危機を察知して飛び退く。スズが身を起こしたのを見て、彼はすぐさま口を開ける。前足を踏ん張り、床に伸びた影をずん膨らませ、漆黒のそれは牙を剥いてカゲに食らいついた。断末魔らしき小さな叫び声を飲み込み、自らの影の中に引きずり込む。スズがじたばたと足を動かしてようやく立ち上がったところに、大志が今度はそっと桃を置いた。スズが口に含んで生気を取り戻すのを、ほっとしたようにと見つめる。考えている。いつも美禰になれなれしく近づくこの青年は、いったいどうしてこんなに冷静に、的確な対処ができているのか。人ではないくせに。人里から逃れてきた獣の血――人狼の血を脈々と受け継いで、とうとう自分たちが本当に無力な人間だと思い込んだ、人ならざる者のなり損ないだというのに――いつのまにこんなに、真っ当な顔をするようになったのか。それは、こちらに向かって懇願するように言った――美禰を、助けてくれ――その手に桃を持ち、差し出す。柔らかな甘い香りが、視界いっぱいに広がる。




「君、なかなか辛辣だね」


 沖島はつい苦笑を漏らした。

 そのまま映像を追い出し、コクヨウの瞳を真正面から見つめる。


「まあ、ここは混じりっけのない人間の方が少ないかもしれないけどね。なにしろ二見の爺さんはろくろ首が先祖だとか言っていたよ。知ってるかい」


 沖島が軽口を叩くと、コクヨウは鼻を鳴らして首を振った。


「やはり嘘か。しかし、大志くんは随分この町に順応しているんだね。心も身体も。どうりで狼のにおいが薄いはずだ。あの子に近づくのを許されているのもいろんな意図を感じるよ。ねえ」


 コクヨウは返事代わりにひらりと尾から降りた。

 沖島は思い出したように糸を捻りながら、前を見据える。

 もう叫び声など耳に届きはしない。

 コクヨウが、シロとスズの元へのんびりと歩いている。その先に、佐紀子が美禰を抱いている。ぐったりと眠る美禰。その首筋に、光の糸が見えた。


 あの子は持っている。

 沖島がいつか彼女に渡し、彼女が二匹の子猫とともに置いていった、彼女の気配を感じた柊の花のペンダント。それだけではない。美禰は持っている。筒木が持たせていたと思われる、社の鳥居が描かれた特注のお守り。あれを身につけて離さないように言っていたのが、功を奏したようだった。あまりにも神々しく目を光らせているので、シロに頼んで小さな結界を張らせていたおかげで、沖島も焼かれずに済んでいた。今も上手く身を隠している。カゲが美禰を喰わぬよう、その魂を包んで眠らせている。この状態であれば、彼女の身に危険が差し迫ったりはしまい。


 シロの結界が、割れなければの話だが。


 これから少々騒がしくなるが、すべて終えるまで、どうか目を開けずにいてほしい。



 沖島は翼の隣で呆然と突っ立った大志を見て、軽くほほえんで頷いた。


 轍と翼が両脇を固め、その後ろからさらに榻が戻ってくる。乳白色の霧は牛の姿からゆっくりと人の形に変わる。ふくよかで柔和な顔をした年寄りが、背後からそうっと大志を包む。大志の顔に薄い煙の膜が張る。


 ふと、沖島は大志が何に驚いているのか不思議に思った。


 大志は異変を敏感に感じ取った。異様な佐紀子に連れて行かれる美禰を見たのだろう、そこで助けに入らずに沖島の家に来た機転の良さも、カゲに対抗する手段を本能で感じ取ってコクヨウとスズに助け船を出した思慮深さも持ち合わせている様子だった。瓦町の子として申し分ない資質を遺憾なく発揮したと言える。なのになぜ。

 社に住む神の使いが勢揃いしていることに驚いているわけでもないようだ。彼らに対する感情は、全幅の信頼からなる安堵しかない。


 ああ、そうか。

 私に驚いているのか。


 沖島は笑みを深めた。あまりにも慈愛ある笑みに、大志はぎょっとするのと同時に、びしりと全身を硬直させた。自分と沖島が同族であることを本能的に嗅ぎ取ってしまった。


 そう。

 君は私のことが嫌いだろうが、君と私はよく似ているんだよ。教えて上げようか?


 そっと語りかける。



 ずっと昔に、人の姿に化けることを学んだ獣やあやかしたちが、何があったのか人と交わってしまったそうだ。当然その子孫は人にもなれず、純粋な獣にもなれず、かといって人であることをあきらめきれず、各地に散らばって隠れるように生きることで、本当に人とした見かけを手に入れることができた。けれど、一度でも交わった獣の血は、薄れることはあっても消えることなく刻み込まれているんだよ。時には先祖返りが強く顕れると見捨てられる者もいる。私のように。君は恵まれている。この瓦町で守られて産まれることができて、幸せだよ。



 大志の目が見開かれる。

 遠目でも、全身が粟だっているのがわかった。


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