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29 糸


 どうして震えているのだろう。

 沖島は手に力を込めながらぼんやりと座り込む筒木を見つめる。

 紫色の唇、垂れた瞼の奥の絶望に濡れた瞳。身体の水分がすべて飛んだように、頬も腕も、白装束すらも、カサカサと乾ききっていた。糸が連れ出した自身の押し隠していた感情を見せつけられ、打ちのめされていた。


 わかっているのだ。

 操られていたのではない。それが、自分の本音であったことを、彼は今理解している。利用されたのは、自らに付け入れられる隙があった。あってはならない隙が、あってはならない事態を引き起こした結果、ここにそれだけの顔が揃えられたことを、今やっと本当の意味で理解したのだ。


「さて。そろそろ出ておいで」


 沖島は尾の力をぎゅっと濃縮させ、手のひらに集中させた。シロが押さえ込むように包んでいた琥珀色の霧が綺麗に飛んでいき、抑制されていた力は再び解き放たれる。

 糸はさらにもがく。

 尾が、一本の糸に巻き付くと、逃げようと身を捩る糸の先を読んだ。


 繋がった。


 沖島は確信した。

 助けを求める糸が伸ばした手を、尾が辿る。三つの尾が複雑に絡み合い、注連縄(しめなわ)のごとく太くなって沖島と筒木の間をすり抜けた。そのまま飛ぶ。翼の隣を駆け抜け、先ほど歩いてきた参道を怒濤の勢いで戻っていく。沖島は指先で糸をねじねじと弄ぶ。どこかほくそ笑んでいる顔を見て、轍は頭を掻き、筒木は震えをぴたりと止めた。さっと俯き、拳を握る。


 尾は沖島の悠然とした顔とは違い、せき立てられるように感情を剥き出しにして伸びていく。

 翼が感心したように見守り、呟いた。


「長屋の方に行きましたね」

「榻に」

「ええ――榻。沖島さんが通りますよ。道を開けて差し上げて」


 沖島は、ゆるやかに笑った。

 神気溢れる道が、そっと遠慮がちに開かれる。それも、尾が通る部分だけが綺麗に切り開かれていく。

 そしてそれは、長屋の裏手をぐるりと回った。

 ちょうど、今朝訪問したばかりの井藤の家に近づいていく。その裏手あたりで、尾が何かを捕まえた。


「さあ、力比べでもしようか」


 沖島は、手に糸を握りしめたまま、腕で空気を切った。引っ張る。尾がバネのように伸縮し、重量のあるそれを思いっきり引きずり出した。

 ドドドと空気を揺らしながら、それは社に急速に近づいてくる。

 ご丁寧にも榻はその後ろをついて来て、結界を張り直していた。そしてそのまま参道前で、止まる。


「おまえの勝ちのようだな」


 轍は沖島の背後を見て、にやりと笑っていた顔を硬直させた。


「轍?」


 轍だけではなく、身を隠したままの彼らも緊張している。沖島は振り返る。


 まず先に目に入ったのは、翼だった。あの翼の澄ました顔が消え失せている。そして次に、自分の肥大した尾。透けたそれは、真っ黒でないことでどうにか「カゲ」と呼ばれずに済んでいる、自分と彼女とコクヨウの複合体であり、愛しい半身。化け物じみた三つの尾が絡み合った先で、それは捕まっていた。


 蓮華の模様の浴衣を着た、佐紀子だった。


 遠くを見た眼差しで、白い唇は緩く口角を上げたまま固定されている。能面でも被っているような張り付けられた顔から下は、弛緩していた。そのせいで帯が緩み、人形に無理矢理着付けたような無様さが漂っていた。そうやって、その腕に美禰を抱きすくめている。


 美禰は無反応だった。

 目を瞑って、ぐったりと佐紀子らしき者に身を預けてしまっている。

 佐紀子の左の袖は、肘から先が黒い鱗で覆われていた。



「――っ」

「動くな」


 翼が、駆け出そうとした瞬間、沖島が制止した。

 轍が反射的に沖島の腕を掴む。


「落ち着け。あれは生きてる」

「わかってる」

「わかってねえだろ。二人ごと絞め殺す気かよ。力抜け。翼も、おまえたちも、何もするな。沖島の命令で動けって言ってるんじゃねえよ。押しとどめろよ。理性でな」


 この場で誰よりも冷静な轍の声が、空気を打つ。

 殺気だって尾に力を漲らせる沖島の腕を、小さな手が握り潰さんばかりに掴んでいた。それだけで、轍の隠す底から沸き上がる怒りを手に感じ、ぐらぐらと煮えたった足下の感覚が戻って、深部が冷えていく。


 美禰はまだ無事だ。


 沖島が尾で佐紀子を拘束している限り、動けはしない。

 シロも、佐紀子を見て臨戦態勢をとっている。


「沖島」

「わかっているよ」


 沖島はようやく力を抜いた。と言っても、美禰に負荷がかからないようにであって、佐紀子の皮を被ったそれを許したわけではない。轍は安堵したように息をついた。


 しかし、これからどうするべきか。

 轍も介入を止めたように、彼らがカゲに近づくことは避けたい。彼らはあくまでも町を守るための存在であり、封じ込めたものを扱えたとしても、それに直接触れれば一番厄介なものとなってしまうことは皆身を持って知っている。

 それでも動こうとした彼らが、美禰をどれほど大切に思っているのか。

 社には恐ろしく不似合いな殺気が物語っていた。


 乗せられてはならない。

 わかっていても、美禰を盾にしているカゲを今すぐ絞め殺したくてたまらない。そう思っているのと同時に、もう一人の自分が囁いている。



 本当に?

 お前は本当に、怒っているのか。



 耳元で絶えず問いかけてくる。それはどこかほくそ笑んで肩を撫でる。



 嘘だよ、彼らほど、本気で怒っちゃいない。だってわかっているからさ。あの人が、何度も何度も彼女の代わりを生み出そうと躍起になって連れてくるが――そうして自分の罪を見せつけているが――いままでのそれが、本当に彼女だった事なんてなかったじゃあないか。お前はまた命が潰えたと嘆いていたが、それでも彼女ではないとどこかで割り切っていた。彼女の残した唯一の形見を渡してきても、どうか守ってほしいと思いながらも、彼女ではないと、ずっと頭の片隅で安堵していた。何故かって?



「ここにいるからだ」


 沖島は、卑しく自分を揺さぶろうとする愛しい半身を宥めた。

 どの感情も、等しく自分である。何よりも、それは彼女が自分に与えてくれたかけがえのないものだ。彼女の感情のようなもの。あんなにも慈愛溢れ、住民に慕われていた彼女の持つ、仄暗い感情を分けてもらえたことが嬉しくてたまらない。何よりも愛おしい。この声は、実感をもたらしてくれる。彼女はどこにも行かず、自分の中にいる。


 そのはずだった。

 なのになぜ。


 沖島は、佐紀子にぐったりと身を預ける美禰を見た。

 本に覆い被さった慌てた姿や、世話好きであちこち動き回りながら見せる快活な笑み。どれも彼女とは似ても似つかないというのに、姿形だけではなく、持っている光が、彼女とよく似ていた。


「美禰くんを離してくれるかな?」


 沖島は、それに向かって話しかけた。

 穏やかで柔らかな声が、殺気立つ空気の中で滑稽に響く。

 佐紀子は首をカクンと傾げた。

 そのまま、ごろりと頭が取れてしまいそうだ。

 どうやら話が通じるらしい。


「ん」


 佐紀子が口を開いた。


「んふふふふふふふふ」


 笑いながら、左の黒い腕で美禰の身体に巻き付く。


「おい」


 轍はようやく沖島の腕を放し、顔をしかめて目の前を睨む。


「ああ。あれ、欠片だね」


 黒い腕は、藍色の壷の欠片だった。動く度に、がちゃがちゃと耳障りな音がする。いくら探しても見つからないはずだ。忌まわしい壷をあんなにも使役しているとは、なかなか見上げた根性だ。

 歪な感心をする沖島の足下を、轍が蹴る。


「痛いよ」

「おまえ状況考えろよ。素で関心すんな」

「いやあ。だってね、あんなの初めて見たよ。凄くないかい?」

「沖島」

「是非、どうやってそれをしたのか教えてほしいね。よければ、私に。どうかな?」


 沖島は尾をゆるゆるとうねらせた。佐紀子と美禰が、波に漂うように揺れる。


「んふふ」

「おや。楽しそうだ」


 沖島は、手で弄んでいた糸をすっと前にかざした。

 佐紀子がびくりと大袈裟に身体を仰け反らせる。

 糸が、牙を剥き出しにした獣のような獰猛さで噛みつかんばかりに前のめりになった。


「ご立腹だ。ね」


 同意を求めて轍を見ると、訝しげな顔を向けられる。


「あらま。こっちもご立腹だ」

「は、な、すな」

「うん?」


 佐紀子の声ではないどす黒い濁った声がごろごろと鳴った。

 離すな、と言っているらしい。

 余計に糸は激しく暴れようともがく。

 沖島は合点がいったように軽く頷いた。


「はあ、なるほど。君、勝手をしたのか」

「なに?」


 轍が聞き返すので、沖島はずいっと前に手を出して、再び拒絶反応を示す佐紀子の様子を見せた。

 顔が心なしかひきつっている。


「つまるところ、あれは外に出たら、速やかにこの糸の大本へ出向いて仕事をしなきゃならなかったらしい。解放させるのが目的で差し向けたというのに、なんと外に出たらかくれんぼを始めてしまったらしい。で、ほら」


 沖島は叫び声を上げて佐紀子の元へいかんとする糸を捻る。


「そのまま逃げられないと悟って、お土産を持って帰ってきたところだったようだよ」


 しかし、美禰にはコクヨウが付きっきりだったはずだ。

 スズも家にいた。

 それらを引き剥がしてここまで来たとは、何をしたのか。


「参ったね」

「本当かよ」

「本当だ。さて、あの子たちの力を借りれないとなると、どうしたものか」


 轍は不機嫌な顔で沖島を仰ぎ見た。


「本気か。おまえが呼んでないんじゃなくて?」

「うん。呼んでいるんだけど、来ないんだよ」


 あっけらかんと言い放つ沖島に、轍は一睨みして頭を乱暴に掻く。


「……スズもか」

「君ったら、彼女に関することだけ心配するんだね。コクヨウが可哀想だ」

「あの黒いのはお前の親だろ」


 沖島は笑った。

 確かにそうだ。コクヨウは沖島を長い間内側で培養してくれた、親のようなものだ。人にもあやかしにもカゲにもなれなかった無様な小さな魂を、掬い取ってくれた、愛情深いケモノなのだ。


「そうそう。その親も、来てくれないとなったらどうしたらいいものか。私は所詮無力なつまらない男だと認識せざるを得ないね。親離れできていない子のようだ」


 沖島は糸を縒る。

 耳障りな奇声に、轍はさらに顔をしかめた。そしてそのまま、佐紀子を拘束したままの綱となった尾に視線を走らせる。あんなにも強力に捕まえているというのに、まるで力など込めていないように、ふわりふわりと漂っている。轍は鼻をふんと鳴らした。


「どこがだ」

「どこもかもだよ」

「カゲに触って拘束なんぞ他の誰にも出来ねえ芸当だと思うがな」

「ふ。変なことを言うね」


 沖島は自分から伸びる尾を見た。うっすらとした透明な膜が霞んでいる。誰かが海の中で呼吸をしているように、ぷくぷくと細かい気泡が流れている。

 これが、神の使いでる彼らにはできず、神に愛された人である田淵にもできず、人になれなかった自分にしかできないというのならば――彼女の命を流し込まれた自分にしかできないというのなら、なんという皮肉だろうか。

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