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28 神の使い

 轍がしっしと手を振ると、なんて従順なのか、他の気配たちは素直に引き下がった。


 後ろに控えていたシロが口を開け、牙から滴った蜂蜜色のそれが、沖島の尾に向かってふよふよと飛んでいく。

 三つの尾に近づくと、蜂蜜の玉は霧散して尾を包んだ。

 一気に、暴れていた尾が鎮まっていく。

 シロは澄ました顔で、吹き荒れる風に揺れる沖島の袖がすとんと落ちるのを見つめていた。

 尾は宥められたように、沖島の頭あたりでゆらんゆらんと揺れる。


「――おかしいな」


 沖島は呟く。

 掴んだままの筒木の腕を高く上げる。

 操り人形のように、筒木の身体はだらりと傾いた。老人の顔は蒼白でありながら、その半分に、びっしりと米粒大の文字が埋まっている。怯えた目が、沖島を見ている。


「壷に刻まれているはずの封印の言葉がなぜ君の顔に?」

「あ」


 か細い声を漏らし、筒木は右の頬に爪を立てた。かりかりと引っかく。


「もう少しかな」


 沖島はずいっと顔を近づけて、囁いた。


「誰の命令で出てきた?」

「う」

「おしゃべりが苦手なのかい? では、こちらから」


 沖島の尾が、背からぐるりと伸びて筒木の身体を締め上げるように包んで持ち上げた。

 筒木が見たのは、沖島の肩越しに見える座っているシロだった。

 美しい毛並みと、深い夜の藍色の瞳が煌めく。瞬時にマズいと感じ取ったのか、視線を逸らそうとしたが、無駄だった。



 沖島は身体を硬直させた筒木を前に、ゆっくりと目を伏せる。



 映像は恐ろしくクリアだった。

 観念したのだろうか、それとも、筒木自身が思いだしているのだろうか。

 掛け軸を前に、その小さな足は止まっていた。




 その奥に廊下が続き、奥座敷があることを、その足はよく知っている、白い足袋の先が、もぞもぞと動いている。悩んでいる。躊躇っている。それと同時に、足を前に出さなくては、という焦燥感に刈られている。掛け軸の向こうから、誰かが手招きしているような気がしてならない。普段ならば、ここの管理はこの社に住み着く者たちに任せている。近寄ることもしない。なぜこうして立っているのか、自身もよくわかっていない。

 祭祀を一ヶ月前に控え、ここは高揚感で満たされている。準備は粛々と進み、巫女の選定も終わった。神託も受けることができた。そのことに、恐ろしいほどの安堵感があった。長い間、何も疑問に持たなかった。今もそうだ。それが正しいことだとわかっている。それがなければ立ち行かないことも、頭で理解している。

 しかし、どうしても恐ろしい。


 白い足袋は、ゆっくりと前に動いた。

 枯れ枝のような手が、そっと掛け軸を横に払う。


 廊下が見えた。黒光りする廊下のずっと奥から誰かが手招きをしている。吸い寄せられるように、その足は迷うことなく進む。檻を開け、八角形となった部屋に入り、一目散に一つの壷に駆け寄った。


 渋色の壷に手を伸ばした途端、ひらりと封が一瞬だけ開いた。隙間から、髪の毛のような黒い糸が筒木の顔をめがけて伸びる。そのまま、右の目へぬるりと入っていく。筒木は反射的に壷の封を押し込めた。力が掛かったのか、縁がほんの少し欠けて手のひらに刺さる。筒木はそそくさとその場を後にした。

 どうしてかそのまま隠れるように自室に向かい、買い物机を前にして文をしたため始める。身体が勝手に動いている。感情はどこにもない。右目は白く濁っている。引き出しから香り袋を取り出して、欠片を忍ばせる。急がなければ。誰かに見つかる前に。あの壷を、使わせてなるものか。





「なるほど」


 沖島がにこやかに笑う。


「でもまだだ。続きを」


 筒木の目はシロから離されていない。いいや、離すことができない。必死に身体を動かそうとしているが、沖島がそれを許さない。


 映像は未だにクリアだった。誰の邪魔も干渉も入らない。

 沖島は漏れ出る苦笑を抑えることができなかった。




 暗い廊下だ。奥座敷へ続く廊下。外から横笛の音が聞こえる。太鼓の音、珍しく、境内に多くの人がおりなす心地良いざわつきが満ちている。今年の巫女は、コツコツと舞を自分の身体に降ろすのが上手かったので、それはそれは見事な姿を堂々と披露していることだろう。人々の熱気が、それを物語っている。祭祀はこうして、いつもはない興奮で町を包んでいる。誰でも例外ではない。


 藍色の壷を抱え、歩いている。

 掛け軸の裏へ向かう。白い手がすっとそれを横にずらす。佐紀子が、筒木に笑いかける。筒木も笑う。勝手に頬が痙攣する。目が合っているはずの二人は、どこも見ていなかった。壷を風呂敷で包み、機械のように譲渡を済ませ、それぞれその場を後にする。


 筒木は、筒木の濁った目は、佐紀子が出て行き、戸惑う青井にそれを持たせるのを見送った。そうして舞殿で奉納が終え、人々にうちわを配り終えて後片付けをして異変に気づくまで、何一つ自覚していなかった。

 自分が何を成したのか、それが何を意味するのか、誰を死に追いやったのか。





「青井くんは死んで、佐紀子くんは行方不明だよ」


 沖島は優しく諭した。

 筒木の目が、ようやくシロから解放されて、おどおどと沖島へ向かった。沖島の目は静かに凪いでいる。普段は近づけもしないはずの――それも、祭祀の時にようやく重たい腰を上げてご機嫌伺いにくるのにもかなりの労力を要しているというのに――鳥居の前で、すべてを解放している。それも、彼らの前で。


「状況を飲み込めたかな?」

「何を」

「君が何をしたのか聞いているのなら、それは今一緒に見たじゃないか」

「どうして」


 途切れ途切れの言葉から、筒木が混乱していることが見て取れた。しかし、それに寄り添って懇切丁寧に説明する義理はない。沖島は表情を変えないまま、筒木の身体を締め上げる尾に、さらに力を込めた。


 ウッとうめき声を漏らし、苦しげに白眉を寄せる。

 右の顔に浮かぶ文字が、虫のようにざわざわと移動をする。


 もう少し。


 沖島は、筒木からそれを絞り出す一方で、今ここにどうしてコクヨウとスズが飛んでこないのかが気にかかっていた。沖島が尾を解放した時点で、彼らは自分たちが介入すべきと判断するはずだ。今まで呼べば、彼らは言葉通り飛んできた。

 コクヨウが美禰から離れないのは折り込み済みだとしても、それならばなおさら、榻の結界があることで、彼女を家において心おきなく来るだろうに、そんな気配はさらさらない。


 何かあったか。


「沖島」


 轍が、細い身体をさらに細くした筒木の後ろ姿を表情ひとつ変えず見ている。


「説明しろ」

「次の替えの壷は今どこに?」


 びくっと、筒木の身体が震えた。

 轍が眉をつり上げる。


「蔵だけど」

「見たのかい?」

「いいや。でも、そろそろ必要になるだろうからと筒木が清めに出したぜ」

「本当に?」


 沖島は轍をちらりと見た。

 筒木の目玉が、追いかけるようにぎょろりと動く。目が、やめてくれと懇願している。

 沖島は轍を見たまま、事も無げに告げた。


「割っているよ。もうない」


 沖島を囲む気配が、びりっと強く震えた。

 彼らの怒りが、その視線が、沖島を通り越して筒木に刺さる。

 筒木の微かに開いた口が震える。頬の文字が右目に集中し始める。


「その壷、彼の両親のだね?」

「ああ」


 苦虫を噛み潰したように、轍が頷く。そうして、やっとこちらに近寄ってきた。


「カゲを封じるのは、筒木の家の務めだ。この町のこの家に産まれたら、その身を捧げることに疑問を持つことすら許されない。捧げるんだよ、生きて死んでもその後も」

「焼いて骨になっても、ね」

「おまえ、何で」


 轍は下からじっとりと筒木を睨み上げた。その目に嫌悪とともに、理解しきれないという疑問が浮かんでいる。

 筒木はもがいた。

 文字は眼球に向かって染み込んでいく。苦しそうに顔をゆがめるが、沖島は許すつもりはなかった。ここで少しでも抜けば、上手く隠れてしまうだろう。そして時間も稼ぎたい。自分にできることは限られていて、言ってしまえばこうやって締め上げるしかできない。あまりに無力で、嘆かわしくてたまらない。


「ううう」

「おやおや、ようやく喋る気になったかい」


 ――おぞましい。


 筒木の目から、細い糸がぬるりと出る。

 その糸が、筒木の内面を引き連れて絶叫する。


 ――あんなカゲのために、父と母の骨が、その囲いになる為に死してなお安息を得られないなぞ、おぞましくてたまらない――尽くして、尽くして、ようやく解放されたというのに、役目を終えた後に待っているのが、あんなものを抱き抱えるための器になるなど――


「そうだね」


 沖島は優しく頷いた。

 ずるりと抜けた出した糸が、天高く舞って逃げようとするのを、シロがすかさず絡め取ろうとする。

 呆けた顔の筒木の前に、琥珀色の密がいくつも揺れる。

 糸はするするとその間を抜けた。


 轍が目を見張る。

 なるほど、やはり、これはただ単に欲にまみれた愚かなそれではない。そうなると、十年前の捕獲劇はおとなしく捕まってやった、というのが真相に近いのかもしれない。


 沖島は、すり抜けていこうとした糸を指先で摘んだ。そのまま逃げることを許さず、手のひらに力一杯握り込む。

 ギャアッという、金切り声が筒木と沖島の間で漏れる。


 筒木の顔は蒼白を通り越してまるで血色がなく、沖島が握るカゲの糸を見つめ、わなわなと震えていた。尾で拘束していた筒木の身体を、地面に降ろしてやる。

 へなへなと座り込みながら、筒木は沖島を見上げる。

 自分のしてしまったことを突きつけられ呆然としているが、本当に無意識だったのかは怪しいところだ。

 筒木には自覚があった。

 強い焦燥感に襲われ、それを回避しようと言う意思が間違いなくあった。


 沖島は手の中でもがく糸を静かに見下ろした。針金のようなそれは、ジグザグと身体を捩ってどうにか出ようとしているが、沖島の尾は筒木から離れ、手のひらに集まり始めている。分厚い気配が腕に絡みつく。


 こんな、小さく力ないものに、脳のすべてを操られてしまうことなどありえるだろうか。負の感情を増幅させ、行動を制限し、思い通りにできるほどの影響を、与えられるものだろうか。


 ふと、夜空を見上げる。

 頭上輝く青白い月が、この場を空々しく美しい舞台へと仕立て上げていた。

 あれも神の一つらしい。

 あの月は、遠く遠く、遙か先から見下ろしている誰かの眼の中の光の粒だと、彼女は言った。



 神は細部に――そして考えもつかない場所に――近くて遠くて、ちっぽけな爪の先に――あなたの傍にいるのよ。



 だから用心しろ、と言いたかったのか、だから安心して眠れ、と言いたかったのか、沖島は今もよくわからない。彼女はそれを教える気はないのだと、その美しい笑みを見ればわかったからだ。


 沖島は筒木を見下ろした。


 だとすれば、この見窄らしい神の使いだった者の隣にも、まだ神はいるのだろうか。寄り添っているというのだろうか。

 反旗を翻した、愚かな老人。

 その小さな身体の震えは強くなっていき、ガタガタと全身を揺らしていた。


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