27 翼
大志は握り込んだ拳の親指の上におはじきを置き、ピンと弾いた。
「世界の真ん中、どーこだ」
ついでに呟いてみる。高く上がったそれはひゅっと落ちてきて、大志の手に再び戻ってきた。
足下には円などないし、子供たちがうろつくような路地ではないのに、どうしてこんなところにあるんだか。
手に取ったおはじきを目の高さで見つめていると、そこにゆらりと影が差し込んだ。誰かが通りを横切ったのだ。
大志はおはじきをずらし、何気なくその人影が気になって通りに戻った。
数歩先に、美禰の背中が見える。
誰かに腕を取られ、引っ張られるようについて行っていた。
その背中からは戸惑いを感じ、手を引いているもう一方の背中からは得も言われぬ何か迸っているように見えた。はしゃいでいるような、どこか、螺子のはずれた歓喜のようなもの。
違和感の正体に気づき、大志は呆然とその姿を見た。
あれは、佐紀子だ。
異様だった。祭祀の夜に見た浴衣姿のままで、その左腕の肘からはだらだらと血を流している。
大志はすぐに駆けだした。
向かいの寺の山に向かって、紙袋を強く抱きしめ、ひたすら走る。
○
「沖島さん」
声を掛けられ、沖島は小料理屋の引き戸を開けて顔を見せた翼に気づくと、田淵に手を挙げた。
田淵は仕込みをしていた手を止めて、席を立った沖島の湯飲みを下げる。
翼は田淵を見ると、白い顔に乗った薄い唇を少しだけ笑みの形にした。左目の下にある泣き黒子が心持ち上がる。腰まである黒髪を三つ編みにして、浅黄色の袴を着ている。性別は、今のところ不明だ。
「お久しぶりですね」
声もほんのすこしハスキーで、どちらとも区別が付かないが、沖島には翼が元の姿に戻ったところを見たことがなかったので、そちらの方が気になって仕方なかった。
「ああ」
「先日は、祭祀にお越し下さり有り難う御座いました。お二人揃った姿に、母も大変喜んでおりました」
恭しく頭を下げる。翼は服装からしても、あの中の誰よりも礼節に厳しい。こんな事態とあっても時の挨拶を交わすほど生真面目だ。沖島は苦笑を漏らした。
それに気づいて、こくりと首を傾げる。
「何か?」
「いいや。君は相変わらずだね」
「そういえば、ご無沙汰しておりましたね」
「ああ。ざっと十年ぶりだよ。君は社から出てこないから」
「務めを果たしているだけです。非常時以外には出歩きなど致しません」
「では、今は非常事態だね?」
沖島が言うと、翼は思い出したと言わんばかりに、綺麗なアーモンドアイを見開いた。
「そうでした」
「そうだよね」
沖島はシロがついてきているのを確認し、田淵に礼を言って店から出れば、不思議なほど五番通りは静まり返っていた。
「もう夜ですよ」
翼が空を見上げる。
「いつ見ても変わらないのでわかりませんよね」
「夜って言っても、まだ夕刻くらいだろう」
「時間の感覚はありましたか」
「騙したのかい? 君が?」
「いいえ。冗談を言ってみたのです」
「はあ」
沖島は、あまりにも似合わぬ単語が出てきたことに軽く驚き、隣を歩くすらりとした翼の横顔を見た。
長い前髪の隙間から、轍とよく似たパーツの目が細められる。
「あなたが緊張しているように見えましたので」
「なるほど。お気遣いありがとう」
「いいえ」
沖島は、続く石畳の緩やかな坂を上りながら、やはり人の気配が無いことが気にかかっていた。いくら静かな町と言えど、夕刻となれば学習塾から戻ってきた子供たちが出歩いて少々賑やかだし、仕事を終える大人たちのために仕込みの終えた立ち飲み屋から、食欲をそそるにおいが漂ってくるはずだ。
しかし、気配一つ、におい一つしない。
まるでここから住民がそっくり消えたように、町は静まりかえっていた。
「少々、こちらの手を回しました」
翼はちらりと後ろを振り返る素振りをした。
沖島も習うように振り向くと、坂の下の五番通りの石畳の真ん中を、白い靄がすうっと流れるようにこちらへ向かってくるのが見えた。
それは田淵の店の前でくるりと周り、また戸を閉める。
どの家も薄い煙幕で覆われている。
沖島が田淵の店でつらつらと話をしてくつろいでいた間に、町はすっかり彼らの手によって守りに入っていたらしい。
靄は白い牛の姿となって、また流れるように町を回り始める。
「榻か。久しぶりに見たな」
沖島がその雄々しくも美しい姿に感心していると、翼は再び足を前に出した。
並んで、また坂を上り始める。二つの影が石灯籠に柔らかく照らされて動いていく。
年に二度も参ることになるとは。
それも、祭祀の一週間後に。
けれど、いつものような、血が沸騰するような自制の聞かない高揚感は湧いてこなかった。安堵するような、ひどく落胆するような複雑な心情に喉の奥で乾いた笑いがこみ上げそうになる。
畏れているのか、焦がれているのか、厭うているのか、これではわからなくなる。
翼がぼそりと呟く。
「榻は、出番以外では眠っていますから。沖島さんのおかげと言いますか、我らの出番は減るばかりです」
「君らが社から出るのは、危険と隣り合わせだと思うが?」
「いいえ?」
翼は初めて感情を出したように、怜悧な瞳の奥で笑った。
「壷の見張り番が十一いて、この体たらくですよ」
彼らが、おぞましいほどにこの事態に関して猛烈な怒りと恥を感じているのが一瞬でわかるほどの、冷たい声だった。
「母君はお怒りかい」
「そうですね――どうでしょう」
翼は不思議そうに空を仰いだ。
「我らも、この事態の詳細は先ほど捕虜を連れ帰った轍にここで聞いたばかりなんですよ」
細い指先で、とんとんと頭を叩く。
「社の外のことは、基本的には轍しか動くことはないですし、筒木があなたに壷の対処を任せたことで、こちらの手は引いたも同然でした」
「だろうね」
「していたことと言えば、留守の櫂を除いた十一の顔を揃えて他の壷の変化はないか睨んでいただけですよ」
「仕方ないさ。君たちは守るための存在であって、うろちょろする部外者を適当に処理するのは私で十分だ。それに、気が向けば、君らの母君が気ままに力をふるって排除してくれるじゃないか」
沖島の言葉に、翼は目を伏せて笑った。
「ふ。しかし、まさかこちら側に責があったなど、ゆめゆめ思いませんでしたよ。母君は、あの捕虜に興味がおありのようで、そちらに付きっきりです。しばらく遊んでらっしゃるでしょう。我らと繋がっているので何も知らないわけではないでしょうが……あの方は、そうですね、気ままでとてもおおらかですから」
「そんなことを言えるのは、君たちだけだよ」
「そうですか?」
「矮小な私には、かの母君のお心など想像もできないさ」
「まるで人間のような口振りで」
翼はくすくすと笑った。
沖島は肩をすくめて見せる。
「長く居すぎたせいかな」
「長く、ですか。そう言えば、今年は鳥居前まで来れたとか」
「ああ」
「なら、ちょうどいいですね」
「と言うと?」
翼は、白い手をすっと前に出した。
足が三本ある鳥居が見える。
鳥居の真ん中の足には注連縄が巻き付けられ、雷の形をした紙四手が風に巻き上げられるように揺れていた。
そこが、ぽっかりと開けていた。
まるで舞台を誂えられているように、不自然に静まり返っている。
姿を見せてはいないが、木々に隠れるようにいくつもの気配を感じた。
「おやまあ、これは。櫂が来たら勢揃いだね」
「ええ、まあ」
「では、見張っているからどうにかけりをつけて見せろ、と」
「そうなりますね」
「手厳しい」
「そんな顔ではないですよ」
「そうかい?」
軽口を叩き合っていると、鳥居の奥から小さな二つの人影が見えた。
轍と、筒木だ。
筒木は、事態を飲み込めていないようだった。垂れた瞼に埋もれた瞳は、何事かときょろきょろと忙しなく動いている。よく知った身内が社の外で待ちかまえていることに、当惑している。
その仕草一つを見ていても、筒木がカゲに操られているようには見えなかった。
沖島は、足を止めた翼を追い抜かし、鳥居の前に出てきた筒木の前まで歩み寄り、笑みを浮かべて見せた。
「やあ」
「これは、何事なんです」
筒木は戸惑いを口にした。
シロが沖島の一歩後ろですっと腰を落とす。轍は鳥居に寄りかかり、少し離れた場所で静観を決め込んでいる。二人とも離れる気はないらしい。
沖島は腕を組んだ。リラックスしたような顔で、筒木の顔をじっと見つめる。ともすれば、慈愛に溢れて微笑んでいるようにも見えた。
筒木は余計に困惑し、轍は呆れた眼差しを向けてくる。
「君が隠し立てしているおかげで、こうして榻が結界を張っても出てきやしない。困ったね」
「何を言っているんです」
「かの御方の息吹である十二支の彼らがこうして揃っていて、何事の一言で済むと本気で思っているのかい?」
沖島は心底不思議そうに筒木を見下ろした。
本気でそう言っているのなら、なんとおめでたい。
その昔、沖島の前で祭祀のために走り回っていた無邪気な神童は、時を経てこんなにも鈍感になってしまったのだろうか。
突然襲いかかってきた七十五年という年月の惨さを突きつけられたような気がして、沖島はゆるく笑んでいた。哀れだ。自分も筒木も、その奥で座らされて居るであろう倉本も。
なんて無力なことか。
沖島は、ぎょっとする筒木の腕を取った。
今にも折れそうな皮と骨だけになったそれに、思い切り力を込めて握る。反射的に引こうとする肩を、もう一方の手で押さえる。
「さあ。隠れていないで出ておいで」
沖島は狐のような目を細めると、肩に掛けた羽織を勢いよく飛ばした。どこかに舞っていく。ほんの少しだけ、奥に隠していたそれを出してくれた美禰に詫びる。
沖島の背中から、三つの尾が出て高く呻り上がっていく。
随分久し振りに、こんなに自由にすることができる。それぞれの尾が、歓喜を表すように左右に広がってどこまでも伸びていこうとする。
血がふつふつと沸き始める。
沖島は自制しようとしなかった。
こんなにも喜んでいるのだから、それを阻むことなどできない。
沖島は笑っていた。
なんて懐かしく、待ちわびていた瞬間だろう。あの瓶の蓋を開けたときから、待っていた。彼女の気配を近くにに感じ、確かに自分の中に彼女の力が注がれたのだと実感できる、この瞬間を。
沖島の目が、底光りする。
思い出す。初めてコクヨウから切り離された日を。世界はビー玉の中のように現実感がなく、内側から叩いてもそれは破れなかった。誰かが柔らかな手で、引き上げてくれた。そうして言った。
あなたを待っていたのよ。ずっと。ずうっと。
ああ。こんなにも声がはっきり蘇ってくるとは。
沖島は恍惚とした顔で、夜空に昇る彼女の一部である尾を見つめた。彼女とコクヨウと自分の尾が、喜びの雄叫びを上げている。鳥居を前にしても、それは力を緩めることを知らむように――もしくは素知らぬ顔をして――あの人の裾野で暴れている。
もっと。もっと好きにすればいい。それが望みなら。
沖島は、自分の内側でくすぶっていたそれに囁きかけた。
髪を結っていた紐が弾け飛ぶ。美禰が絡まった髪を解いたあの指先の感触が蘇る。それを外へ追い出して、沖島は老人の腕を掴んでいることも忘れて、さらに解放しようとした。
木の陰に隠れている彼らが、それを敏感に感じ取って臨戦態勢に入ろうとする。
できるのならやればいい。
重力に逆らい、巻き上げられる髪に隠れ、沖島は笑う。
今にも押さえつけに入ろうとする殺気立つ九つの気配を制したのは、轍の腕一本だった。




