24 無邪気
轍はどこに行ったのだろう。
うまく働かない頭の端で、あの少年に助けを求めていることに愕然とする。彼が自分を厭うのはわかっているのに。よりにもよって、野瀬の名前を使って卑怯な手で居着こうとしていた不審人物を、誰がこの檻の中から出してくれるのだろう。
倉本は知らずに俯いていた顔を上げた。
八角型の部屋は、壁が漆喰でできているおかげで、ぼんやりとだが明るさを保つことができている。明かり取りの細窓から、ぱちぱちと火が爆ぜる音がする。
火が、外で、燃えて、照らして、いる。
社の鳥居をくぐった瞬間から、今まで感じたことのない視線を感じた。
左手には祭祀の時に舞を見た、舞殿。右手奥には、木造二階建ての家から、明かりが漏れている。
しかし、倉本の目は、白石の敷き詰められた一角に吸い寄せられていた。
そこは、どこか内側から光っているように見えた。
半円状に広がる白い砂利の前には柵に注連縄が巻き付けられ、神域であると知らしめるように白い雷を模した紙垂が揺れている。
目を凝らすと、砂利の中心に小さな祠が見えた。
案外、あの砂利の空間はとてつもなく広いのかもしれない。
小さな祠は、美しい佇まいだった。
静謐さが際だち、そこに恐ろしく清浄な空気が流れていることが遠目でもわかった。
祠の奥には、石段がある。いいや、そう見えたが、近づくとそうではないことに気づいた。祠の背後には山があるが、後ろにちょうど切れ目が入っていた。山の間に、誰かが大きな木をなぎ倒した後のように、細い道ができている。奥まったそれは目視で確認できないが、そこからずっと、山肌に沿って砂利が続いている。
この山一体が、神域なのだ。
轍は、倉本を舞殿へと引き連れた。
裏に回り込むと、なにやら蔵のような建物がある。轍が手で払う仕草をすると、それは内側から勢いよく開き、二人を招き入れると静かに閉まった。
倉本はもう何にも驚かなかった。
驚けないほど、緊張していた。
誰かが見ている。自分の挙動を、じっとじっと伺っている。
舞に使う道具や、神社らしい道具が眠っている中で、轍は壁に掛けられた掛け軸の前で止まるとぺらりと横へずらした。
入り口のようにくり抜かれている。
その奥から、妙な気配がした。
あまりにも不釣り合いな――
轍が振り返る。
行くぞ、と笑う顔は、どこか哀れみを帯びていた。
さして長くはない廊下の突き当たりに、鉄の格子が見えると、これが「奥座敷」なのだと倉本は察した。
腰丈ほどの小さな入り口を開けられ、有無を言わさぬ力に後押しをされて押し込まれる。部屋の中でたたらを踏む倉本に、轍は座布団をよこした。
そこの真ん中に座ってな。迎えが来るまで動くなよ。
それが命令ではなく、忠告なのだとわかるほど、部屋の中の空気は異様だった。
いいや、部屋なのではなく、八角形の部屋の角に配置された壷から発せられていた。封をされているというのに、おぞましい気配が漏れ出ていた。ほとばしる火のような気配。
火が、そばで、燃えて、照らして、いる。
まただ。
倉本は滴り落ちる汗の音で、意識を戻した。
何かに気取られ、思考がふっと飛ぶ。そして、夢を見ているような曖昧さで、今自分のいる場所を何度も確認をする、ということを繰り返していた。
時間の感覚はない。
今が何時で、ここに来てどれくらい経ったのかまるでわからない。外の気配は変わらないかと伺うが、どこか静まりかえっているような、それでいて騒がしい気もする。
倉本は纏まらない思考に、頭を振った。
全身に這う手のような感覚がずっとある。
それは背中をなで回し、手の指一本一本を柔く握り、最後に頭の中に侵入してきた。
何かをのぞき込むように、頭の中の記憶を出し入れしている。
その気配は、あまりにも無邪気であり、どこか懐かしくもあった。倉本にも覚えがある。テストの回答を見られぬように捨ててあったはずだが、その日の夕飯に、母親がこちらを見て、テストはどうだったの? と聞いた。その瞬間に、捨てたはずの赤点まみれのそれが、もう向こうの手に渡ってしまったことを察知した。
逃げるべく誤魔化すべきか、観念して自ら白状すべきか、頭の中ではうるさく駆け巡っていた。
しかし、それさえも見透かしたような、どこか慈愛ある笑みで見つめられると、猛烈に恥ずかしい気持ちがこみ上げてきて、白米をかき込んで何事もなかった顔を必死で取り繕ったのた。
今まさに、その状態が続いている。
北風でも太陽でもない、その間の穏やかな優しい空気が、さあ見せなさい、と容赦なく倉本の隅々を調べている、そんな感覚だった。
あまりにも恐ろしい。
恐ろしいと思うことに、謝らなければならないと思うほど、その気配は想像できぬほど高い場所から注がれている。言葉にするのすら恐れ多い。ひれ伏さなければ。機嫌を損ねてしまうことがあってはならぬ、と倉本は子供のようにびくびくしていた。
汗はずっと滝のように流れていて、服に吸い取られては重く、冷たくなっていく。
頭を強く揺さぶられている。
あやされるように。
何か囁かれている。
言葉ではないさざ波のような声で。
そしてその背後で、それを恐れて壷が震えている。
なんであんな壷がこんなところにあるんだ。
倉本は再び酩酊に近い状態になりながら、座布団から出ぬようにだけ気をつけていた。
ここから出てはならぬ。
ならぬ。
出たい――出たあい――ここから出して――いつになったら戻ってくるの――せっかく出してやったのに――勝手に外をうろついて――不義理なやつだ――本当に本当に――ほうら、立ち上がって、壷を割って――だめだめ、割るのは外に出てからじゃないと――怖いよ――ーかになさい、あの子が来るまで待つの――そうしたら、あれを頂きましょう――娘、娘――美味しい娘――
倉本はぞっとした。
なんて無邪気な声。複雑に重なった不快極まりない声は、大合唱を続けていた。出せ出せと言いながら、こちらを見て笑っている。
どうしてこの人それを気にしないのか。
未だに自分を弄ぶように撫で回しているのに、後ろで不愉快なことをこそこそと呟き続けるそれには、まるで興味がない。
お願いだから、あっちを黙らせて。
倉本は子供のように懇願した。
なぜあんなにも凶暴で陰鬱な気配を罰しないのか。この人はそれができるはずなのに。どうして。
声はどんどん大きくなり、歌うように陽気に笑い始めた。
むーすーめーを、たーべーるぅ。
声が膨らんだ。
と思った瞬間、ぼとぼとと何かが落ちる音が両隣からした。
そろそろと目を開いて、それを確認する。
お手玉が落ちているように見えた。
右に二つ、左に四つ。
しかしそれは奇妙な動きでもごもごとのたうち回りながら、倉本のそばへ寄ってきた。
瞬間的に、ここから出なくては、という考えが頭をよぎる。
わかっているのに、身体が言うことを聞かない。今まで鍛えてきた自分の身体は、一切自分の命令を聞こうとしなかった。
いいや、何かで押さえつけられていた。
抱きすくめられるように。締め付けられるように。
倉本はひきつった悲鳴を喉の奥で漏らす。
転がってきた黒い靄には、いくつもの目が埋まっていた。
ぎょろぎょろと動き回る目玉が、一斉に倉本を見て止まる。目は三日月のように細められた。
笑っている。
わあい、ごはんだ、ごはんだ――なかなかしぶとそうだ――こういう中身が強い奴はご馳走だ――やったあ――
六つの目の塊が嬉しそうに倉本を包囲する。
死ぬ、と悟るには十分すぎるほどの、殺意が向けられていた。
その中の一つが、床を弾くように飛ぶ。
倉本の顔面に向かって、カゲが伸びる。
お前、カゲ言われてわかるか?
突然、田淵の声が戻ってきた。
ああ、わかります。人の弱みとか、悪意とか――心を食べて大きくなるような、趣味の悪いやつですよね。黒くて、本当に影みたいな。
そう返している自分が目に浮かんだ。
田淵が笑う。
そうや、そうや。
倉本は嬉しくなる。
よかった。これで僕も瓦町の住民ですね。
笑っている。
田淵が。自分が。野瀬が。
倉本の目の前まで飛んできたカゲが、ぴたりと動きを止めた。
いくつもあった目がぱっと消え、ただの黒い塊になる。
今まで靄のようにふわふわとしていたのに、今倉本の目の前にあるのは、磨き抜かれた黒球だった。つるりとした表面に、虚ろな男の顔が映っている。
黒球は、じっと倉本を見ている。
倉本も、それを見ている。
その奥に、野瀬が姿が見えた。
肌が異常なほど透き通っていく野瀬の見舞いに訪れた倉本は、いつしか野瀬に同情とも言い難い感情が芽生えていた。
自分に兄弟はいなかったが、兄がいればこんな感じなのではないかと、野瀬を慕っていた。それほど野瀬孝という人間は、静かでいて聡明でありながら、なかなか意志の強い男だった。
死ぬとわかっているのに、怯え一つ出さなかった。
野瀬の中には死への恐怖というものが、なかった。
命知らずで屈強な男たちがいる軍部の人間でさえ、こんな穏やかに強い目を持つ者は一人とていなかった。
尊敬していた。
野瀬孝という男を。
倉本の双眸から、どっと涙が溢れる。
黒球はくるりと周り、青い光を放った。
倉本を襲い来る残りのカゲを、痛いほど眩しい光で焼き払う。
倉本は自分の身に安全が訪れたことなど気にしちゃいなかった。
野瀬のことしか頭に浮かばなかった。
どこかでわかっていた。
野瀬は、瓦町に戻れば生きながえられたのではないか、と。
「うわ。辛気くさい男」
倉本は、突如割って入った声に、顔を勢いよく上げた。
牢の向こうで、おかっぱ頭の女が、短いデニムスカートから足を伸ばして、こちらを見下ろしていた。奇抜な花柄のシャツに、大きなサングラスという出で立ちは、ここがどこかわからなくなるほどの衝撃だった。
倉本は頬を叩かれたように、呆然とした。
「ちょっとー、やっぱりそんな格好じゃ目立つって言ったじゃん」
後ろから、ひょいと長身の男が出てくる。
倉本は、不思議なことにこれにはすぐに理解できた。
轍の同類だ。
女と同じく派手な花柄のシャツを着ていて、色白で手足が長く、一重瞼の左頬の下に泣き黒子があった。まさに、轍に十年ほど年をとらせたような姿。しかし、どこか軽薄そうな表情をするので、一見同じ顔だとは思えない。
倉本がすぐにわかったのは、この男から人ではない気配を濃厚に感じ取ったからだった。
「えー。なになに、勘がいいんですけど」
間延びしたしゃべり方で、男はその場でタカタカと小さく跳ねた。
「五月蠅いな、櫂。ゲージに入れるよ」
「ひどい」
「すぐ出る癖になに言ってんだか」
女は、颯爽とサングラスを取った。
黒曜石のような、透き通った黒々とした目が、まっすぐに倉本を射抜く。
「お勤めご苦労さん。生きてたなんて、ラッキーねえ」




