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23 記憶


 田淵が投げてきたそれを、沖島が受け取る。


 黒い革財布を開くと、中に身分証が入っていた。渡部の名前に、生年月日と顔写真。不審なところはないが、田淵の指示に従って傾けると、国旗のホログラムの中心に、二つの剣が交差している絵が浮かんだ。


 なるほど、軍部か。

 沖島はそれを筒木に見せた。彼は最近目立ち始めた目元の皺を一層深くして、焦げた人形に一瞥くれた。



 いつ紛れいたのやら。


 さあ。彼はどちらかというとこの町に絆されつつあったのにね。


 おい。なんか聞こえんか。



 田淵が顔をしかめる。

 コクヨウはベッドの上に飛び乗って、何かを追いかけるように手を俊敏に右や左に動かしている。見ると、小さな黒いカゲが這うように逃げていた。


 それとは別に、何か金属音のようなか細い音が、どこかから漏れ聞こえる。

 三人の視線が、渡部だったもので止まる。

 折り曲げた右手らしきものが、頭部にくっついているが、その隙間に焦げていない物があることに気づいた。それは、ようやく見つけてもらえたとばかりに銀色に光る。


 電話だ、とわかった瞬間、沖島はそれに手を伸ばしていた。

 何の躊躇いもなく、携帯を引き抜く。


 ぼろりと塵が舞い、頭と手の間に隙間ができる。窓の外がかいまみえ、渡部が何を見ていたのか、沖島は気づいた。

 電話口から、なにやら声が聞こえてくる。



 ――渡部、おい、渡部。報告を続けろ――どうなってるんだ。おい、どれくらいになる――通話が無言になって三十分です――くそ、どうなってるんだ。渡部、渡部――



 彼は、もう話せないよ。

 沖島はそれに向かって冷静に告げた。


 コクヨウが追いかけていたカゲが、突然鋭い刃のような形になり、ベッドから飛び出す。コクヨウはそれを見送るように目を細めたのに気づき、沖島は、ぐに携帯を離した。


 何か喚いているそれが、ゆっくりと落ちる前に、カゲはぬらぬらと刃を光らせながら、美しい海のようなきらめきのようなものを連れて、携帯の中に飛び込んだ。



 うるさかった声は突如断末魔となり、それから無音になった。



 沖島は窓の外を見ていた。

 東の空が、うっすら明るい。

 あの明るさはどこか懐かしいが、それ以上にひどく遠いような気がした。渡部の言っていた言葉を思い出す。


 向こうは夜明けなんだなって、思うんです。


 本当だ。

 沖島は、記憶の中で気の良い笑みでほうじ茶を啜る渡部に、本当だね、と返した。

 田淵と筒木が、床の上でぐるぐると不気味に回る携帯をじっと見下ろしている。









「渡部くんは、あの日初めて報告を入れたようだったね」


 沖島は渋い顔をしたままの田淵に、昔話のような気軽さで投げかけた。


「ああ」


 田淵がぶっきらぼうに呟く。

 田淵は田淵で、沖島と同じように渡部を気に入っていた。


 それまでも、何をする気か知らないが邪な計画を持って入ってくる者がどこかで黒こげで見つかることはあった。とは言っても、それも欠片だけであり、見つかって数時間もすれば塵となって消える。誰も気にしない些末なことだった。害なす者には容赦ない鉄槌が下されてきたおかげで、それがどこから送り込まれた人間なのか、どんな意図を持って入ってきたのかも、誰も気に留めないし口にしなかった。


 けれど渡部は、初めて正々堂々と正面切って住人に接触してきた。


 こそこそ入り込む不届き者がいるという前提が皆にあったせいで、彼は不審人物ではないと気を許したことが、こんなにも爪痕を残してしまった。


 まだどこかで、あの渡部という男は本当に人が良い人間で、誰かにいいように使われただけではないかと思っていたいのだ。


 それほど渡部は入り込むのがうまかった。

 身分を詐称し――本当に植物博士だったのかもしれないが――何事もない顔で住民に接触し、この町で長く生きてきた田淵と沖島を前に、定食を平らげていた。

 それを平然とやってのけた上に、祭祀を前に送り込まれたことも考えると同情の余地などないのだが、いかんせん渡部は本当にこちら側に傾いてた。


「きっと彼は、認められつつあったんだろうよ」


 沖島は湯飲みを揺すった。


「ここの住人になりそうだった。私から見ても、君から見ても」


 ちらりと伺うと、田淵は返事こそしないが、異論はないようだ。

 いかつい顔が険しくなる。


「でも、あの日の朝に、電話に出てしまった。報告を促され、祭祀のことでも話したのかもしれない。瓦町のありとあらゆる場所の悪意に手の伸びるあの人のことだ。早くも察知されて、あのざまさ。いつもなら木っ端みじんにしているところを、わざわざ綺麗に整えて残して、瘴気で包んで私たちを向かわせるなんて、君らの母君は懇切丁寧に忠告してくれた」

「本当やな」


 田淵は自嘲気味に笑った。


「今までどうして彼が丸焦げにならなかったのか、わかるかい」


 沖島は穏やかに尋ねる。

 言うまでもなく、田淵もきちんとわかっていた。

 シロが、沖島の手でちょいちょいと遊んでいる姿を、二人は黙って見つめていた。

 




   ○





 消毒液のにおいがする。

 蛍光灯でぬめぬめと波打つ廊下の先に、目的の個室がある。

 靴底が擦れる不快な音が壁にぶつかり、天井から責め立てるように降ってくる。


 右手に見えたドアをスライドさせて開けると、広い個室の中で、じっと椅子に座っている男が顔を上げた。


「やあ」


 野瀬孝は、座って静かに本を読んでいた。

 初めて接触するように言われたのは、会議に顔を出した日だった。

 こんな人物が病院にいるから会いに行ってこい、と言われ、倉本昌伸はなんの疑問も持たず、持ち前のフットワークの軽さで出向いた。


 そうして一ヶ月になる。

 野瀬は、日の下に出られないというただの虚弱体質だと聞いていたが、見た目ではずいぶん消耗していた。

 身体が細くやつれているのではない。頬がこけているわけでもない。彼はきちんと病院で食事のコントロールをされ、やわらかな体つきをしていたが、それでも「もう野瀬孝は長くないのだ」と感じるほどには、彼の内なるものがすり減っているのが見る目にも明らかだった。


 倉本は魂など信じていなかったが、野瀬に会って初めて魂の存在を心から信じた。


 それほど、野瀬は透けて消えゆくように儚かった。心身ともに鍛えてきたその目で、頭ではないどこかで、そこに収まる魂を感じ取った。



 野瀬は、聡明な男だった。

 倉本は口止めさせられ、書面に捺印までしていた今回の任務に関して、会って十五分で洗いざらい口にしてしまった。しかし、不思議とそのことを恥じることはなかった。


 これまでどこに潜入しても肩入れをすることはなかったし、嘘の経歴で騙すことに罪悪感などなかった。

 口からは考えずともぺらぺらと言葉が流れ出していたし、職務に準じていることがなによりの自分の価値であった。

 国のために駒の一つとして働いていることに疑問一つ抱かなかった。


 倉本の話を聞いた野瀬は、瓦町とはどんなところなのかと逆に倉本に尋ねてきた。


 野瀬は、一度も瓦町へ行ったことがないんだそうだ。

 父親はそこで暮らしていたが、どうも肌が合わないことを薄々感じていた祖父が、伝を頼って外に出した以来、町には一歩も入らなかった。祖父とは時折手紙を出し合い、こちらの写真を送るだけの関係だったらしいが、野瀬はいつもその手紙を心待ちにしていたという。


 ――封筒の外側を見て、消印が瓦町になっているのを見ると、嬉しくなるんですよ。


 野瀬は今にも消えそうな声で言った。


 ――封筒に、鼻を近づけるんです。そうすると、瓦町のにおいがする。僕が一度も行ったことのないはずの町の景色が、不思議と瞼の裏に浮かぶんです。石畳。その上に並ぶ提灯行列。ちょっと変わった人たち。


 夢を語るような野瀬の顔から、倉本は目をそらすことができなかった。

 あのとき、自分はどんな目で野瀬を見ていたのだろうか。

 今、彼に瓦町を説明するなら、どんな言葉を尽くすだろうか。


 ――瓦町へは、山の中を、ずうっと走って行くんだよ。山林の一本道だ。木の質感が変わってきて、僕らの知っている木ではなくて、黒ずんだ木が生い茂るようになる。木の葉の間から少ない日が漏れるのを見ていると、夜空に見える。そうやって心の準備をさせられていくんだ。山が続いていると思ったら、ぽっかりと開いている場所に出て、思わず混乱する。あまりにも見慣れた光景が広がっているから。アスファルトの上に、箱物が、どん、どん、と置かれている。倉庫だ。信号もある。その向こうに、杉の木が二つ、対象に伸びていて、上で繋がっている。鳥居と呼ばれてるんだよ。不思議と、瓦町に入るとより一層空が暗くなる。奇妙な町なんだ。どこも長屋、どこも石畳、碁盤の目のように、きちりと並んでいて、店はどこも戸が開いている。閉鎖的な場所にある町なのに、どの店も戸を開けていて、風通しがいいんだ。そこに誰がいて、何をしているのかも見える。人は少し変わっていて、とても静かな人が多い。粛々と生きているっていうか、日々をとても大切に積み重ねているような、丁寧な暮らしをしている人が多いよ。受け入れられると、彼らの穏やかさに、こちらまで頭が下がる思いがするんだ。ああ、あとね、祭祀といって、年に一度、社で舞を見るんことがある。甘酒が振る舞われていて、いつもより活気があって――とても華やかだ。いいや、屋台とか、にぎわっている訳じゃない、本当に舞を見るだけなのに、とても清々しい気持ちになれる――あの、黒い布が反転して、白い花が舞い散る瞬間――風が吹く瞬間――山の向こうで、誰かが喜んでいるのを感じる。そうすると、とても暖かい何かで包まれたような、母の胎内の記憶がふと蘇ってくるような――泣きたくなる感動が、胸の底から溢れ出す。あんな経験はない。ジャンキーも味わえないような、言い表せない多幸感だ。癖になるのと同時に、敬服したい気持ちになる。本当に。本当さ。



「本当だよ」



 口から言葉が漏れ、倉本はハッとした。


 身体がぐらりと前に傾いていた。

 自分が微笑んでいたことに気づき、背筋が一気に寒くなる。


 倉本は座布団の上で、胡座をかいた足を組み替えようと慎重に動いた。

 黒光りする床の上に、ぽたぽたと滴が落ちる。

 汗だ。

 倉本は、全身にびっしり汗をかいていた。額から流れた玉が頬を伝い、顎の先から落ちて板張りをぬらす。組み替えることができると、今度は汗が自分の足に落ちていった。べたつくそれが肌に再び絡みつき、不快感でいっぱいになる。

 けれどそんなことなど些細なものだ。


 それ以上に、倉本は不快とも不安とも言い切れぬ感情で全身が支配されていた。

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