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22 渡部




「御馳走様でした」


 沖島は手のひらを合わせ、未だカウンターの中でむっすりとしたままの田淵に笑いかけた。

 考え事をしていたのか、沖島に声をかけられてようやく人参の皮をむいていた手を止める。


「ああ」


 ぶっきらぼうに返すが、内心はいろんな感情で入り乱れているらしい。田淵はカンターから手を伸ばし、空になった皿を片づけた。


「有紗くんの方は?」


 沖島は皿の代わりにもらった新しい湯飲みを受け取る。

 ほうじ茶だった。香ばしい香りに、鼻を近づける。


「大家から保証人に連絡してもらったわ。すぐ捕まるんやないか」

「野瀬くんが心配かい?」

「どっちのや」

「本物のほうだよ」


 沖島が言うと、田淵は眉をひそめたまま、皿を洗い始めた。


「本当に腹立つ」


 沖島はほうじ茶を啜る。


「あいつら……いつになっても卑怯な手を使って。なんで正面切って来んのや」

「君らの母君が怖いのだろうよ」

「ならもう手え引けや。昔から、こそこそしか探らん。そんなに気になるなら参拝でも何でもすればいいやないか。住人は町でただただ毎日を生きてるだけやわ。渡部(わたべ)だって」


 沖島は静かに頷いた。

 あれは、椎名が生まれた年だった。二十年前だ。

 まだ、椎名の成長が人と比べて遅いことはわかる前で、小料理屋には祝いと称して食事をしていく客が増え、どこかにぎやかだった。


 そこにまぎれるように、若いのにどこかむさ苦しい、作業着姿の男がよくちびちびと定食を食べに来始めた。

 男は、渡部と名乗った。

 渡部という男は、古今東西の植物に関して知見を広めるために渡り歩いている夢想家だった。彼は確かにどこかぼんやりとしていて、あちこちの路地を渡り歩いては、これはなんという植物なんです、と近くの住民に話しかけ、学者さんと呼ばれた男だった。


 物流の拠点になる対外施設が構えられている二丁目にある宿に宿泊しているらしいが、彼はもっぱら住民の気配が濃い一丁目に顔を出していた。


 渡部は沖島の隣に座っててんぷら定食を平らげながら、人懐っこく笑った。 


 ――あそこは車の出入りが激しいし、考えていた瓦町のイメージとはほど遠くて。でも、おもしろいですよね。車で運ばれてくるのに、一丁目へは荷車でちまちま運ぶんですから。なんだか二丁目って未来から過去への関門みたいですよ。二丁目ってついてますけど、瓦町って実際一丁目で事足りてません? コンパクトで濃密なコミュニティーだけど、鎖国してるわけじゃない。町に入るのに特に厳しい検閲をされるわけじゃないし。なんだか不思議です。閉ざされているように見えて、結構自由なんですよね。



 沖島は、渡部という灰色の作業着姿の男がどこか好ましかった。

 彼は住人に最初こそ鬱陶しそうにあしらわれていたが、瓦町の植物を勝手に採取はせず、必ず聞いてくるので受け入れられつつあった。いつも靴と裾は土にまみれていた。誰もなにも疑っていなかった。


 渡部は言っていた。


 ――本当、不思議です。こんなに居心地のいい場所だと思ってなかった。ああ、いえ、そうじゃなくて。瓦町って場所があることは知っていたんですけどね、なんだか秘境の地って感じで、簡単には入れないって勝手に思っていたんです。きっと、みんなそう思ってるんじゃないですかね。でも、こうして来てみて、なるほど、肌の合う人はここから出られなくなるだろうな、と納得したわけです。朝、宿の窓の外を見ると、東の空がうっすら明るくなっていて、向こうは夜明けなんだなって、思うんです。こっちに来るときには、段々暗くなる景色に正直不安になったっていうのに、今じゃあ、瓦町に入る前に向こうを見ると、眩しいなって。帰ることを想像できなくて、日中の日差しの下で汗をかいている自分が想像できなくて……帰れますかね?


 渡部が笑って、田淵から受け取った食後のほうじ茶で手を温めていた。


 沖島は、居着けばいいじゃないか、と返した。

 本当にそう思ったのだ。

 珍しくこの町に肌が合う人間が入ってきたのだから、学習塾の教師としてでも居を構えればいい、そう返した。


 すると渡部は、照れたような顔で、もしかすると、僕の前世は瓦町の住人だったのかもしれませんね、などと気を良くして言っていた。



 それがどうして、あんな姿で見つかることになったのだろうか。



 渡部が来て一ヶ月。

 客が途切れた田淵の店で、静かに食後のほうじ茶を飲んでいるときだった。

 がらりと戸が開いたので何気なく見ると、筒木が立っていた。

 息を切らした筒木が、田淵と沖島を順に見た瞬間、二人は腰を浮かしていた。


 筒木が降りてくることは方が珍しい。

 町の巡回はもっぱら轍の担当であったし、特に祭祀を控えた今は筒木は準備のために身を清めている最中のはずだった。よほどのことがない限り、降りてくるはずがない。


 急遽「準備中」の立て札をかけ、二人は筒木について行った。


 筒木は人目に触れぬように大通りではない路地の合間を縫って、一番通りまで一言も話さずに突っ切った。

 その最中も、田淵と何度か視線を交わしながら、どうなっているんだと顔を見合わせた。


 一番通りは、子供たちの学習塾がある。細長い建物すべてが繋がった学び舎となっていて、幅も広い。様々な年齢の子供たちが、朝夕とそれぞれの入り口から出入りしている。

 向かいには、役所や郵便局、銀行など公的な機関が、まるで駄菓子屋のような趣で長屋に収まっている。戸はすべて開き、あちこちにまばらにいる住民がいつもと変わりない日々を営んでいた。


 筒木は意識して、学習塾の壁に沿って歩いていた。二階の教室にいる子供たちの死角になる。


 その石畳の通りを、荷車がのそのそと入ってくるのが見える。

 筒木は足早に、その荷車とすれ違っていった。

 沖島は、すれ違う荷運びの男たちが、心なしか諦観した目をしながら一心に体重を前へ前へとかけていた姿に、言いようのない胸騒ぎを覚えた。

 五つの荷車とすれ違ったが、誰も筒木が沖島と田淵を連れて歩いていることを気にしなかったのだ。


 田淵の顔も、ただ事ではないと感じ取ったように険しかった。


 太い杉の木が二つ並んでいる「門」がある。


 その杉の木は人が三人ほど手をつないでようやく一周できるほど太く、まっすぐに伸びていて、ずっと高い場所で枝の一つが直角に折れ曲がっていた。二つの杉の木はお互いの枝を伸ばし、手を繋ぎ、複雑に絡み合っている。


 自然が創り出した左右対称の門は、外からは鳥居と呼ばれているらしい。


 頭上でさわさわと揺れる黒いほど色の濃い緑が、門をくぐる沖島の身体をなで回した。


 筒木は、一気に開放的な広さになった整備の行き届いた歩道の上を、ある一カ所を目指して、駆け出さんばかりの勢いで歩く。


 点在する大きな倉庫に、トラックが乗り付け、荷物を卸している。

 運転手たちは瓦町の暗さを前にして驚いた様子はなく、淡々と業務をこなして帰って行く。一日の搬入はそんなに多くはない。しかし、時折ついた途端に異様な眠気で立っていられなくなるという運転手が出てきたせいで、そこは建築されるに至った。


 瓦町唯一の宿泊所。


 長屋を模しているのは、瓦町の大工が精魂込めて作ったからだが、アスファルトの上にあると、なんとも浮いているように見えた。そこだけ大昔から引っ越してきたような、まぬけさ。

 近づいてくるそれの瓦屋根から、何か煙がうっすらと立ち上っている。


 沖島も、田淵も、同じ顔を思い浮かべていた。

 瓦町の夜にとけ込んだ、外から来た人間。

 このまま定住するんではないだろうかと思えるほど、彼はこの町に親しみを持っていた。それが、嬉くすら思えたというのに。




 宿の前は、異様に静かだった。

 瓦町で見慣れた建築物のそれがどす黒い瘴気に覆われている。宿泊所の看板の前で、従業員とおぼしき作務衣を来た二人が、身を寄せ合うようにして話し込んでいた。


 筒木が見えた途端にほっとする二人は、田淵と沖島も来ていることに気づくと、なお安堵したように肩の力を抜いた。頭を何度も下げられ、足を踏み入れる。


 長屋を模しているといっても一歩入れば、宿屋の居住まいをしていた。受付があり、大きな柱時計があり、二階へ続く階段も見える。


 渡部の部屋は、二階の東側の角部屋だった。

 廊下は天井に暗雲が立ちこめているように暗く、空気が鉛のように重たかった。息をするたびに、肺に不健康な塵が積もっていくような不快感で、身体が重くなっていった。


 ドアを前にすると、三人の顔は繕うことなく険しくなったまま、身動きがとれなかった。

 銀色に光るドアノブ。ドアが、パンパンに張りつめているように見えた。開けた瞬間に、すべてが吹き飛ぶんではないかという予感に、誰も手を出そうとしない。


 そんな中、沖島が手を伸ばした。

 足下にコクヨウの気配を感じたからだった。

 小さく空けた隙間から、黒い体躯がするりと入っていく。

 コクヨウだ、と気づいた筒木と田淵が、緊張を解いた気配がした。

 と、隙間から漏れださんばかりだった瘴気が、ドアの向こうで急速に何かに絡め取られていき、沖島はすぐに筒木と田淵に離れるように告げた。


 ドアノブから手を離す。

 三人の間を、空気の固まりがドッと吹き抜ける。

 宿の外にも漏れていたそれが、掃除機で吸い込まれていくようにドアの隙間に流れ込んでいった。

 強風が駆け抜けてしばらくして、中から小さな鳴き声が聞こえてきた。


 三人は顔を見合わせて頷き、今度は筒木がドアノブに手をかけた。




 準備中だったのだろうか。

 もしくは、窓の外を眺めていたのかもしれない。

 大きくとられた窓の前に、黒い人影があった。

 右腕は曲げられており、耳に手をつけている。

 それは、どこかリラックスした立ち姿で、そこだけ突然時を止められたようだった。

 焦げ臭い気がする。

 気のせいだとわかっていても、三人は息を詰めていた。


 目の前に、黒こげになった渡部が立っている。


 いつも作業着を着ているはずだが、ただの黒い人の塊となったそれからは、渡部であるはずの片鱗は何一つ見えなかった。

 コクヨウが、渡部らしき固まりの前でうろうろと回る。



 これは、君たちの母君の仕業だね。



 コクヨウが手を出そうとしないのを見た沖島が言うと、筒木は小さく頷いた。

 従業員から、柱時計がぐるぐる突然回り出したかと思うと、何かが入ってきたと、連絡があった。

 筒木が唸るように言う。


 宿に手を伸ばすなど、よっぱどのことであろうと思って来てみれば。これは誰なんです?


 ――渡部くんだろう。最近瓦町の植物の調査に来ていた。けれど、なんでまた。不審なところはこれと言ってなかったが。どちらかというと、珍しく町に順応していたし、居着くかと思ったほどだよ。


 沖島がそう返すと、調べるように部屋を歩き回っていた田淵が、足を止めた。


 これや。


 二人が振り返ると、田淵がハンガーに掛けられた上着の胸ポケットから何かを投げてよこす。


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