19 アルバム
映像にノイズが走る。
カメラワークはブレていて、左右に動いている。ふと下を向いた映像に黒い靴が映り込み、誰かの目線であり、その人物が歩いているのがわかった。靴先は磨き抜かれていて、神経質であることが伺える。同じ速度で変わらぬように、どこか用心深そうに足を前に進める。
足を踏み出すごとに、映像はクリアになっていく。
美しく整えられた部屋だった。
和室に書き物机、箪笥、理路整然とした几帳面な部屋だが、靴を脱いだその足は、遠慮がちに畳の上を歩く。襖を開けると、仏間があった。
そこに小さな写真が置かれている。遺影ではなく、子供が集めたような安っぽいアクリルの宝石が敷き詰められた、手作りの写真立ての中で、沖島の見知った年寄りが人懐っこく微笑んでいた。
野瀬。
温厚で、珈琲豆のにおいをさせいる、蝶ネクタイを左に曲げた丸眼鏡の老人。しかし、とても彼は鋭かった。
人の機微の敏感で、特に体調に関することは安穏な口振りでズバリと当てて見せた。珈琲を買いにきた客を見て、茶を飲みなさいと茶屋に追い払うようなこともあった。彼はとても信頼されていた。
映像は座布団の上で正座をし、手のひらを合わせて、一度映像がぷつりと切れる。
再び映像が映る。仏壇の横には大きなキャリーバッグが置かれている。銀色のそれは和室にはあまりにも不似合いであり、使い込んだようなかすれた傷がいくつもあった。三つあるそれは、荷解きをする気がないことが明白だ。寝かせた一つに手が伸びる。ダイアルキーの上を太い親指がくるくると滑り、解錠して開くと、パソコンが現れた。一般的な薄型のノートパソコンよりも随分太い。パソコンを守るように囲われた黒いスポンジの緩衝材のくぼみにはなにやら機材が埋まっていた。起動したとたんにそれぞれのランプが青く点滅し始める。
ファンが回るブウウンとした低い音が、家の換気扇とリンクする。
回る青い羽根。
液晶に、複雑な数字の羅列が浮かぶ。手は簡単にそれらを突破すると、メールの画面が開いた。
キャリーケースの上部のポケットには、いくつものファイルが押し込まれている。手はそれを取ろうとして、やめた。ポケットの中に手を突っ込み、がさごそと漁ると、腕時計が出てきた。ベルトはすり切れ、秒針は止まっている。
時計が大きくなっていく。文字盤のガラスに映り込んだ精悍な顔が自らを律するように険しくなり、ゆっくりと視界が狭まると、暗転した。
その刹那、視界の端に映る仏壇から、写真立ての横に置かれた銀時計から鈍色の光を鋭く放たれた。目がきつく閉じられる。
沖島は伏せていた瞼を上げた。
シロが野瀬から顔を背けて、沖島の頬にすり寄る。
手のひらで目一杯彼女を褒めてから、未だ呆然とする野瀬を視線だけで見た。
「野瀬くん」
シロは役目を終えたとばかりに、次に手を伸ばした轍の元へ行く。
野瀬が、シロが靡かせた尾を追いかけるように視線を移し、ハッとした。
眠りこけていたようなぼうっとした目が、意識が覚醒するとともに警戒心をむき出しにする。沖島の顔を見て、即座にそれを押し込めた。
沖島はにっこりと微笑む。
「野瀬くん。本当に探しているのかい?」
「え?」
「時計」
沖島は顔をしっかりと野瀬に向けて、じっと見つめた。
肩を緊張させた野瀬が上辺の笑みを装着する前に、畳みかける。
「だって、あるじゃないか。君は無くしてなんかいない。どちらの時計もどこにあるかわかってる。そうだろう?」
野瀬の口は開いたが、声が出てくることはない。
ひくりと口の端が持ち上がっただけだった。
全身から強い猜疑心が浮き出てくる。
もう彼は隠す気がない。
いいや、隠せない。
野瀬は、微笑んでばかりいる沖島よりも、轍の気配を気にしていた。沖島の身体に隠れているが、轍がそこ座っている限り、動くに動けないことを、鍛え抜かれた身体は本能的に感じ取っているのだ。
轍は、先ほどまでは軽く隠していた本性を出している。小さな身体に大きな気配をゆらゆらと漂わせながら、気ままにシロの相手をしている。元々隠す必要など無かったのだから、単純に飽きたのかも知れない。
轍はやはり特殊だ。
沖島は少しばかり野瀬に同情した。
混じりけが無く、芳香にも似た強烈な生命力が満ち満ちている上に、大きな加護を受けている者特有の揺るぎない自信。そうそうお目にかかれるものではない。野瀬は、轍がそこにいる限り席から立つこともできまい。
なんてありがたいことだろうか。
「さあ、どの時計を探してほしいんだい?」
聞いてはいないであろう野瀬に、沖島はからかうような口振りで尋ねる。
「銀時計なら仏壇にあるし、君の父上の形見の時計はキャリーケースのポケットにあるのは、君が一番よく知っているじゃないか。それとも、形見の時計はまだ他にあるのかな?」
野瀬が、沖島を見た。
「おや。やっとこっちを見たねえ」
「なにを」
野瀬は目をぐりぐりと開け、沖島の顔を凝視した。
戸惑いと怒気が含まれたそれは、触れれば切れそうなほど鋭利だ。さて、彼は軍部のどこにいたのだろうか。沖島はつい面白くなり、その目を真正面から受け止めて微笑み続けた。
野瀬の凛々しい眉が不快そうにぐっと不快眉間の皺を刻む。
「先生」
不穏な空気を打ち破ったのは、田淵だった。
カウンターの上に、どさりとアルバムが置かれる。
紐で止めるようにできていて、紺色の表紙が浮き上がるほど分厚くなっていた。
「ありがとう」
沖島は遠慮なく受け取って、随分すり切れたそれを撫でてから開く。
親しげに野瀬に身を寄せてアルバムを見せると、彼は反射的に身を引いた。苦笑が漏れる。
「さあ、野瀬くんどうぞ」
「なんです」
警戒心をむき出しにしつつも視線を下に移した途端、野瀬は身を固くした。
セピア色の写真は、古いことをのぞけばなんの変哲もない。
瓦町の地を固める石畳も変わらず、風景も変わらない。写真を撮ったのは、小料理屋の前だ。田淵が提灯を掲げるように持って、少々若々しい笑みで映っているくらいだ。
店の前には田淵を含めて六人が並んでいる。
母親に抱かれた赤子と、沖島と、轍、それから小柄な身体に大きな羽織を着た、着物姿の若い女が一人。彼女は優しげに微笑んでいる。
沖島は心の奥底でそっと残像をなぞった。
なんて惨いのだろう。
写真とは、この中に彼女を閉じこめて、永遠にその姿を刻み込んでいる。薄い透明なフィルムの向こうで、色あせぬように守られ続けていく。
沖島の穏やかな心中とは違い、野瀬はアルバムに顔を近づけて見ていた。
「これ」
「はい、次ね」
沖島は野瀬が顔を離すと同時にアルバムをめくる。
田淵は女の子を抱き上げ、母親は割烹着を着て笑っている。次。子供は三歳くらいになっているのだろうか。一人で店の前で立って提灯に手を伸ばしている。次。子供が石畳に向かって俯いている。円を描いている。子供の前にはもう一人子供が居て、少女は歯を見せて笑っていた。
「可愛いだろう。トヨちゃんだよ」
沖島は柔らかな声で囁く。
次。田淵の娘は健やかに成長していき、その母親は子供の成長の節目の写真に照れくさそうに出てきて、穏やかに年を取っていく。田淵は写真を撮っているのだろう、滅多に出てこない。写真がセピアからカラーに変わっていく。社で行われた結婚式の写真の後には、再び新た店の前での集合写真だ。
今と何も変わらない田淵と、随分年を重ねたその妻と、母親となった娘。そして、轍。
田淵の孫娘はカメラのレンズに見守られ、成長していく。
また結婚式の写真。そして店の前の写真。
田淵と、娘と、孫娘と、轍。孫娘の腕には、赤子が慈しむように抱かれている。
「ほら、この子がちっさいのが椎名くんだよ」
「何を言ってるんです」
野瀬は短く答えた。
言葉尻に焦りや困惑と、怒りが込められている。
「この日付、二十年前じゃないですか!」
からかわれているとでも思っているか、野瀬は顔を真っ赤にしていた。
沖島は首を傾げる。
その仕草に余計腹が立った様子で、アルバムを指で叩いた。
「椎名ちゃんはどう見てもまだ五歳でしょう。なんなんですか、僕を騙して笑いたいんですか?」
「君、意外と冷静じゃないんだねえ」
「沖島」
轍が、これ以上遊ぶなと注意を挟む。
一瞬静けさを取り戻した店の中で、野瀬は自分が四面楚歌であることにようやく気づいたようにハッとした。カウンターの中で立ったままの田淵が身体をカウンターに乗せ、他人を見るような無機質な目で野瀬をじっとりと見る。
「お前、誰や」
田淵の声色はあまりにも静かであり、その拒絶が野瀬の身体から一気に緊張を迸らせた。
「まあまあ」
沖島は間に入るふりをする。
「そうそう。これ二十年前の写真なんだよ。その前に、気づいてることあるんじゃないかい? これとか、これとか」
沖島はアルバムの最初の一枚と、椎名が母親に抱かれている写真を見比べさせるようにパタパタと開く。分厚いそれに、どれだけの歴史と悲しみが詰まっていることか。
「あ、そっか。日付が入ってないね。いつだったっけ?」
轍に尋ねる。
考える素振りも見せず、即答した。
「七十五年前の十月二十日から一ヶ月だから、十一月二十日だ」
「よく覚えているね」
「ちょうどトヨも産まれた日だから覚えてるぜ。珍しく同じ日に産まれて産婆がてんてこ舞いだったからな」
「待ってください」
野瀬が、今度は混乱したように弱気につぶやく。
「何を待てと?」
「意味が分かりません」
「だから、こっちの子はトヨちゃんだよ。面影があるだろう?」
沖島は歯を見せて笑う幼き日のトヨの写真を見せる。
「つまりなにも偽造してないし、騙すつもりもない」
「だって、七十二年前って……だって」
野瀬は写真に食らいついたまま、どこか呆然と眺めている。
七十二年前の写真に映る田淵と沖島と轍を、食い入るように見たままだ。首筋を冷や汗が伝う。
「君は変だね」
沖島は冷ややかな声をかけた。
野瀬が顔を上げる。臆するような、理解の範疇を越えた証拠を目の前に、化け物でも見るような目で沖島を見る。怯えではないところをほめたたえたくなる。
「……変なのは、あなたたちでしょう」
声は震えておらず、野瀬の中のスイッチが切り替わった気配がした。
軍部の人間特有の傲慢さが全面に出てくる。
「七十二年前から何一つ変わっていないじゃありませんか。これはどう言うことなんです?」
「どうもなにも。ねえ?」
沖島は轍と田淵に視線を送った。
「お前こそなんや。野瀬の孫のふりをして。誰や。どっから来たんか言え」
「どうせ国のどっかの機関じゃねえの。沖島知ってるんだろ」
「そうだね。軍服をトレードマークとしているようだよ?」
「ふん。あいつらも変わらず馬鹿だな。何人送り込んでも無駄だっての。報復が行くのによ」




