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20 余所者


「彼らはとても忘れっぽいからね」


 沖島はからからと笑った。

 轍は身を乗り出して、沖島の肩から顔をのぞかせた。


「おまえらの上司に伝えな。二十年ぶりの潜入もばれました、首を洗って報復を待てと言われた、ってな」

「懐かしいね。二十年前はどうなったんだっけ?」

「送り込んだどっかの軍部のどっかの諜報員の家族もろとも、関わった人間のそばに不幸が寄り集まって、結局諜報部は解体されたっていってたぞ?」

「君らの母君は本当に容赦がない」


 沖島がちらりと野瀬を見ると、彼はわなわなと震えていた。


「なんで」

「なんでわかったかって?」

「野瀬の孫なら、驚くわけがないからや」


 田淵はアルバムを野瀬だったものから奪い返した。


「は?」

「この瓦町の人間の血が流れとる子供やったら、年を取るのが異常に遅い人間がおることも、母君という言葉の意味も、説明せずともわかるからや」

「何を言ってるんです。僕は外で育って」

「何度も言わすなや。瓦町の子は同じ血が流れとる。瓦町の血が。お前、カゲ言われてわかるか?」

「影?」


 田淵は鼻で笑うと、余所者へ渡していた湯飲みを下げた。


「つまりね」


 沖島は愉快で愉快で仕方なかった。

 子供を諭すように優しく語りかける。


「ここは治外法権。人ならざる者が治める町なのだよ。君は祭祀に参加して何も感じないのかい? 田淵くん――彼は、ここを治める母君に尽くした子孫で、彼の血筋は時折命を長く与えられる者が出てくるし、こちらの少年に見える轍は、その母君に仕えるそれはそれは尊い存在であり、一生消えることなくこの町の子供たちを見守る、すべての住民の兄だよ。瓦町の子供たちは、こうして私たちと接していても、なんの疑問も持たない。椎名くんが、彼らよりも年を取るのが遅くても、それをありのまま受け入れるし、轍を尊敬し、信頼している。それが瓦町で生きるということさ」


 反応がないのではなく、めまぐるしく頭の中で情報を処理している諜報員を、六つの目が見つめ続ける。


「君、ここが夜しか来ないのは何でか知っているのかい?」


 はたとして、男は軽く頭を振った。言葉を振り絞る。


「それは……瓦町、だから」

「うん。そうやって、その言葉一つで全部説明してしまうほどの力を振るってきたって、察してくれればいいのに。ねえ?」


 沖島が轍を見ると、呆れたような轍の目が素っ気なくそらされる。


「軍部は凝り固まった連中が多いからなあ。不可侵である土地があることが今でも許せないんだろうよ。カゲ一つも対応できない癖にな。こっちで全部受け入れてるっつうのに。向こうに壷運んで割ってやろうか」

「轍が言うと本当でやりそうだね」

「割と本気やわ」


 田淵が笑う。


「有紗ならやるぜ。夜に飽きたからやめるってな」

「それは笑えない」


 沖島は肩をすくめた。

 カゲは夜を求めて移動する。そうして集まったカゲはさらなる夜をもたらし、彼らは安息の地を手に入れたがために外に出なくなる。ここが檻とも知らず、瓦町に住み着いていく。それは、カゲだけではないが。


「なんで」


 男が談笑に固い声で割って入る。


「なんでそれを僕に」

「いや。別に秘密でもなければ、重要機密でもないのだけどね」


 沖島はあっけらかんと言い放った。

 男は拍子抜けしたような顔で沖島を見る。


「そうだねえ、この町が重要なことを隠しているから暴けと、命令されたかい?」

「さすが腐りきった軍部様だ。カルト集団とかだぜ。絶対」

「外は阿呆やなあ」

「信仰心は厚いけど、同時にそれ以上の畏怖をもって、粛々と生きている住民がなにか自発的に動くのは、年に一度、祭祀の時だけさ。それは君がこの五年で知ったことだろう」


 沖島は硬直したままになっている哀れな駒を見つめる。


「この瓦町は、人ならざる者も受け入れる、夜しか来ない町だよ。重要な秘密をはらんでいるわけでも、こそこそと国に仇成す者を育てている町でもない。軍部の諜報員がわざわざ調査をする必要なんてない、ただの世界の真ん中さ」


 沖島は宙に円を描いて見せた。

 それぞれ隣り合う陣。不可侵の中央は、瓦町。


「可哀想にね。かの母君は、瓦町で過ごすことにはとても寛容な方だけれど、悪意に対してはとても過敏な方だ。君がいままでここで過ごしていられたのは、君自身に悪意がなかったからで、ともすれば馴染もうと必死だったからだろう。しかし意図を持って外に情報を流した途端、あの人は気づく。たとえここで我々が慈悲の心をもって話を内密にしていたとしてもね。そうすると君にも君のご家族にも同僚にも上官にも、不幸としか言えないことが起きるだろうよ」

「脅しですか?」

「いいや。私の言葉など力なんてないし、慰めにもならない」

「さっきから、なんなんですか。わかりませんよ、何を言ってるのか」


 気丈に笑おうとしているのだろうが、ただ頬が痙攣しただけだ。


 この男は、理解できずとも本能的にわかっている。

 ここが人の手を必要とせず、見えぬ何かによって統治されていることも、年に一度立ち入る社の中の恐ろしいほど荘厳な空気にも、巫女の舞の意味も。

 ただそれを認めるには、生きた年月と経験が浅いだけなのだ。

 沖島はあやすように笑いかけた。


「君が今からできるのは二つ。すぐに瓦町から出て行く。もしくは、轍について行って、許しを乞う」


 男の目が、震える。


「許しを、乞う?」

「そうだよ。君は私の言った言葉が理解できなかった。けれど、あそこにいけばわかるよ。本当の意味で理解することができる。それを包み隠さず上官に説明すればいい。できるなら、だけれど」

「どういう意味です」

「そのままだよ。もし許しをもらえなければ、君がどうなるかなんて私にもわからないしね。ただ、恐れをなして出て行ったからといって、報復がないとは言い切れない。君、知ってるんだろう。二十年前の諜報部がどうやって潰されたかを。まあ、それがもう一度起きるだけだよ」

「どうしろと」


 渇いた口を薄く開け、男は強ばったまま聞いてくる。


「簡単だよ」


 沖島はずいっと顔を近づけた。


「社に入って、それから奥座敷で座っていなさい。一日」


 男が軽く身を引く。


「許されれば、無事にそこから出ることができるだろう。そうすれば君がこの瓦町で何をしようと、上官にありのままを説明しようと、誰にも咎められることはない。君は安全にこの地に身をおいて、そして職務を遂行し、その上仲間に報復がプレゼントされることはない。いいことずくめさ」

「沖島、おまえ」


 轍が苦笑する。

 察しがよくてありがたい。

 これから二十四時間は、すべての意識が野瀬を語っていた男へ向けられるだろう。あの人は恐ろしく念入りだ。その間に、筒木をそこから離しておきたかった。


「有紗を呼び戻す」

「明日の夕刻までに頼むよ」

「先生、力貸すわ。あの子が借りてる家の保証人、うちの親族やから、そっから引っ張れば逃げられんやろう」

「それはありがたい」

「確実な手だな」


 轍がシロの背を撫でて、田淵を見た。


「すぐに、頼めるか」

「わかった。そのかわり」


 田淵は表情を変えないまま、男を指さした。


「これ、頼むわ」


 恐ろしく蔑んだ声色で吐き捨てて、田淵は奥へ引っ込んだ。

 人に嫌悪を出すなど、珍しいこともあるものだ。

 怒りに滲む背中を見送った轍が、ため息をつく。


「あいつ昔から瓦町っ子だからなあ」

「長くいる分、あの人への敬愛が人一倍あるんだろう。それに、彼はここでしか生きられない」

「酷なことを言う」


 轍が言うと、沖島は小さく笑みを漏らした。


「私もそうだからだよ」


 轍は面白がるように顔をのぞき込んできた。


「へえ。そりゃ前半のことか? 後半のことか?」

「もちろん両方さ」

「嘘くせえな」


 くしゃりと笑い、轍は席を立った。

 男の後ろに回り、首根っこを捕まえると、顔を上に向かせる。

 轍の身体は、男の腰あたりまで浮いていた。

 男は小柄な子供から見下ろされていることに驚愕したように目を見開くと、目玉を動かして轍の足元を見ようとする。


 轍の笑みが、にいっと深いものに変わる。

 手をぱっと離し、男の目線で宙に座り込むように腰を落とした。


「本当だったら、慈悲深い俺が綺麗に八つ裂きにして、外に放り投げておいてやるけどな。今タイミングが悪いんだわ。いや、いいのか?」

「良いと言えるんではないかい?」

「だ、そうだ。おまえが生き残るためには、ついてきてもらわなにゃならない。まあ、死ぬかもしれねえけど、その辺は運だわ。瓦町によこしまな気持ちで入った時点で、運はつきてるけどな。よりにもよって野瀬の孫を語ったのが罪深い。あれはあいつの理解者だったからな」

「田淵くんが怒るのも仕方ないねえ」

「おーい、喋れねえのか?」


 轍は顔を限界まで近づけた。

 目がカッと開いているところを見ても、轍自身も相当ご立腹な様子らしい。


 外から入るのが困難なわけではない。

 瓦町は、流れ着いた者も受け入る。どちらかといえば、窓口は広い。ただ、適応できないものは排出されていくので、瓦町たりえる純度を保ち続けているといえた。そのせいで、余所者の毛色が目立つだけなのだ。しかしそれも害ではないと判断されれば、そのうち瓦町に染まっていく。


 この男も、流れ着いた者として振る舞えばよかったのだ。

 野瀬の孫を語って、素早く馴染んだしっぺ返しがこのざまだ。


 宙で柄悪くしゃがみ込む轍を見上げたまま、状況を飲み込めずに、脳内で晴れ間のある場所の常識と戦っている。

 しばらくして、暇そうに頬杖をついた轍に向かって、男は口を開いた。


「選択肢は」

「自分で考えな」


 カラカラになった口を閉じ、男は俯いた。


「行けば、その後は見逃してくれるんですか」


 それしか選択肢は残っていない。

 沖島は男の横顔を見た。

 悲壮感は一切なく、噛みしめた唇や、青筋だったこめかみからすっと力が抜けた瞬間、決めたのだとわかった。

 いつの間にか、男の顔にびっしり浮いていた玉の汗が引いている。


「見逃す? 俺ができる訳ねえだろ」

「じゃあ」

「俺に権限はないんだよ。気に入らないと言う理由でおまえを八つ裂きにはできるけど、おまえが行くんだと言えば、残念ながらおまえは、母君の客人になる。本当に残念ながら、誰も手が出せなくなるわ」


 轍は言葉に苛立ちを込めた。わざとだった。

 なかなか容赦がない。

 沖島は、轍が選択肢を狭めていることをありありと感じた。

 準備中の店に家探しに入ろうとしたり、ありもしない失せものを何でも見通せる相手に頼んできた本当に間の抜けた無知な男に、選べる選択肢はない。しかし、思ったよりも忠誠心が強いのか、自己保身に走らない。


 今、この男は、職務を遂行するべき状態に戻すにはどうすればいいかを必死で考え抜いている。


 そして轍は冷静に、この男をどうするかではなく、この男を使ってどうやって人為的に引き起こされた脱走劇の決着を穏便につけることができるかを考え抜いている。

 その一方で深く悲しんでいる。


 この男が野瀬と名乗って町に入ることができたということは、本当の彼はもういないことを示しているからだ。


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