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 元々細いだろうに、頬がやつれ、生気がまるでない。

 落ちくぼんだ目は涙が枯れ果てて乾ききっていた。沖島をその眼に映すと、見る見るうちに目が見開かれていく。


「お、沖島、先生」

「井藤佐紀子くんのことで話を聞きにきたのだけど、いいだろうか」


 彼女はわかっているようだった。何とかまとめていた髪が、ぱらりと落ちて何度も頷く。喉から搾り取るように「どうぞ、あがってください」と呟いた。


 客間に通される前にちらりと見えた部屋はお世辞にも片づいているとは言えず、娘を失った夫婦がかろうじて生活を送っているという虚しさが隅々に塵積もっているのが見えた。深い悲しみが、泥のように渦巻いている。

 普段誰も足を踏み入れていないであろう客間はしんと静まりかえっており、沖島と轍は無意識に音を立てないように腰を下ろしていた。座布団も冷たい。

 シロは客間前の板張りで座っている。


「おかまいなく」


 沖島は、お茶を、と客間から出ようとした彼女をとどめ、座るように促した。

 不幸な宣告を受けるような追いつめられた表情で、彼女は座卓を挟んで前に座り、俯く。

 あながち間違ってはいない。今から、娘を失ったばかりの母親の傷口を広げるのだから。

 沖島はほんの少し申し訳なく思いながら切り出した。


「佐紀子くんがもう返ってくることはないと聞いていると思うが」

「沖島」


 轍が、ストレートな物言いの沖島の腕をつつく。非難めいた顔が向けられているが、沖島は一瞥だけを返す。


「祭祀の夜まで、なにか変化はなかったかい?」

「それは、あの」

「何でも構わないよ」


 穏やかではあるが、沖島の声にはどこか有無を言わさぬものが宿っていた。感じ取った彼女は臆し、見かねた轍が口を挟む。


「えーと。何でもいいんだよ。本当に何でも。おしゃれをしてたとか、まあ、気分が落ちこんでたとか。母親は見逃さないだろ?」

「それなら……毎日、茶屋のアルバイトに楽しそうに通っていました」

「ふうん。それって前から?」

「え?」


 彼女はきょとんとした。あまりにも無防備で、子供のような表情を向けられて、二人は一瞬視線を合わせる。

 何かが引っかかった。

 彼女は二人の間を見たまま、口を開く。


「前ですか?」

「前だ」

「前って?」

「前だよ」

「前?」

「ああ」

「前?」


 繰り返し聞く彼女の様子は明らかにおかしく、壊れたラジオのように、同じ台詞を同じ顔で繰り返す。


「沖島」


 轍が腰を浮かせる。

 が、沖島はその細い腕をしっかりと掴んだ。


「前?」

「前だよ」

「前?」

「腕はもうこちらがもらっているよ。返してほしいかい?」

「あーーあああああああああああああああああ」


 がくがくと顎を振るわせて、彼女の身体が縦に揺れた。正座のまま、びょんびょんと跳ねる。目玉がぐりっと回った瞬間、沖島は制していた轍の腕を離した。

 と同時に、達磨柄の甚平が宙をい、客間いっぱいに薄い霧が広がる。 


 部屋の上部に、大きな何かがいた。


 饅頭のような白い身体に、丸い耳。つぶらな赤い目の下の、黒子。シュッと伸びた髭をひくりと動かし、轍は本来の姿である白鼠の姿へと戻った。


 うっすらと透ている水墨画のような鼠が、神気を放ちながら宙を漂っている。


 彼女の動きがぴたりと止まった。

 それが逃げだす前に、細長い尻尾が空気を叩いた。びくんと跳ねる彼女の身体に向かい、小さな口が裂けるように大きく開く。

 痩せた頭にかぶりつくと、勢いよく首を横に振った。

 ぶつんと不穏な音が響く。

 鼠は小さな前足を動かすと身体を軽やかに翻し、座卓の上に降り立った。同時に、ごとんと彼女の身体が乗る。結ばれていた髪は解け、顔は見えないが、無傷だった。

 その彼女の後頭部から、黒い塊がぬるりと出てくる。

 アメーバのようなそれが奇怪な動きで畳を這い、客間を出ようとしたところで、白い手に阻まれた。


 シロが、じっと見下ろし、ゆっくりと口を開ける。


 客間の空気の密度がぐっと増した。

 白い牙の切っ先から琥珀色の蜜がぷつんと溢れ、ゆらゆらと漂った。

 畳に染み込んで逃げようとしたそれに向かって急加速して捕捉し、包み込む。黒い塊は皮を剥がされるようにぺりぺりと崩れていくと、中から欠片が姿を現した。

 シロは緊張を解き、鼻をくんと動かし、欠片をしっぽに納める。

 そして、すくっと立ち上がると、目的を持ったようにその場をあとにした。


「おい、沖島」


 轍が低く呟いた。

 達磨柄の甚平はきっちりと着込まれ、すっかり生意気な少年になっている。


「轍、ありがとう」

「なにがありがとうだ馬鹿」


 轍は足で沖島の頭を小突いた。


「おまえ本当にいい度胸してるよ。これがわかってて連れてきたな? 社近くの家で、おまえが勝手に力を振るうわけにはいかないからな。なんたってあの母君が鳥居そばまで近づくのを許してる」

「そんなときに騒いだら、追放されかねないよ」

「この」


 今度は手が出てきた。頭を叩かれても、沖島はどこ吹く風で見つめ返した。そこに鋭さと、寛容が滲む。

 轍が思いっきり顔をしかめた。


「ほんっとうに性格が悪い」

「褒めてくれてありがとう」


 これ以上どんな粗暴な言葉を投げても無駄だと知っている轍は、話を切り上げた。座卓から飛び降りる。


「で、つまり、あの佐紀子が、外から入った手だってことか?」

「だろうね。美禰くんから話を聞いていて、変だと思ったんだ。最初は、青井くんが奴に捕まって操られて壷を割ったんだと考えていたんだが、どうやら彼は、佐紀子くんの変化に気づいていた様子だったそうだ。二人での行動を無意識に避けたんだね。祭祀の夜を前に、その警戒心が一際大きくなっていた。だから美禰くんを連れて三人で祭祀に行ったようだよ」

「飛んで火に入る夏の虫とはまさにこれだな。まさか佐紀子が連れてくるように頼んだって事はないか」

「ないだろう」


 沖島は断言した。


「君らの懐の中と言える社で、そこから逃げだそうとする奴が、何よりも加護を受けて慈しまれている彼女を連れて行くと思うかい? 美禰くんが境内に入れば、君たちの母君はさぞお喜びになって、目を離さないだろう。逃げ出す口実を自ら潰すわけがない」

「それは言えてる」

「はぐれたのは、美禰くんから離れるためだろう。ある意味、美禰くんがいることで、監視の目が弱くなっていたのかもしれない」

「それは……ノーコメントで」

「へえ」


 沖島は小さく笑った。

 あの境内の中に棲むいくつものけがれなき神聖なものたちが、美禰の来訪を心待ちにし、その姿を山の中からこっそりと見つめて舞い上がっていることは、考えずとも目に浮かぶようにわかった。


 喜び溢れる眼差しを一心に注いでいることが、わかるのだ。あれらはどれも大きな糸に繋がっている。

 轍は咳払いをした。


「話を簡潔にまとめると」

「どうぞ」

「佐紀子は外から入った手であり、藍色の壷を割って奴を逃そうとした、と。なんで?」

「さあ」


 沖島も首を傾げる。

 全く持って理解不能だった。

 なぜ、約三十年前にこの町で暴れ、封じられた奴を、わざわざ逃がそうとするのか。割った後に、腹を空かしたそれに食べられるであろう事はわかるだろうに。


「人を乗っ取る寄生型か。確かに単細胞なことが多いよな」

「裏を返せば、簡単な指令を忠実にこなせる」

「つーことは、結局、逃げた奴が手を引いたってことになるが」

「それだと余計に迷宮入りだね?」

「嬉しそうにするな」

「まさか。気力を削がれているはずのカゲが、あの壷の中で、境内の中からよそのそれに指令を出して、町の住人に寄生させたなんて、考えただけで恐ろしくておちおち眠れやしないよ」

「どこがだ。どうせあの家で、眠りこけてるくせに」

「おや。見ているのかい?」

「見たくなくてもな」


 轍は軽く肯定して、それからくいっと顎をしゃくった。

 座卓に伏せていた女が、肩をかすかに動かした。

 しばらくして、バッと顔を上げる。

 目の前にいる沖島と轍を見て、三度瞬きをした。


「沖島、先生」

「さっきの話だけど、佐紀子くんに変化はなかったかな?」

「え。あ、ああ、そうでした。そうでしたよね」

「もしかしてだけど、最近町から出たか?」


 轍が聞くと、寝ぼけ眼だった彼女は、髪を耳に掛けて「うん」と頷いた。


 沖島は、子供のように返すその姿に、今彼女の頭の中で、幼いいつかに轍と遊んだ光景が呼び起こされているのを感じた。悲壮感が和らぎ、懐かしさに身を委ねている。その手綱は轍が持ち、彼女をそっと導く。


「なんで? 佐紀子って社交的だけど、外に出たがらない典型的な瓦町っ子だったじゃん。そういうところは智子とよく似てるよな」


 轍を見る彼女の目に、感動と信頼が広がった。

 彼がどの子供たちのことも忘れていないことに、救われたように眉が下がる。


「そうなの。私によく似てるの。あの子滅多な事じゃ一丁目からも出ようとしなかったのに、ヶ月前だったかしら。外に出たばかりの友達から連絡があったの」


 彼女の言葉に、轍だけが微かに動揺を見せた。


「どうしても会いたいって引かなかったそうよ。あの子は、だったら町に帰ってくればいいじゃないって、長いことふざけながら言い合ってた。けど、根負けしたのかしら、わかったって言って、私に神妙な顔で、明日ちょっと出かけてくるって言うと、二日も帰ってこなかった」


 ふと、そのころの不安が再び身を包んだように、彼女は腕をさすった。そして、もう二度と、帰ってきた娘を安堵とともに受け入れることはできないことも悟っている。ほの暗い悲しみの瞳が、ゆらゆらと現実を受け入れ始めていた。


「二日、か」


 沖島は相づちを打つように返す。


「帰ってきたときの様子は?」

「ええ、それが、あんなに億劫そうに出て行った割には、元気に帰ってきたんですよ」


 元気だったの。


 美禰の声が戻ってくる。

 美禰は、佐紀子の様子に変わったところは見られなかったと言いながらも、自分も祭祀に行くとわかると、佐紀子は妙に元気だった、と言っていた。


 同じなのか。


 トヨの声まで戻ってくる。

 沖島の頭の中に眠るあちこちの引き出しが、がたがたと震えているのを感じた。寄せ集めた破片がざわざわと意識を持って集まろうとしている。

 なによりも、轍に反応している。

 彼は何かを思い浮かべ、それが沖島に共鳴していた。





 かたかたと揺れる。


 壷が揺れる。

 その壷は誰かが抱えている。しわがれた細い腕。皮と骨だけの指。爪が短く切られた指先の肉が、白くなっている。力が入っている。

 壷の色はわからない。

 影が濃く、見えない。

 そこに、横笛の音色が響いてきた。小太鼓の音まで響く。

 外の騒がしい気配が、潮騒のように壷にまとわりつく。

 壷は笑っている。

 塗りつぶされたそれがほくそ笑んでいるのが、なぜだか手に取るようにわかる。

 湿っぽい廊下は、どこまで続いているのかわからぬほど暗い。

 そこに、ふと蝋燭の明かりが差し込んだ。

 壷の表面がぬらりと光る――





 沖島と轍は同時に立ち上がっていた。

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