13 失ったもの
この家に置いてからと言うもの、彼女は驚いたり呆れたりと忙しい。沖島は空になった湯飲みを置いて、ソファに頬杖を着いた。美禰と向かい合う。
「これって聞いて良いことなの?」
美禰は意を決したように聞いてきた。
最近は、自分から距離を測るよりも聞いた方が沖島には合うと悟ったのか、ストレートに聞いてくる。
今までのように、家族形態の中で末っ子として振る舞う必要がないからだろう。控えめでありながら、よく観察し、必要な働きだけをさりげなく務めていた甲斐甲斐しい美禰は、沖島の家に来て、なにもしない家主と、よく働く住み込みのお手伝いさん、という形式を作りつつあった。
これが二人にとってよい距離感であることを、こんなに短期間で学習してくれた美禰に、心からありがたく思う。
「君に聞かれて答えられないことはあまりないよ」
「なんか微妙な答え方ね」
訝しげに沖島を見る美禰に、にこりと笑みを返す。
美禰はコクヨウの背中を撫でながら、じっとりと見つめて頷いた。
「わかった。じゃあ聞く。正直聞きたいわ。こう、怖い物見たさ、みたいな」
「なんだいそれは」
「想像がつかないんだもの。先生が浮き足立つなんて。だってこれでも信じられないんだよ?」
美禰が本を叩く。
沖島もそこには同意した。
とにかく真面目に仕事をしてくれとしか思えなかった。些細なミスを連発しては、上司が颯爽と助けに来て、彼女はまた惚れ直すという、茶番が繰り広げられていた。
「私もそれには信じられないよ」
「でも浮き足立つんでしょう? こんな感じなんじゃないの?」
「そうだね」
「そうなの?」
あっさり肯定した沖島に、美禰は食いついた。
好奇心と興味で、目がきらめいている。
まだ恋愛のれの字も知らない様子に、沖島は小さく笑む。
これでは大志は苦労しそうだ。
「……なんて言うんだろうね、暖かいんだよ。その人のそばにいるとね。だからなにもかもが心地よく感じる。夜しか訪れないこの町も、祭祀の夜の静けさも、目の覚ますほどのけたたましい鐘の音も。すべての日常が幸福に変わるんだ」
「ふう、ん」
美禰は、目を伏せて自然と顔を綻ばせる沖島の表情を、初めて見るような目で見つめていた。大きな目から瞬きが繰り返され、そのたびに鱗がはらりと落ちるようだった。
やがて、何度か頷いたかと思うと、口を開く。
「先生は、その人のことが好きなのね。とても」
「そうだね」
「そうか。ふうん、そうか」
「でも、今ではこうして一人暮らしだよ。あと三匹」
「そこ、自分から言っちゃうんだ?」
「彼女のことを知っている人も居るし、隠してるわけじゃないからね」
「あたしも知ってる?」
美禰は何の気なしに聞いてきた。
いいや、と沖島は視線で否定する。
「君は知らない」
「じゃあ失恋はずっと前?」
「そう。ずっと、ずうっと前さ」
「寂しいわね」
美禰の声のトーンが落ちた。
コクヨウの背を優しく撫でながら、美禰は哀れむわけでもなく、ただただ沖島が失ったものについて共感を示した。
胃のあたりが、じわりとあたたかくなる。
沖島は頬杖をついたまま、美禰に抱かれて気持ちよさそうに目を閉じているコクヨウを見た。
「でも、この子たちがいるからね」
「猫たち?」
「そう。彼女は私を置いていったけれど、この子たちも置いていってくれた。忘れ形見みたいなものだよ」
彼女はどういうつもりだったのだろうか。
綺麗さっぱり消える気があったのなら、どうしてシロやスズを残していったのか。忘れさせる気などないとでもいうように、彼女は残り香を残していった。
白いシーツの上で寝転がる子猫を見つけたあの瞬間の絶望は、言葉にできるものではなかった。
彼女に何があったのか、彼女が何をしたのか、自分が彼女から何を奪っていたのかを知ってしまったときの、恐ろしいほどの喪失感。もう戻っては来ないことを悟った時点で脳は思考回路をすべて遮断し、考えることをやめた。
あれからどうやって日々を過ごしたのか、全く記憶にない。
気づけば、子猫だったはずの白猫と茶トラの猫は、一回りも二周りも大きくなっていた。そのそばで、コクヨウがずっと付き添っていた。
「形見か」
美禰はその言葉を繰り返し、もう一度「寂しいね」と呟いた。
遠くを見ているガラス玉のような眼差しの隅に影がさす。
大切なものを突如跡形もなく失った虚無感と、それになんとか折り合いをつけてきたせいで根付いてしまった諦観が、じわりと広がった。
絶望とともに泥のように絡まった感情には出口がなく、瞳の中から消えてはくれない。自分と同じ色をした瞳を、沖島は慰めるように見つめた。
美禰の失ったものと、自分が失ったものの違いはなんだろう。
どちらも愛するものを失ったが、美禰が奪われたのに対し、自分は奪った方であることが大きな違いだろう。
美禰の瞳に悲しみの色が混じっていても、自分のそれには嫌悪が強く浮かんでいるはずだ。
「君は、形見を持ち出せたんだっけ」
沖島は穏やかな声色で聞いた。
美禰は小さく頷く。
「火事だったから、何も残っていなかったって聞いてる。でも、ずっとこれだけは、おかあさんが持たせてくれていたから」
ぎこちない「おかあさん」という言葉に、発した本人も気づいているのだろう、苦笑混じりに眉を下げた。
コクヨウを抱いたまま、右手で首筋を触る。
ブラウスから引っ張り出したのは、ペンダントだった。小花のチャームが揺れる。
「これが形見かな」
「何の花か知っているかい?」
「知らない。先生知ってるの?」
美禰は小首を傾げて、チャームを少しだけ沖島に見えやすいように指先で摘んだ。
「知っているよ」
知らないはずがない。
最初に見つけたときに、沖島が渡したのだ。
くすんではいるが、大事に扱われていたことがわかる鈍色の輝き。久しぶりに目にしたそれは、たくさんの愛情にあたためられてきたことを沖島に伝えているように思えた。
「柊の花だ」
「柊? 金木犀かと思ってた」
「似ているよね」
みんなそう言うよ、という言葉を飲み込んで、沖島は静かに笑った。
美禰は不思議そうに花を見下ろして「ふうん」とどこか嬉しそうに呟く。そして、記憶の蓋が空いたようにハッと顔を綻ばせた。
「これ、ずっと受け継がれてるんだって言ってた」
「そうか」
「そう、そうだわ」
今、彼女の頭の中には幸福であった頃の記憶がふわりと開花しているのだろう。おそらく、意図してなぞることのなかったそれに、初めて向かい合っている。瞳に、見る見るうちに歓喜と涙が溜まる。
沖島はゆっくりと立ち上がると、湯飲みを台所へと持って行った。
美禰のおかげでぴかぴかに磨かれたシンクで、久しぶりに洗い物をする。といっても湯飲み一つを洗い終えるのは、時間のかかることではない。
美禰が鼻をすする気配を水でかき消しながら、沖島はゆっくりとそれを洗った。
ふと、換気扇が目に付いた。
青い羽根は止まっている。
そう言えば、美禰が来てからと言うもの、朝の一服をしていなかったことを思い出した。
それまで煙草のことなどすっかり忘れていたというのに、思い出した途端そわそわと落ち着きがなくなっていることに内心苦笑する。ヘビースモーカーには縁遠いと自負し、実際一日に一本しか吸っていなかった。しかし、食器かごに湯飲みを伏せつつ、視線はついコンロに向かっている。
そこに、見慣れないものが置いてあった。
ブリキの缶ケース。
手にとって開けると、窓枠に置いていた煙草が入っていた。ありがたいことに、焼き物の灰皿とマッチまで入っている。
さりげなく振り返ると、美禰はコクヨウを抱いたまま、袖で頬をこするような仕草をしていた。
換気扇のスイッチに手を伸ばし、羽を回す。
煙草を一本加え、マッチを擦って火を灯した。今までコンロを使っていたが、なんと便利なことか。
沖島は灰皿だけを缶から取り出すと、手に持ったまま久しぶりの一服をかみしめた。肩を壁につけ、軽くもたれる。
ほろ苦く不健康な煙が喉を通って、肺を満たす。
身体を循環したそれを換気扇に向かって吐き出し、また深く吸い込む。何度か繰り返していると、頭が空っぽになるのを感じた。
そうだ。毎朝そのためだけにこれを口にしていた。
町に出る準備。身体に残る自我を追い出す為のわずかな時間。
そうしなければ、町に出ることができなかった頃からの習慣は、意味を失いつつある今でも、ただの習慣として身体に馴染んでいた。
ここ最近は、美禰に連れられて買い出しに出ていたせいか、その必要を全く感じていなかった。
不思議なものだ。
あれに近寄らないためにしていた心構えが、近くに置いた途端に不要になったなど、彼女を失ったばかりの自分に想像できただろうか。
結局自分にとことん甘いだけなのだ、と荒んだ自分から返事が返ってきたような気がした。遠い過去でもがく哀れな男に、その通りだよ、と柔らかく返事をしておく。
沖島は、吸い込むたびにぽっと光る赤い炎を見つめながら、頭に何かが引っかかっているのを感じていた。
何を気にしているのだろうか。
自分の感情や、意図せず仕入れていた雑然とした情報を整理するとき、頭の中に縦横無尽に広がる引き出しのすべてに手が届くようなイメージを思い浮かべる。
そこは薄暗く、底は果てしなく、頂上は見えない。しかし、意識すればどこまでも行ける。
自分の手は何かを探している。あちこちにふらふらと動く指先が、ぴたりと止まって、ぐんぐん伸びていく。そうして金具に指をひっかけて開けた引き出しには、一冊の本があった。
あの本。社内恋愛。慌てふためいて隠す美禰。誰のか。
佐紀子の本。小指で光る小さな輪。美禰の身体の下敷きになっていた、噛みちぎられた腕の先で輝いていた幸福の象徴。
頷いた小さな頭。
美禰は気づいていた。あの二人が付き合っていたことを。黙って気づかぬ振りをしてあげていた。それも、恐ろしくうまく。つまり二人は隠していたつもりなのだ。店以外で逢瀬を重ねていたとは考えづらい。この小さなコミュニティのなかでは、すぐに知れ渡ってしまう。ならば、誰もが参加して気軽に話ができる祭祀こそが、公然と二人して出かけられる数少ない機会だったのではないだろうか。どうして美禰を誘ったのか。それが自然だったから? いいや、美禰ならそれとなく断ることもできたはずだ。なぜ祭祀について行ったのだろう。
青い羽根が、ぐるぐると回り続けている。それを目で追いかけながら、短くなった煙草を灰皿にねじりつぶした。
美禰が落ち着いてきたのを見計らい、ソファの肘掛けに腰掛ける。
沖島は、ほんの少し目元を赤くした美禰に、疑問をぶつけてみることにした。




