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12 彼女


 この家に、笑い声が響いていることが不思議であり、妙に心地よかった。懐かしいようで、しかし、あの頃とは少し違う。

 美禰はとても清らかで、彼女の持っていた性質とは異なっている。


 彼女は甘く、無邪気に人を惑わせるようなところがあった。それでいて潔白な空気を纏っているので、皆どこか彼女という人間の在処を、自分の一つも二つも先に立たせていた。美禰は、誰もが慈しみ見守っている。彼女が本当は欲していた立場に立っている。


 そのことが、沖島の胸を緩く掴んだ。ほんの少しの痛みを連れて。


 出窓に乗ったスズとシロが、同時に振り向いてこちらを真っ直ぐに見つめたのを視界の端に捉え、沖島はこれに慣れなくては、と心を整える。

 開けてしまった。

 瓶の蓋はもう閉じているというのに、彼女はそこから逃げだして、沖島の心の中枢に根を張ったように、軽やかに揺さぶってくる。ことごとく些細な場所で、後ろからふっと息を吹きかけてくる。


 それに慣れなくては。


 せめて逃げ出した奴を再び壷に閉じこめて、美禰がどうにかこの町に住み続けていくことを決めさせた後なければ、布団に丸まって彼女の思い出に浸ることはできない。


 沖島は表情に注意をして、美禰の片づけ術をうんうんと頷きながら聞いていた。

 その頭の片隅には、いつかみた柊の花がひらりと舞い続けている。




    ○




 降ってわいた同居生活は苦ではなかった。

 起床も就寝も、沖島の今までの生活とはなんら変わらない、ストレスフリーな生活に、さらに朝昼夜と健康と節約に気遣った食卓が加わった。


 それは、共同生活の時間帯を美禰がごく自然にすり合わせてくれていたことが大きいのだろう。いくつもの家を渡り合った彼女の生きる術が遺憾なく発揮されていた。


 美禰の明るい顔と、猫たちに囲まれる日々が、拍子抜けするほど快適で、美禰自身の心労はないのかと、沖島が用心深く注視して機嫌を伺うこともあった。

 けろりとした顔で、なによ、と返されるので、とりあえずはすぐに荷造りをして消えるということはないようだ。



 もう一週間になる。


 美禰は毎日、沖島よりほんの少し早く、鐘が鳴る前に起きて、朝食の準備をする。猫たちはいつも美禰の周りをついて回り、洗濯掃除をするために美禰が移動をすると、ちょこまかとついて行く。シロあたりがそれに飽きて出窓に向かうのが昼頃で、ソファに座って読みかけの本を読む沖島の膝の上を通って、スズがシロについて行き、出窓で毛繕いをする。


 美禰が棚を片づけたおかげで、そこに綺麗に並んだ本を端から読まなくては、という強迫観念にも似た思いで、本を開くようになった。順調に、二冊読破した。


 しかし、今手に取っていこの本を、どうして買ったのだろうかと首をひねりたくなった。


 一冊前までは推理小説だったというのに、これは規則が緩いともいえる会社での、仕事そっちのけで恋愛に興じる男女の社内恋愛を描いた恋愛小説だった。お花畑全開で、フィクション満載。あまりにもむず痒くなるような台詞と心情でごった返している。


 もたれた胃を宥めるように腹をさすりながら、沖島は本を膝の上に伏せた。


 どうして出張に行くのに、観光名所の本を開いて付箋を貼っているのか。それはもう遠足に行く子供のように――いや、それ以上に落ち着きのない彼女は上司である同行者とのデートを楽しみに心を弾ませ、下着まで吟味していた。

 恐ろしく目が疲れた。


「先生、お茶いる?」


 いつものように、さりげなく気づいた美禰が足を止める。

 コクヨウも足を止めて、こちらを見る。


「ああ、うん。頼もうかな」

「よしきた」


 美禰は一度茶を褒めてからというもの、お茶を入れるタイミングをまだかまだかと待っているところがある。

 その姿がとても愛らしいので、わざとらしく休憩を取るようになったのも、ここ数日の沖島の日常だった。

 白々しい目をシロが向け、スズは生温かい視線をくれる。

 コクヨウを伴って盆を持って持ってきた美禰は、絨毯の上に膝をつくと、恭しくローテーブルに湯飲みをおいた。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


 沖島はソファから腰を浮かす。

 と、膝の上に置いていた本をすっかり忘れていたせいで、それが滑り落ちてしまった。美禰がさっと手を伸ばし、拾う。カバーが、するりと抜けてしまった。

 黒いヒールを履いた足の絵が描かれた表紙が、照明でぴかぴかと真新しく光る。


「あれ?」


 美禰はその表紙をじっと見て固まった。

 沖島も固まっていた。

 久しく本は買っていない。

 読み終えたことがなかったからだ。沖島はいつも、古書に分類される一昔前の純文学や、推理小説を好んで買っていたので、こんな真新しい表紙の本を手に取る自分が信じられなかった。はて、と首を盛大に傾げた次の瞬間、美禰がバタンとその場で飛び跳ねるように本の上に覆い被さった。


 コクヨウが目をぐりりと見開き、沖島もその美禰の姿に驚く。とりあえずソファから降りて、いつものように絨毯の上であぐらを掻いて湯飲みを持ち上げた。

 一口含み、ほんのりと甘い緑茶の香りを楽しむ。


「沖島先生」

「はい」

「読んだ?」


 美禰は豊かな髪を肩から垂らしまま微動だにせず、怖々と聞いてきた。エプロンの紐の蝶々結びがへたりと意気消沈している。

 思わずくすりと笑みがこぼれ、美禰は大げさに肩を揺らしたかと思うと、顔を上げた。真っ赤だった。


「読んだのね?!」

「そうなるね」

「他にどうなるのよ」


 愛らしい顔を精一杯恨みがましくした美禰を、沖島は緑茶をすすりながら涼しい目で見て、こくんと頷いた。


「どうにもならないね」

「……先生、本当に大人なの?」


 美禰の切りそろえられた前髪の間から、心底不思議そうな目が返ってくる。このどうしようもない返しをしてくる大人をどうしてくれようか、と饒舌に語っていた。

 沖島は伏せたままの美禰に、もう一度頷く。


「大人だね」

「嘘だあ」

「照れ隠ししないの。そろそろ起きあがりなさいな」

「あたしが悪いと思うんだけど、一応聞くね。どうしてこれを読んでるの」


 美禰は渋々と言った格好を崩さずに、起きあがる。

 しかし、胸にはきつく本が抱きしめられている。

 沖島は美禰と視線を合わせたまま、ゆっくり微笑んだ。


「そこの棚に入っていて」

「でしょうね」

「せっかく美禰くんが部屋を綺麗に整頓してくれているんだから、読みかけの本を読まなくてはと思った次第で」

「わかってる。そこまではわかってるの。最近、先生ずっとソファで本読んでるから。ちょっと、他人が居ても大丈夫なのかなと心配したけど、あそこまでくつろぎながら読んでたから逆に嬉しかったの」

「それは初耳だ」

「いや、家族の中に迎え入れられることは多々あったけど、成人男性と二人きりは初めてだしね? しかも、沖島先生だしね?」

「どういう意味だろう」

「想像つかなかったってこと。先生と言えば、ふらりと猫を連れて町を散歩してるか、捜し物してるか、茶屋でのんびりあんみつ食べてる姿しか思い浮かばなかったから、なんていうのかな、空想の人物感が強かったんだよね」


 美禰は至極まじめな顔で言う。


「ほう」

「こうして一緒に過ごしてみて、先生も人間だったんだな、って」

「それはそれは」

「余計に、わからなくもなってるけど」

「どこがどんな風に?」

「そんなとことよ」


 美禰がびしりと指をさす。


「のらりくらりという言葉がぴったりなところ。大人っぽくない。オムライスが好きなところも。ここ一週間で四回も作ったのよ。このままじゃ毎日オムライスが夕飯になりそうで怖いくらい」

「美禰くん、オムライスの卵巻くのうまいからね。私好みの薄焼き卵だ」

「ありがとう。でも、そういうところよ?」

「で、それは? もういいかい?」


 沖島は、うろんな目をした美禰の胸に抱かれたままの本をちょいちょいと指先で示す。

 美禰はハッとすると、本を読り強く抱きしめた。


「だからね? あたしが間違って、何故か先生の本棚に自分の本を紛れ込ませたことはわかってるんだけど――いや、良くないし、今後は絶対そんなことがないように気をつけるけど――けどさ、読んだらわかるでしょ? 自分が買ったのじゃないなって、わかるでしょ?」

「正直わからなかった」


 素直に沖島が白状すると、美禰はぽかんと口を開けた。


「嘘でしょ」

「いいや、本当だ」


 大きく頷いてみせる。


「つい先ほどから、どうしてこれを買う気になったのかと本気で考えていた」

「で、どこまで読んだの」

「出張の支度をしているところまで」

「ほぼ後半じゃない! もうちょっと早めに変だなって思うでしょう!」

「思いながら読んでたんだよ」

「もう信じられない」


 感情豊かでない沖島の反応に、美禰はがっくりと肩を落とした。


「美禰くん、こういうのが好きなんだね。読書家なんて知らなかった」

「いろいろ失礼ね」


 美禰が観念したように本をテーブルに置いて、丁寧にカバーを掛けなおし始めた。


「あたしのだけど、あたしのじゃないっていうか」

「佐紀子くん?」

「うん」


 短く返事をした美禰の顔を見て、もしや、と思い当たる。


「気づいていたのかい? 青井くんと佐紀子くんのこと」


 美禰はちらりと視線だけで気まずそうに見上げてきた。それは紛れもない肯定だった。


「いつから?」

「三ヶ月前から」

「わりとすぐだね」


 沖島は密かに感心した。確かにあの二人の距離が縮まったのはそのあたりだ。美禰は全く気づく素振りもなく、案外鈍感なんだと思っていたのだが、それこそ自分が鈍感だったらしい。

 沖島の驚きに気づかないまま、美禰はぽりぽりと頭を掻いた。


「うーん、なんか空気でわかっちゃったんだけど、言わない方が良さそうだったから」

「素晴らしく空気を読んでいる」

「まあ慣れってやつですね」


 茶化して言いながら、美禰は綺麗にかかったブックカバーの上から、本を指先で撫でた。


「その本、面白かったのかい」


 興味本位で聞くと、美禰は即座に頭を振った。


「よくわかんない。仕事しろって思うわ」

「同感だ」

「ふふ、そうだよね」


 美禰が隣にぴったりとくっつくコクヨウを撫でる。


「でも、佐紀子これが好きで。なに読んでるのって聞いたら貸してくれたんだ。あたしにはさっぱりわかんないけど、佐紀子は好きなんだなあって思いながら読んだの。まあ、その、ちょっと羨ましかったけどね」

「へえ?」

「いいじゃない。こんなに誰かのことばっかりに頭が占拠されるなんてそうそうないでしょ」

「美禰くんはなかったと」

「う」


 美禰はコクヨウを抱き寄せて、湯飲みを傾ける沖島をじろじろと見た。


「そういう先生はどうなの」

「うん?」

「こんなに周りの景色がキラキラして浮き足だった経験は?」

「あるねえ」

「え」


 自分から聞いておきながら、美禰はぎょっとした。

 手に力がこもったのか、抱き抱えられたままのコクヨウが少しだけ目を細める。


「あ、ごめんね、コクヨウさん」


 美禰は慌てて手をゆるめた。彼は気にする素振りなく、それどこから美禰の腕のもたれ掛かった。しっかりと抱き抱えられ、満足そうに目を瞑る。


 本格的な昼寝に入ろうとくつろいだコクヨウとは違い、美禰は信じられないという顔で、沖島を見ていた。


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