第32話 夕陽が落ちる中で……
息を切らしながら、ようやく校舎に辿り着く。胸の奥では、完成したばかりの曲の余韻が、まだ熱を持ったまま鳴り続けていた。
この想いを、早く伝えたい。そう思う中で、もう彼女が帰宅しているかもしれないという不安もあった。それすら振り払うように、俺はそのまま扉に手をかけ、勢いのまま、開け放つ。
——彼女がいた。
その姿を捉えた瞬間、若干安堵をする。しかし、それはすぐに戸惑いの感情へと変わっていった。俺の視界に飛び込んできたのは——律花にしがみつく瑠璃の姿だった。
「ちょっと、離して」
困ったように言う律花の腰に、瑠璃はぎゅっとしがみついたまま、首を横に振る。
「だめ……もう少し、待って」
潤んだ瞳で見上げるその様子は、今にも泣き出しそうで。さすがの律花も戸惑っているらしく、無理に引き剥がすことができずにいる。ただ素直に思うのは——
……なんだこれ。
という思いだった。あまりの光景に、思わず足を止めてしまった。そんな中、俺の気配に気づいたのか、瑠璃がこちらへ視線を向けた。続いて、律花もつられるように顔を上げる。
そして俺に気づいた瞬間。律花の視線が鋭く俺に突き刺ささる。
「……あなたの差し金ね」
責めるような言葉が、冷たく突き放すように向けられた。
なんて言えばいい。喉まで出かかった言葉を、一度飲み込む。この曲を聴いてほしい——そう言えば済む話なのに、どうしてか、それだけじゃ足りない気がした。
だから一歩、踏み出して伝える。
「……どうしても、律花に聴いてほしい曲がある」
逃げずに、言い切る。その言葉を受けて、律花は一瞬だけ言葉を失ったように目を伏せた。何かを図るような、短い沈黙。
やがて、はあ、と小さく息を吐いてから——
「……わかった」
短く、けれどはっきりと頷いた。
誰もいない教室。窓の外から差し込む光と、わずかな生活音だけが残る静かな空間の中で、俺はスマートフォンを差し出す。彼女はそれを受け取り、画面に表示された曲名へと視線を落とした。
「……Silent Strength?なんか、あなたらしくない曲名ね」
「そうかな?」
「えぇ……」
わずかに頷いたあと、律花は小さく息を整える。ほんの少し緊張した様子で、イヤホンを耳に差し込んだ。
再生ボタンを押す。静かなピアノの導入。そこに、ひとつ、またひとつと音が積み重なり、遅れて弦が柔らかく重なっていく。空気そのものが、ゆっくりと色を変えていくみたいに。
律花は再生された音を聞いて、わずかに目を細めた。いつもの俺の曲とは、どこか違う。そんな違和感に触れるように、ほんの少しだけ眉が寄る。
そして、数秒遅れて。はっとしたように、こちらを見た。きっと気づいたんだろうな、この曲が律花に向けたものだと。
どこか不器用で、でもいつも真っすぐで、強さの奥に優しさを隠していること。その優しさが、どれだけ救いだったかということ。そして、俺がどれだけ彼女を信じ、頼りにしてきたかということ。飾らない言葉で、ただ自分の想いを綴った歌詞。
彼女はじっと画面を見つめる。音を拒まず、そのまま受け止めるように。やがてサビに入る。サビで旋律がひときわ大きく響いた瞬間、彼女の喉が小さく震えたのが分かった。息を吸う音が、わずかに乱れる。それでも、最後まで聴き切ろうとするように、揺れる瞳で画面を見つめる。
——やがて、最後の一音が静かに溶け、音が消える。その静けさの中で。ぽたり、と一粒、涙が落ちた。それが合図だった。
瞬間、堰を切ったように、彼女の感情が溢れ出す。肩が震え、呼吸が乱れる。押し殺してきたものが、すべて解けていくみたいに涙が溢れ出す。
これまで押し殺していたものが、一気にあふれ出すみたいに。次から次へと涙がこぼれて止まらない。
俺は慌ててハンカチを探すが見つからず、どうしようかと焦ってしまい、つい視線を彷徨わせてしまう。そんな中、瑠璃がそっとハンカチを差し出した。
それに気づいた律花は、一瞬だけ驚いたように目を見開き、戸惑うように視線を揺らす。それでも、小さく息を飲み込んで彼女の好意を受け入れるように、静かにそれを手を伸ばす。
そして、手に取ったハンカチをそのまま顔を押し当てる。
その様子を見守るように、瑠璃は温かな目線を向けていた。しばらくして、彼女はようやく顔を上げる。目元は赤く、それでもどこか、少しだけ軽くなったような表情でこちらを振り向いた。
「……これって、私のための曲だよね」
「そうだな」
短く答え、頷いた。
「……どうして、この曲作ったの?」
こちらを窺うような視線に、少しだけ言葉が詰まる。戸惑いと、今になって込み上げてくる気恥ずかしさに喉が引っかかる。それでも目を逸らさず、覚悟を決めるように息を一つ吐いて、言葉を紡いだ。
「上手く言葉で伝えられる自信がなかった。……だから、音にしたんだ」
言葉にした途端、急に気恥ずかしさが込み上げてくる。今更ながらに、別の方法があったんじゃないか……そんな考えが頭を過る。
自分の想いを、わざわざ曲にして伝えるなんて……まるで告白みたいだと、今になって思ってしまう。つい、彼女の反応を窺うように顔を上げた。
彼女は何も言わず、ただこちらを見つめている。その沈黙に、耐えきれなくなって、俺は視線をわずかに揺らしながら、言い訳するみたいに言葉を続けた。
「律花と、これから先もずっと、曲を作っていきたいと思った。一緒に歩いていきたいと思った。……その想いを伝えるなら、やっぱ曲でかなって」
そう伝えると、彼女は目元をふっと和らげ、肩の力を抜く。張り詰めていた空気が、少しだけほどけた。それから、彼女はくすっと笑って、こちらを見る。
「……本当、あなたも馬鹿ね」
その言葉と同時に、堪えきれなかったように笑みが零れる。その様子に、俺も自然と力が抜けた。
「ふふっ……だと思うよ。でもさ、これしか思い浮かばなかった」
俺もくすっと笑いながら、肩を小さく震わせた。その様子を、律花は優しげな目で見つめてくる。
「そういえば、授業中もずっと考えてたでしょ?」
「うっ……気づいてたんだ」
「嫌でも目に入るわよ。先生に怒られてるあなたがね」
そう言って彼女はくすくすと笑う。
「だって、初めてたった一人に向けて曲を作るって決めて。ほんと、分からないことだらけで。……でも、本気で向き合わなきゃ、きっと俺の思いは伝わらないって思ったんだ。だから、全部を差し出すつもりで制作に挑んだ」
彼女に胸の内を伝えると、どこか子供を見守るような温かな目で俺を見つめてくる。……?それに戸惑っていると、彼女は薄っすらと笑みを浮かべて、口を開いた。
「……ねえ、私について話してもいいかな?」
俺達しかいない、静かな教室に、律花の言葉がぽつりと落ちる。ふっと静まり返ったその教室に、淡く黒い影が教室の中へと差し込み始めていた。
「……うん。話してくれる?」
俺が頷いて返すと、彼女はそっと息を吐いてから、口を開いた。




