拾得物報告書 第89号 氷菓(未開封)
朝から、うんざりするほど暑かった。
肌にまとわりつく湿気と、アスファルトから立ち上る陽炎が視界を歪ませる。
駅舎の外では蝉がこれでもかと鳴き続け、ホームに滑り込んできた電車が、生ぬるい熱気をかき回していった。
「今日も暑いですねえ」
隣を歩く同僚が、首筋に流れる汗を気にするように、手でぱたぱたと胸元を扇ぐ。その仕草も、今ではすっかり見慣れたものになっていた。
「朝からこれじゃ、昼どうなるんだよ」
「予報だと最高気温は三十九度だそうです」
「聞きたくなかった」
「私も見なきゃよかったです」
二人揃ってため息をつく。
まだ仕事は始まったばかりだというのに、シャツはもうじっとりと肌に張りつき始めていた。
「お前、あんまり汗かくとシャツ透けるぞ」
「エッチ」
そう言いながら、同僚は両手で体を抱きしめるように胸元を隠す。
「教えてやったんだろうが」
「じゃあ見ないでくださいね」
「その程度のもの、見ねえって」
「今見たじゃないですか」
「確認しただけだ。見てほしけりゃもっと育ててくれ」
「それを見たって言うんですよ。あと、それ先輩じゃなかったらセクハラになりますからね!」
「わかったわかった、悪かった。はいはい見ましたよ! これでいいか?」
「なんか投げやりで納得いかない―!」
くだらないやり取りをしながら、駅舎の端にあるコインロッカーへ向かう。
今日最初の仕事は、保管期限を過ぎたロッカーの確認だった。
利用期限を過ぎても荷物が入ったままのロッカーを開錠し、中身を回収する。回収品は所定の手続きに従って保管し、持ち主が現れなければ、その後さらに処理される。
「今日は何個です?」
「三つ」
「少ないですね」
「少ない方がいいだろ。多くたって給料増えないぞ」
「それはそう」
目的のロッカーの前で足を止める。
俺は手元の番号と扉の番号を照合した。
「まずこれ。二一七番」
「はい、二一七番」
同僚もチェック表を確認する。
「期限は?」
「昨日までですね」
「よし」
端末を操作して、対象のロッカーを管理者権限で解錠すると、カチッ、と扉のロックが外れた。
「何入ってると思う?」
「夏ですからねえ。海水浴帰りの水着とか」
「嫌だなあ」
「しかも濡れたままビニール袋に入れて三日放置」
「もっと嫌だなあ」
「開けた瞬間、むわぁって」
若干楽しそうに同僚が言う。
「やめろ。開けたくなくなるだろ」
「お仕事ですよ、先輩」
「分かってるよ」
今度はお前に開ける役やらせてやろうか。
だがカビの生えた水着くらいならまだいい。うぇぇ、で済む。
問題は、見るからにやばい汁が染み出てるゴミとか、警察を呼ばなきゃいけないようなモンとかだ。そういうのが出てきた日には、もうその日は何も手につかない。なんでこの仕事、まだ辞めてないんだろうな、って真剣に考える。
「じゃ、開けるぞ」
思考を停止させて、俺は宣言した。これは業務だ。
「はーい」
取っ手に指をかける。
そして俺は、二一七番の扉を開けた。
「「うわっ」」
むわっと流れ出る湿った空気に、二人揃って顔を背けた。
閉じ込められていた生温い空気が、湿った紙の臭いを伴って流れ出してくる。
「……何これ」
ロッカーの中には、大きな紙袋が一つ。
明るい色の背景に蛍光ピンクの色面積が多い女の子が何人も描かれている。
ただし、すっかり湿気を吸ってしまったらしく、底のあたりは色が変わり、今にも破れそうだ。
「紙袋だな」
「それは見れば分かります」
そんな呆れたように言われても、この段階で他にどういえと。
「とりあえず出すか」
「底抜けません?」
「抜けそうだな。下支えるから引っ張って」
「はーい」
二人がかりで慎重に紙袋を引っ張り出す。
中には何冊もの本がぎっしり詰め込まれていた。
「本?」
同僚が一冊、端をつまんで引っ張り出す。
「うわー……」
「なんだ?」
表紙を見た同僚の顔がなんとも言えないものになる。
そのまま無言でこちらへ向けてきた。
「……あー」
エッチな同人誌だった。
しかも一冊や二冊ではない。
紙袋いっぱい、全部それらしい。
「これ、どうしましょう?」
「どうするって、置き去り品なんだから普通に処理するしかないだろ」
「これを?」
「これを」
「一冊ずつ確認するんですか?」
「確認は必要だろうな」
「うわー……」
もう一度、同人誌を見る。
それから同僚が、ちらりと俺を見た。
「先輩も、こんなの見るんですか?」
「俺は三次元専門だよ」
「…………」
同僚は一瞬、何かを言いかけたが、すぐに口を閉じて、いたずらっぽく目を細めた。
「なんだよ」
「……えっち」
「なんでだよ」
「二次元なら健全だったのに」
「その理屈はおかしいだろ」
朝一番の回収品は、湿気でびっしりになった大量のエッチな同人誌だった。
「……次、行くか」
「これ持って?」
「先に回収箱に入れてくる」
「抜いちゃダメですよ?」
「どっちの意味だよ!」
「……先輩のえっち!」
赤くなる同僚を後目に回収箱へ運ぶ。これでもまだ一個目である。
◇
二個目。
「次、三〇四番」
「三〇四番……はい、これですね」
管理者権限で開錠する。
カチリ。
「今度はまともなの頼むぞ」
「まともな置き去り品って何ですか?」
「傘とか」
「ロッカーに傘だけ入れます?」
「じゃあ鞄」
「普通ですねえ」
「普通でいいんだよ」
扉を開ける。
「…………」
「…………」
何もなかった。
「空ですね」
「空だな」
同僚が中を覗き込み、念のため奥まで確認する。
「何で空なのに施錠されてるんです?」
「たまにいるんだよ。操作間違えて閉めちゃって、悔し紛れなんだかどうだか、そのまま放置する奴が」
「へえ。詳しいですね」
「研修でやったろ。覚えてないか?」
「今日も暑いですねえ」
「お前、研修聞いてなかったな?!」
「あ、ほら次行きましょう次!」
「後で教本読み直せよ?」
「そんなぁ」
空のロッカーを閉める。
「次。これで最後」
「はーい」
三個目は、少し離れた場所にあった。
番号を確認して、同じように開錠する。
「今度こそ普通のやつ」
「期待するとまた変なの出ますよ」
「それもそうだな」
扉を開けた。
「…………」
「…………」
中に入っていたのは、一つだけ。
「……あ〇きバー?」
「だな」
赤い袋に入った、どこにでも売っている棒アイス。
それが一本、ロッカーの真ん中にぽつんと置かれていた。
「うわー……」
「これはまた……」
「絶対溶けてますよ」
「そりゃな」
この暑さだ。
しかも冷蔵でも冷凍でもない、ただのコインロッカー。
いくら硬さがウリのあ〇きバーでも保つまい。
どう考えても中身は液体になっている。
「捨てるしかないよなあ」
袋の中でチャポンと液体が揺れる、あの何とも言えない感触を覚悟して、袋をつまんで持ち上げる。
ひやり。
「……え?」
「どうしました?」
「これ」
「はい?」
同僚に差し出す。
怪訝そうな顔をしながら受け取った同僚は、
「……え?」
とても文章では表現できない顔をして固まった。
「冷たいだろ」
「うそ……」
同僚は俺とアイスを交互に見て、それからもう一度、確かめるように袋を握った。
「……どうして冷たいんですか?」
「知らんよ」
「いや、先輩が出したんですよね?」
「今、目の前で見てただろ」
「見てましたけど……」
同僚が恐る恐る袋を押してみる。
「固い」
「あ〇きバーだからな」
「いや、そうじゃなくて!」
「分かってるよ! 言うしかなかったんだよ!」
俺も逃避させてくれ頼む。
「……凍ってますね」
「凍ってるよなあ」
二人でロッカーの中を見る。
当然ながら、ただの金属製の箱だ。
冷気が出ているわけでもない。
「……どうしましょう、これ」
「どうするって……」
「拾得物ですか?」
「一応、中に残ってた物だからな」
「え、拾得物に『あ〇きバー、一個』って書くんですか?」
「一本じゃないか?」
「…………」
「…………」
手の中には、真夏のコインロッカーから出てきた、凍ったままのあ〇きバー。
「……書くしかないんじゃない?」
「嫌ですよ。絶対あとで『これ書いたの誰?』って聞かれるじゃないですか」
「俺も嫌だよ」
「じゃあどうするんですか」
「……上司に聞く?」
「あ〇きバー持って?」
「あ〇きバー持って」
二人でもう一度、それを見る。
袋の表面には、うっすらと冷たい水滴が浮かんでいた。
「記録は、氷菓(未開封)で」
「はい。でも、何も解決しませんよ?」
「聞かれたら現品見せて考えるよ」
あ〇きバーを回収箱に収め、空になったロッカーを閉める。
ぱたん。
「先輩」
同僚が声をかけてきた。
「これ、冷凍保管したほうがいいですかね?」
「……しらん」




