96・☆ジーン先生の授業
シリウスは狼のフォウルを伴って、大学生たちに教わった第三講義室に到着した。
同じ階には他にもいくつか部屋があったけれど、目当ての場所は満員の生徒であふれていたのですぐにわかった。
座りきれなくなった学生が立ち見をしていて、それでも収まりきらなかった学生は講義室の扉を開放して外から授業を聞いている。
シリウスとフォウルが廊下を歩いて近づいても、生徒たちは真剣に講義を聴いているせいか、闖入者に気づいていないようだった。
声をかけてはいけないと思い、けれど授業をしているアルファが見てみたくて、シリウスは学生たちのそばに近づいた。
「あまり人ごみに近づくと危険です」
フォウルがこっそり声をかけたが、シリウスは笑った。
「アルファの生徒さんたちだよ。危険なんかじゃないから大丈夫」
小さいからだを生かして、学生たちの隙間からそっと室内を覗き込む。
教壇に立つアルファは、生徒たちに向かって何か難しい魔法の法則について語っていた。
躊躇したり考え込んだりすることは一切ない。
そうしている間にも、黒板では青白く輝く光の軌跡がスルスルと移動し、複雑な図形を描いていく。
アルファが自らの脳内のイメージから直接、黒板に魔方陣を転写していたのだけれど、生徒たちはみなその光景に目を輝かせ、こっそり見学しているシリウスも、はじめての光景に見入ってしまった。
青白く輝く光はとても美しかったし、描かれている図形も、それだけで芸術品のように完璧だ。
光の軌跡が黒板いっぱいに魔法陣を描いたところで、アルファがパチンと指を鳴らす。
それを合図に魔方陣から小規模な魔法が次々と発生した。
パチパチと炎がはぜる音と共に、青い火花がいくつも輝く。
現象が終わると、アルファが躊躇せず魔方陣を消してしまったので、図形をノートに写しきれなかった生徒たちの間から小さく悲鳴があがった。
けれどもちろん、アルファは気にしない。
「陣の図形にこだわることはない。いつも言っているが、これはあくまでも一例だ。最初に描いたのは説明したとおり空気中に含まれる炎症物質を利用した炎属性のみの陣だが、複数の属性の魔法を組み合わせ陣を描けば、より単純に実行することが可能だ。一般的に複数の魔法を組み合わせると図形は複雑になるといわれているが、例外も多い。たとえば……」
消した部分に新たな図形を描いていく。
さっきよりもずっと単純で小さな図形だ。
アルファが図形を描き終えると、陣全体が浮き上がるように輝いた。
黒板が光を産み、次々と小さな美しい火花が広がった。
生徒たちのあげた感嘆の声を黙殺し、アルファは続ける。
「今描いた図形は最初の魔法とほぼ同じ効果が得られるだけでなく、魔力の消費量もずっと少ない。電気系統の魔法と炎の魔法はこのようにとても相性がよい。単純な図式でも複数の有用な……」
そこまで完璧に、淀みなく、授業を進めていたアルファがはじめて言葉を止めたので、学生たちがみな不思議そうな顔をした。
「我が君……!」
学生たちの隙間から授業をのぞいていたシリウスを見つけたのだった。
アルファは生徒たちを掻き分け、躊躇せずシリウスの前に膝をつく。
「我が君、こんな場所にいらっしゃるとは、また学園で何かあったのですか? 授業は……」
アルファに駆け寄られて困ってしまったのはシリウスのほうだ。
授業をしているアルファをちょっと見たかっただけなのだから、こんな風に中断させてしまうつもりはまったくなかった。
「邪魔しちゃってごめん。授業が早く終わったから、どうしてるかなって見にきたんだ」
「では俺も今すぐ帰ります」
すかさずアルファが立ち上がったので、学生たちが大いにざわめく。
この講義を受けるため他の授業を犠牲にしていたり、やっとの思いで席を勝ち取った生徒たちだ。
シリウスもあわてた。
「待ってるから、最後まで続けてあげて」
「いえ、我が君をお待たせするわけにはまいりません」
きっぱりと言ってアルファが手を振ると、黒板に描かれた美しい図形は輝きながら自らその姿を消していく。
再び生徒たちから悲鳴があがった。
「だめだよ、やめないで。ぼく、アルファの授業が見たいんだ」
こっそりアルファの名前を呼ぶと、アルファは目を見開いて、それからやさしく微笑んだ。
ジーン先生の笑みを初めて見た学生たちは顔を見合わせたが、口を挟まず祈るような気分だ。
アルファはシリウスの手を引いて教壇まで進むと、自分のために用意された椅子を黒板の横に置き、そこに主を座らせた。
「ではここに。もし途中でお飽きになったらすぐにお伝えください」
非常に目立つ位置だったのでシリウスとしては遠慮したかったのだけれど、アルファの雰囲気から言って、他の場所では了承してくれなさそうだった。
守りにくい人ごみのなかから脱出できたので、フォウルも満足そうにシリウスの足元に座る。
アルファはシリウスが座ったのを確認すると、再び教壇に立って授業を始めた。
しかしさっきまでの様子とはかなり違っていて、話し方も穏やかに、ゆっくりになり、言葉が終わるたびに、黒板の横でおとなしく授業を聞いているシリウスに向け微笑みかける。
まるでシリウス一人に授業を教えているかのようだ。
一通りの説明を終えると、アルファは生徒たちに向け「何か質問は」と、声をかけた。
いくつか手が挙がり、そのうちの一人をアルファが指名すると、その生徒は緊張した面持ちで
「ジーン先生、その子はいったいどこの子ですか……?」
と、授業とは関係のない質問をした。
授業を中断させ、ジーン先生の笑顔を引き出す美しい少年の正体がどうしてもどうしても知りたかったのだろう。
教室が静まり返ってしまったが、全員が知りたかった事柄だったため、息を呑みつつも興味津々の空気が部屋に満ちた。
「そなたの質問はそれでよいのか? 俺が授業を行った結果、感じた疑問は我が君のお身柄の事に関してだけなのだな?」
「えっ?! あ、あの……!」
「この方は俺の主だ」
生徒があわてて弁解しようとしたが、アルファはあっさり答えてしまった。
「そなたらが俺の授業を受けられるのは、我が君がそうせよと言ってくださった結果だ。――ほかに質問はあるか」
生徒たちはみな内心さまざまな質問があったのだろうが、とても追加で何か聞ける雰囲気ではなく、だれも手を上げない。
講堂の様子を眺めていたシリウスが、つい手を上げた。
「はい」
「我が君……」
まさか主が手を上げると思っていなかったアルファは若干困惑した表情になったが、拒んだりはしなかった。
「……何かご質問がおありなのですか?」
「ううん、すごくわかりやすかったから。先生の才能があるんだね」
にっこり笑って立ち上がるとアルファに抱きついた。
恐ろしいほどの美形で、常に迫力満点なジーン先生に、そんな大胆なことをする子供に生徒たちは息を呑んだが、抱きつかれたジーン先生は、目撃した人まで釣られて笑顔になるような、優しい表情だった。
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授業が終わり、解散していく生徒たちの中に、シリウスは同じ下宿のマグナスを見つけた。
周囲に座っている数名は友人たちらしく、マグナスも含め、全員でまだなにかノートに書き付けている。
実はアルファが黒板の図形をいつもすばやく消し去ってしまうので、手分けして前もって受け持ちの黒板位置を決め。記憶した図形を必死で模写していたのだった。
全部は無理でも、一部であれば消された後でも記憶しておける。
忘れないうちに描かなくてはと必死なのだった。
「マグナスさん?」
「も、もうちょっとまって……!」
シリウスが声をかけても、マグナスは手を止めずに、すごい勢いでノートを書いていたが、ようやく自分の受け持っている部分を描き終わったのか、長々と深い息をついた。
「はあ、シリウスくん、おつかれさま」
「おつかれさま?」
疲れることは何もしていなかったシリウスは笑った。
「マグナスさんも帰るところなら、ぼくたちと一緒に帰る?」
「……!? ジーン先生たちと?! そ、そうしたいけれど、これからみんなで手分けして描いた陣をまとめなきゃいけないんだ。間違っている箇所がないか確認しないと……!」
急いで言うと、マグナスの友人たちも激しく頷いている。
彼らはマグナスの仲間の魔方陣オタクたちだった。
それを聞いたシリウスは首をかしげた。
「さっき黒板に描いてあったやつ? もう一回描いてもらったらいいんじゃない?」
「そんな無茶な!」
マグナスの友人たちだけでなく、まだ教室に残っていた全員がマグナスの言葉に同意した。
恐るべきジーン先生にそんなずうずうしいお願いをできる生徒は誰もいない。
けれどシリウスは不思議そうな顔だ。
「書き写したいって言ったら、アル……ジーン先生はきっと黒板を消さないでおいてくれると思うけど。……ね?」
ね? の部分でシリウスはアルファを下から覗き込んだ。
生徒たちの期待と不安のこもった視線の中、アルファはこだわりなく平然と頷く。
「黒板の後始末をするのであれば消さずにおこう」
生徒たちの間から小さく歓声があがった。
今日までの授業で毎日苦労していたのだろう。
実際、毎日の授業でジーン先生が描いた図の写しは幻のような扱いになっていた。
協力しあって再現された魔方陣は賞賛の的だったが、正確に写したつもりでも、微妙な違いのせいか完璧なものはできあがらなかった。
魔方陣としてはほとんど同じに機能しても、ジーン先生のもののように隙のないものとは違っていたのだ。
「ですが今日はこれ以上我が君をお待たせするわけにいきません。明日からは我が君のお言葉のとおりに」
「ぼく待ってるよ? アルファの魔方陣、ぼくも好きなんだ。すごくきれいだし、それにちゃんと描ければぼくにも使えるんでしょ?」
「我が君がお学びになりたいのであれば、あとで俺が直接お教えいたしますよ」
やさしく微笑み、シリウスの手をとった。
「さあ帰りましょう」
それ以上しつこく言うのも気が引けたので、シリウスも素直にうなずいた。




