第150話 「十六夜咲夜は進めない ①」
「月見――――――――――――ッ!!」
ばごん、と。
月見の名を呼ぶ裂帛とともにけたたましく玄関がブチ抜かれたならば、それは水月苑においては概ね、フランドール・スカーレットの来襲を告げる合図である。ずどどどどどと長い廊下を爆走し、茶の間の襖を片手で軽々と吹っ飛ばして、月見に天真爛漫な砲弾タックルを叩き込むのが彼女お決まりの挨拶だった。
「月見、大変! 大変なのっ!」
けれどこの日、飛び込んできたフランの様子はなんだかいつもと違っていた。
彼女の象徴ともいうべき無垢な笑顔が根元から崩れ去り、血の気を失って真っ白に張り詰めている。毎度恒例のタックルをぶちかますこともなく、まるでなにかから追われているように大急ぎで月見の腕を取って叫ぶ。
「早く来て! 早くッ!」
マミゾウが幻想郷にやってきて二日ばかりした頃――あのニセモノ騒動が起こる数日前にあたる――、朝食の片づけがすっかり終わり、さて茶でも飲みながら今日の予定を考えようかという、本来であれば長閑に過ぎゆくはずの朝だった。ただならぬ様子に月見は目を丸くして、
「な、なんだなんだ? 一体何事だい」
「とにかく大変なのっ!」
フランの返答はまるで要領を得ない。彼女が慌てふためく様子から、辛うじてなにか事件があったらしいのは伝わってくるけれど。
「フラン、まずはなにがあったのか教え」
「もぉーっ、いいからとにかく来てってば!!」
問答無用とはまさにこのことか。どうにもこうにも、一旦言う通りにしなければ吸血鬼のフルパワーで引きずられてしまいそうだったので、月見はやむなくお茶を諦めて立ち上がり、
「――やめなさい、フラン」
凛、と。響いた第三者の声が、鈴を打ち鳴らすごとくフランを制した。
大きく開け放たれた敷居を静かに跨ぎ、レミリア・スカーレットがそこにいた。
「お姉様……」
「フラン、焦る気持ちはわかるけどまずはきちんと説明しなきゃ。じゃないと、月見だってどうしたらいいのかわからないでしょう?」
妹とは対照的に、レミリアの佇まいは落ち着いていた。けれどそれは、せめて己だけは冷静であらねばならぬと強い責任感に駆られたものであるように見えた。言葉こそ静かでも表情は固く、フラン共々よほど急いで飛んできたのか、帽子の位置がずれて前髪が乱れている。
この姉妹が慌ただしいのはいつものことだ。
だが今回ばかりは、のんびりと二人を歓迎している場合ではないのだとわかった。
「……レミリア」
名を呼び、目線で問う。レミリアは無言で頷き、それから重苦しく口を開く。
「緊急事態よ。紅魔館始まって以来の未曾有の危機だわ」
「まさか──」
「ええ。……不甲斐ない話だけど、私たちに頼れるのはもはやあなただけ。どうか冷静に聞いてちょうだい」
レミリアがここまで言い切るなど、どう考えても尋常ではない。
その事実を口にすることすら忌避するような沈黙。レミリアが束の間瞑目し、やがて覚悟を決めて顔を上げる。月見の友人としてではなく、紅魔館当主としての真紅の瞳が月見をとらえる。空気が張り詰めている。まさか春がやってきて早々、異変でも起ころうとしているのではないかと嫌な思考が月見を絡め取り――
「咲夜が風邪を引いたの」
「……ん?」
「紅魔館の……大ピンチよ」
かぜ。
……風邪?
○
フランに引っ張られながら紅魔館へ向かう道中、もう少し詳しいところを聞いてみれば。
紅魔館を襲った未曽有の危機とは、やはり咲夜が風邪を引いたという話で間違いないらしい。事態が発覚したのはまだほんの三十分ほど前で、二人を起こしにやってきた咲夜の様子が明らかにおかしかったそうだ。声に張りがなく顔は赤く、布団を畳む手捌きにいつものキレがない。瞳の焦点がなんだかふわふわしていて、歩く姿は半分寝ぼけているように危なっかしい。
調子が悪いのかと尋ねてみるも素知らぬふりでかわされるので、フランが部屋の隅っこまで追い詰めて問い質し、起きたときから熱っぽいのだとようやく白状させた。
体温計で計らせてみると、37.6℃だった。
それで姉妹揃っててんやわんやの大慌て、咲夜をベッドに叩き込んで月見のところまで助けを求めにやってきたというわけだ。
「油断していたわ。まさかこんなことになってしまうなんてっ……」
「……」
ちょっとばかし大袈裟ではあるまいか。月見はついてっきり、紅魔館が崩壊しかねないような大事件でも起こったのかと。
しかし一方で、姉妹の心境も察せないではなかった。確かに十六夜咲夜は、妖精メイドを率いて紅魔館の雑事を執り仕切る司令塔であり、館にとって欠けてはならない重要な存在だろう。けれど二人が言いたいのはそんなことではない。咲夜は二人の、他では絶対に代えが利かない唯一無二の家族なのだ。
人間の体は、妖怪とは比べ物にならないほど脆弱で儚い。たかが風邪と侮って万が一のことがあれば、あっという間に取り返しがつかなくなってしまう。そうなってからいくら大慌てしたって遅いのだ。
そう考えれば、家族の身を本気で案じる二人にどうして呆れることができようか。
「咲夜、これくらい平気だって働こうとして……月見からも言ってあげて、たぶん月見の言うことなら聞くから!」
月見の腕を一生懸命引っ張って先導するフランは、今にも日傘を投げ捨てんばかりの勢いだった。長閑な春の空を突風のように駆け抜けて、月見は息つく暇もなく紅魔館に到着した。
門のところでは、いつもと変わりなく美鈴が番をしていた――のだが、そんなのお構いなしにフランは月見を引きずっていき、
「おはよう美鈴、お邪魔するよ」
「あはは、頑張ってくださーい」
と、手短にそれだけ挨拶するのが精一杯だった。苦笑混じりの美鈴に手を振って見送られながら館へ突撃し、掃除に勤しみ始めた妖精メイドたちを蹴散らすようにして走る走る。年寄りの月見には、フランの脇目も振らない爆走についていくのが少しばかりキツい。
このまま咲夜の部屋に辿り着くまで、ひたすら老骨に鞭を打たねばならぬかと思われた。
「……あーっ!?」
床を踏み鳴らして角を曲がった瞬間、フランが突然の大声とともにブレーキをかけた。ようやく一息つけた月見が前をよく見ると、見慣れた少女が緩慢な動きでこちらを振り返ったところだった。
「咲夜!? なにしてるのーっ!?」
ベッドに叩き込まれていたはずの咲夜が、普段と同じメイド服姿で、さも当たり前のように廊下を歩いていた。
これには後ろのレミリアも目を剥いた。
「あ……お嬢様、妹様。月見様も……」
「咲夜、あなたなにしてるのよ!? 寝てなさいって言ったでしょう!?」
「そうだよ! なんでじっとできないの!?」
妹と一丸になって強い剣幕で詰め寄るのだが、咲夜はまるで表情を変えない。……というよりも、表情を動かす、という脳の信号が体まで行き届いていないように見えた。
率直にいえば、ぼうっとしている。
「あの、本当に、大したことではないんです。なので今日の仕事を……」
「ダメに決まってるでしょ!?」
「そうだよ! 大人しくして寝てなさーいっ!」
「で、ですけど……」
遠目で見ても明らかに顔色がよくないし、いつもの瀟洒とした佇まいだって見る影もない。頭が働いていない状態で無理に立ち上がっているのだと、ひと目で読み取れてしまう有様だった。風に吹かれるだけで倒れそうだ。
「咲夜」
月見が名を呼ぶと、咲夜の肩が少しだけ跳ねた。
「つ、月見様……ええと、あの、本当に大丈夫なんです。心なしか、本調子ではない気がするだけで」
「咲夜、私はまだなにも言っていないよ」
あぅ、と咲夜が痛恨の表情で俯く。そこまで必死になって否定されてしまったら、疑うなという方が無理な話だった。
「熱があるんだろう? 永遠亭の風邪薬を持ってきたから、これを飲んで今日は休んで」
「あ……じゃあ、それを飲めば仕事をしても大丈夫でしょうか?」
笑顔でなにを言っているのかこの娘は。
当然、レミリアもフランも翼を逆立てながら怒った。
「だから、今日はゆっくり休んでなさいって何度も言ってるでしょ!? 私の命令が聞けないの!?」
「そうだよ! おくすりはね、具合悪いの誤魔化して仕事するためにあるんじゃないんだよー!?」
「う、ううっ」
ぐうの音も出ない正論であり、咲夜は肩を縮めて小さくなるばかりである。しかし、この期に及んでもかたくなに首を縦には振ろうとしない。なんとかして月見たちを説得して仕事をする方法はないかと、動きの悪い頭であれこれ考えているのが丸わかりだった。
具合が悪いのになぜ無理をしてでも働こうとするのか、理由はなんとなく想像ができる。咲夜はレミリアの従者、ひいては紅魔館のメイド長という立場に強い誇りと責任を持っている。そしてこの時期に風邪で体調を崩すというのは、日頃の自己管理がなっていなかった未熟の証左といえないこともない。そんな初歩的なミスで主人たちに迷惑を掛けるなど、完全かつ瀟洒を志す従者としてあってはならないと考えているのだろう。
気持ちはわかる――が、事実風邪を引いてしまっているのならば、はいそうですかと引き下がるわけにもいかない。
「無理をして万が一があったらどうするんだい。今のうちにしっかり休んで治すのが一番だろう?」
「……い、いえ、本当に大丈夫なんです。ほら、この通りで、」
恐らくその場で一度ふわりと回って、ちゃんと動ける姿を見せようとしたのだと思う。
「……ふあ、」
「おっと」
しかしあっさりとめまいを起こしてよろめき、月見が咄嗟に両手を伸ばすと、ちょうど胸のあたりで抱きとめる形になった。
みぅ、と咲夜が変な声を出した。
「ほら、ちっとも動けないじゃないか。とにかく一度ベッドに戻って。朝食は食べたかい?」
「……、」
返事がない。月見の胸元にもたれかかった恰好のまま、身動きどころか呼吸すら失って石化している。
「咲夜?」
「………………、」
やはり返事はない。横から咲夜の顔を覗き込んだフランが、あーあーとにんまり笑って意味深に肩を竦める。レミリアが小さくため息をつき、「みんなに咲夜は今日一日休みって伝えてくるわ。あとはよろしく」といずこかへ歩き去っていく。よろしくと言われても、なんでいきなり「はい解散ー」みたいな空気になっているのか、
「ぷしう」
と。咲夜が突然気の抜けた蒸気を噴いて、それっきり体から一切の力が抜けた。
慌てて抱き支えながら見てみれば、彼女はただでさえ熱っぽかった頬をより一層真っ赤にし、両目をぐるぐると回して気絶していた。それがあんまりにも唐突だったから、一瞬は気を失うほど具合が悪いのかと勘ぐってしまったけれど。
隣でフランがころころと笑い、
「あーあー、月見と突然密着しちゃったからぁー」
「……私のせいじゃないだろう?」
「うん、むしろグッジョブっ」
今の今まで大慌てしていたのに、なんだか打って変わって楽しそうなフランである。彼女のお茶目なサムズアップがどういう意味なのかはさておき、咲夜が大人しくなってくれたのなら今のうちだった。
「じゃあ月見、お部屋まで運んであげて」
「そうだね」
月見は咲夜の体を横抱きで抱えあげ、フランの背中に続いて歩みを再開する。
……きっと、レミリアが立ち去った理由もフランと同じなのだろう。
「まったく咲夜ったら、気を失ってなければいい思いできたのにー」
なんとも聞こえよがしな彼女のつぶやきは、一応、聞こえなかったということにしておいた。
○
なんだか、ものすごく幸せな夢を見ていた気がする。
夢の中で夢見心地になってしまうような、心臓が破裂寸前で、でもそれ以上に心地よくて安心できる夢だった気がする。目が覚めた直後も、心にじんわりとした温かさが残っているほどの。しかし悔しいことに、では具体的にどんな夢だったのかをちっとも覚えていなくて、目を覚ました咲夜を急速に襲ったのは言葉にもならない虚無感だった。
「……」
残っていた温かさがあっという間に冷めてしまって、とてもがっかりした。どうしていま目を覚ましてしまったのか、なんで夢の内容をまったく覚えていないのか、咲夜は布団の中で丸くなりながら不甲斐ない己をひとしきり責める。
それからはっとした。――いや待て、そもそも私はどうして布団で眠っているのか。
咲夜の記憶が正しければ、今日の自分はすでに一度目覚めているはずだ。起きたときから全身が砂を詰められたように重く、明らかに風邪を引いてしまっていたからよく覚えている。紅魔館のメイド長である自分が朝から仕事を休むわけにはいかないと思い、根性で着替えて朝食の支度をして、レミリアとフランを起こしにいった。けれど二人に様子がおかしいと気づかれてしまって、仕方なく具合が少しだけ悪いのだと告げたところ、どたんばたんの大騒ぎで問答無用のままベッドに担ぎ込まれた。
そこまでは覚えている。
ということはまさか、自分はそのままうっかり眠ってしまったとでもいうのだろうか。熱っぽい頭からさっと血の気が下がるのを感じて、咲夜は慌てて枕元の時計を
「――咲夜さん、気がつきました?」
「え、」
確認しようとして布団から顔を出すと、傍に小悪魔が立っていた。
完璧に虚を衝かれた。咲夜は時計に手を伸ばしかけた恰好のまま周囲を見回し、ここが間違いなく自分の部屋であることを確かめてから、
「えっと、……どうしてあなたがここに?」
小悪魔はパチュリーの使い魔なので、これという用がなければ大図書館から出てくることも少ない。
「咲夜さんが風邪を引いたって聞いて、パチュリー様が行ってあげなさいって。図書館のことは、今日はぜんぶパチュリー様が一人でやるそうです」
「……そう」
納得し、同時に咲夜はこの上なく申し訳ない気持ちに駆られた。――だから、ちょっと体調が悪い程度で仕事を休むなんて嫌なのだ。
咲夜は紅魔館のメイド長であり、料理洗濯掃除全般様々な雑事を引き受けみんなの生活をサポートする立場にある。そんな自分が風邪という初歩的なミスで仕事を滞らせ、挙句の果てにはサポートしなければならない相手を逆にわずらわせてしまうなんて、これを主客転倒といわずしてなんとするのか。
このままみんなに迷惑を掛けるわけにはいかない。咲夜は砂が詰まった体で重苦しく起き上がり、
「ごめんなさい、すぐに着替え」
「はいはいそう言うと思ってましたダメですよー。咲夜さんは今日一日安静です」
小悪魔に軽く肩を押され、それだけで咲夜の体は呆気なく布団に戻されてしまった。小悪魔とて大した力を込めたわけではなかろうに、自分の体がそれだけ弱ってしまっているのだと認めざるを得ない。
しかしそれでも、咲夜は寝てなんかいられないのだ。
「今日の仕事が、まだぜんぜん」
「妖精メイドだってなにもできないわけじゃないんですから、一日くらい大丈夫ですよ。ここで無理して、明日になっても明後日になっても治らない方が大変です」
「それは……」
小悪魔は間違っていない。所詮ただの風邪ではあるものの、いつも通り動けるくらい症状が軽いかと問われれば実のところそうではない。重いというほどではないにせよ、頭痛に寒気に倦怠感と、風邪としてはそれなりに症状が出てしまっている。体温計で計ったときは熱もあった。もしこれが自分以外の誰かだったなら、咲夜だって間違いなく一日安静を言い渡すだろう。
無理に仕事をしてこじらせようものなら、それこそ目も当てられない。
そんなのは、わかっているのだ。
「でも……っ」
咲夜の葛藤を知ってか知らでか、小悪魔は気楽に笑って、
「まあまあ。気にしちゃうのはわかりますけど、今日のところは休んでた方がオイシイと思いますよ」
「? どういう……」
咲夜の耳元に顔を寄せ、その笑みをちょっぴり意地悪に歪めると、
「月見さんに看病、してもらいたくないんですか?」
「!?」
顔中から湯気を噴いたかと思った。
「な、なんでそこで月見様が」
「え? だって月見さん……」
小悪魔は首を傾げ、少し考えてから、
「……もしかして咲夜さん、覚えてないんですか?」
「な、なにを?」
「動けなくなった咲夜さんをここまで運んだの、月見さんらしいですよ」
「――」
――すでに一度起きたはずの自分がどうしてまた寝ていたのか、やっとわかった。
というより、思い出した。
レミリアとフランによって一度ベッドに叩き込まれたあと、咲夜は二人がどこかへ行った隙にこっそりと抜け出したのだ。なんとなく体調が悪いのにも慣れて、案外いつも通り仕事ができるんじゃないかと思ったから。それで廊下を歩いていたら、月見を連れて戻ってきた二人に見つかってしまったのだった。
進退窮まった自分がなにをしたかといえば、ちゃんと動けるのだとアピールするためにふわりと回ってみせようとして、
あっさりバランスを崩して、
月見に抱きとめられて、
月見の固い胸元に、真正面から顔を埋めてしまった感覚、
「……………………」
記憶はそこで終わっている。
「思い出しました?」
「……えっと、その……私、たぶん、気を失っちゃってたから……」
「えー、じゃあなにも覚えてないんです? せっかくお姫様だっこだったのに?」
――ひょっとして、ものすごく幸せな夢を見ていた気がするのって。
体の温度が、ぐぐっと2℃くらい急上昇した。気がした。
気を失っていたのが残念でならないような、気を失っていて逆に助かったと安堵するような。自分がどんな表情をしているのかわからなくなって、咲夜は小悪魔の問いに返事も返せぬまま、布団を目元まで引き上げて隠れる他なかった。
しょーがないんですからー、と小悪魔は小さく吐息し、
「じゃあなおさら、今日のところは休まないとダメですね! 月見さんが優しく看病してくれますよっ」
「い、いえ、月見様にそんなことさせるわけには」
「いいから休んどけって言ってるんですよこのニブチン!!」
「!?」
小悪魔がいきなりブチ切れた。鋭い人差し指で咲夜を射抜き、尻尾を逆立てながら雷のような剣幕で、
「咲夜さん、あなたほんとに月見さんと距離縮める気あるんですか!? どっかの妖怪とか蓬莱人は風邪なんか引かないんですから、月見さんに看病してもらえるなんて咲夜さんの特権じゃないですか!! 黙って看病されときゃあいいんです!!」
「あ、あの、」
「前々から思ってましたが咲夜さんはぬるすぎですっ! いい子ぶるのはいいですけど、それだけだと本当にただの『いい子』で終わっちゃうんですからね!? ただでさえ奥手なんですから、こういう降って湧いたチャンスくらいちゃんと活かすんですっ! おーけー!?」
「……えっと、その、はい?」
小悪魔の頭からにょきにょき生えていた悪魔の角が、ふっと消えた。そんなイメージが見えた。
「わかればよろしい。それじゃあ、月見さんを呼んできますね」
「は、はい……」
たおやかに回れ右した小悪魔が部屋から出ていく。ちょっとした嵐が去ったごとく静かになる。小悪魔からあんな風に大声で叱られるなんて――よくわからないがたぶん叱られたのだと思う――、果たして今までに一度でもあったかどうか。咲夜は未だ呆気に取られ放心しているのを感じつつ、見慣れた天井を仰いで緩く吐息した。
「……本当に、休まなきゃダメなのかしら」
もちろん、自分の体調は自分が一番よくわかっている、客観的に見れば一も二もなく休むべきなのだろう。歩くのも辛いとまでは言わないけれど、歩くのを考えるだけで気が重くなる程度には具合が悪い。普段通りの手際で普段通りの仕事をこなすのは、さすがに不可能と言わざるを得ない。
しかし、まったく仕事ができそうにないかといえばそうでもない。
ならば、無理をしない範囲で少しくらいはやるべきではないか。だって自分は、紅魔館のメイド長で。みんなの生活をサポートしなければいけない立場で。誇り高き吸血鬼の従者として、完全かつ瀟洒でいなければならないのだから。
冬の真っ只中ならまだしも、春になっていまさら季節外れの風邪を引くなんて、どう見ても初歩的な体調管理のミスだ。そんなつまらない理由でみんなに迷惑を掛けるなど、許されることなのだろうか。
「しかも、月見様に看病してもらうなんて……」
のみならず紅魔館にとって恩人ともいえる人の手までわずらわせようものなら、咲夜はもう申し訳なさすぎて――
「――て、え? 月見様が、看病?」
ふと。
今更ながら。
ひょっとして今の状況、とんでもなく大変なことが始まろうとしてやいないか。『月見に看病される』という事の重大さが、ひと足遅れてようやく咲夜の目の前に立ち塞がってきた。
看病とは、要するに、あれだろうか。
相手が心細くないようなるべく傍にいてあげたり、消化のよいものを作って食べさせてあげたり、汗を拭いてあげたり着替えを手伝ってあげたりする――
「――……」
そういえば。
記憶が途切れる前の自分はメイド服を着ていたはずなのに、どうして目が覚めてみればパジャマ姿になっているのか、とか。
一体誰が着替えさせてくれたんだろう、とか。
いやいや普通に考えて小悪魔とか美鈴とかに決まってるでしょ月見様がそんなことするわけないでしょー!? と断固否定するのだが、頭はここぞと言わんばかりに勝手な妄想を繰り広げていく。ダメだダメだとわかっていても思い描くだけならタダというやつで、咲夜はその抗いがたい魔力に引き込まれてあっという間に
『咲夜』
「ふえぁい!?」
ドアのすぐ向こうから月見の声がして、咲夜はベッドから転げ落ちるかと思うほどびっくりした。
『……大丈夫かい?』
「だ、だいじょうぶですっ!!」
反射的に大丈夫と答えるがまったく大丈夫ではない。月見様が来たなら寝てるわけにはいかないから起きなさいと言う自分と、起きたら礼儀もへったくれもないパジャマ姿を晒して逆に失礼だから寝てなさいと言う自分と、いいから部屋に見られて困るものがないか一秒で確認しなさいと言う自分が三つ巴の大乱闘を始める。
すっかり気が動転して、時間を止めるなんて思いつきもしなかった。
『入ってもいいかな』
「……ど、どうぞ!」
しかも三人の咲夜の大乱闘を無視して、第四の咲夜が勝手に返事をしてしまった。なにやってるの私ー!? と心の中で絶叫するも時すでに遅し。
「やあ。具合はどうだい」
「は、はひ」
月見が部屋に入ってくる。他でもない、咲夜の部屋に入ってくる。心臓が大音量で暴走を始めて、頭の中はぐるぐるのぐちゃぐちゃになって、咲夜は布団を顔半分まで被った恰好のまま微動だにもできなくなってしまった。
首から上が煮え立っているかというほど熱い。緊張しすぎて呼吸もロクにできない。なにかの拍子に意識がふっと遠くなりそうだ。
少し前の自分も、きっとこんな風に倒れて月見に運ばれたのだろう。なんとも情けない限りではあるが、今は自己嫌悪に陥る時間も余裕もない。
「えっと、その、お世話になってます」
「うん?」
頭の中が大火事なせいで、よくわからない返事をしてしまった。会話すら成立させられない有様にさすがに危機感を覚える。
幸い、月見は上手い具合に解釈をしてくれたようで、
「ああ、私はお前をここまで運んだだけだよ。着替えさせたり汗を拭いたりしたのはぜんぶこぁだ」
「そ、そうですか」
やっぱり、月見が勝手にそんなことをするはずがなかったのだ。思っていた以上にほっとしたお陰で、少しずつ思考回路が復旧を始める。全身がほっこほこなのはあいかわらずだったけれど、どっちが上でどっちが下かもわからなかった状況はとりあえず脱出した。
「申し訳ありません、こんな恰好で」
「いいんだよ。しっかり休んでしっかり治さないとね」
月見がベッドのすぐ傍から咲夜を見下ろす。たったそれだけのことが、どういうわけか咲夜には身悶えしたくなるほど恥ずかしかった。風邪を引いているから仕方ないとはいえ、今の咲夜はメイド服ではないし髪だって解いている完全オフの姿で、しかも月見を――もとい男の人を――私室に入れるなんて生まれてはじめてなのである。今という状況の一から百まですべてが落ち着かなくて、お陰様で顔半分まで持ち上げた布団を一ミリも下げられそうにない。
私の部屋は、月見様から見るとどうなんだろう、と考える。
年頃の女らしくないつまらない部屋だと思う。咲夜は寒色系の落ち着いた色合いが好みなので、たとえばフランの部屋に散りばめられているような、ピンクやら黄色やらの可愛らしいアイテムはひとつも置かれていない。こういう味気のない女の部屋は、男の人にとってどう映るものなのだろう。
がっかりされたり、するものなのだろうか。
いまさら悶々としたところで、月見を部屋に招く日が来ると想像もしていなかった己が不明を恥じる他ない。
「ご、ご迷惑をお掛けしました……」
「なあに。二時間くらいは寝たと思うけど、体調は変わらないかい」
「はい……」
強いて言えば、月見が部屋に入ってきてから熱がひどい。おでこにやかんを置いたら沸騰させられる自信がある。
「そうか……。永遠亭の風邪薬があるから、なにか腹に入れられるといいんだけど。食欲はあるか?」
「……少しなら、食べられるかと」
「ならお粥でも作ろうか。それとも、なにか食べたい物はあるかな」
咲夜はごくりと緊張の生唾を呑み込む。――えっと、これ、本当に月見様に看病されちゃうのかしら。
もちろん、嫌というわけではないのだ。頭の片隅でほわんほわんと広がる都合のいい妄想がその証左である。とはいえもしこの妄想が現実になってしまったら、いかんせん今の咲夜にはハードルが高すぎるというか、精神的にぜんぜん休める気がしないというか、今度から月見様にどんな顔をして会えばいいんだろうとか。
「つ、月見様」
「うん?」
思いきって訊いてみた。
「あの、その。月見様が、看病……してくださるんでしょうか……?」
「そういうことになってるみたいだね。ちゃんと看病するまで帰らせないってフランが」
妹様ぁ。
「でも着替えとかはこぁにやらせるし、部屋も必要なとき以外は入らないから安心してくれ。男に入り浸られたら、お前も落ち着いて休めないだろう?」
そんなことないです、ひとりは心細いので一緒にいてください――嘘でもそう言えない自分が恨めしい。情けない話だが確かに、月見がずっと部屋にいたら咲夜は落ち着いて休めない。たぶんずっとどきどきしてずっと起きている。そんな状態で寝るのは、マラソンしながら寝ようとするようなものだと思う。
「それで、お粥でいいかな」
「あ、はい」
「了解。お昼になったら作って持ってくるよ。他にほしいものはあるかい?」
いきなり訊かれても思い浮かばなかった。特にないです、と小さく首を振る。
「そうか。それじゃあ、お昼にまた来るから」
「あっ……月見様」
踵を返そうとした月見を呼び止め、尋ねる。
「あの……お嬢様と妹様は、どうしていますか?」
いろいろと頭の整理が追いついていない状態でもそう質問できたのは、長年掛けて刻み込まれた従者としての精神故か。
あの二人には自分がついていなければならない、というほど自惚れてはいない。けれど咲夜は紅魔館のメイド長として、普段から二人の身の回りの世話を幅広く受け持っているから、今頃は自分の不在を迷惑に思っているのではないかと不安だった。
返ってきたのは、微笑ましい光景を思い出すような優しい一笑だった。
「二人なら、妖精メイドたちと一緒に掃除を始めたよ」
「え、」
「お前の代わりに今日は自分がメイド長をやるんだって、フランが張り切ってね。レミリアも巻き込んで、二人でメイド服まで着て跳ね回ってるよ」
予想外ではあったが、驚きはしなかった。月見やチルノなど紅魔館の外に友達ができてからというもの、フランは興味を持った物事になんでも挑戦できる度胸と活発さを手に入れた。レミリアもそんな妹に影響を受けてか、以前なら断固拒否していたようなことにも少しずつ理解を示し始めている。昨年の年末に、みんなで水月苑の大掃除を手伝ったのはまだ記憶に新しい。
「不安といえば不安だけど、一日くらいならなんとかなるさ。だから、お前はゆっくりお休み」
「……はい」
どうやら咲夜が気に病む必要はなさそうで、安心して。
それ以上に、複雑だった。
風邪なんか引いてみんなに迷惑を掛けるのは嫌だと思っていた。烏滸がましいかもしれないけれど、紅魔館の雑事を執り仕切る自分がダウンするのはそれだけ影響の大きいことだと思っていたのだ。けれどもしも、咲夜一人が休んだところで誰も迷惑に思わず、何事もなかったように紅魔館が回るのだとしたら。
迷惑を掛けたくないと思っていたのに。
そもそも誰も迷惑に思っていないのかもしれないと考えたら、部屋を後にする月見の背中を、礼も言えないまま見送るしかできなかった。
○
「さくや――――――――っ!!」
ばごん、と。
月見が出ていってからほどなく、咲夜がため息ばかりの悶々とした時間を過ごしていると、今度はフランが元気はつらつな大声とともに突撃してきた。その後ろにはレミリアの姿もあって、月見が言っていた通り、二人とも妖精メイドと同じメイド服を着ていた。
お揃いの帽子も今日は休暇を言い渡され、代わりにカチューシャが姉妹の髪を愛らしく引き立てている。二人が着ているというだけで、見慣れたメイド服も技術の粋を尽くした特注品のように見えてくるから不思議なものだ。似合っている、というべきなのかはわからないが、記念として写真を撮っておきたくなるくらいにとても可愛らしかった。
とてとてと傍までやってきたフランは、ベッドに両手をついて咲夜を覗き込み、
「咲夜ー、具合はどう?」
「ええと、あいかわらずです。申し訳ありません、こんな恰好で」
「風邪なんだから仕方ないわ。気にせず養生なさいな」
主人の気遣いにどう応えればいいのかわからず、咲夜は曖昧に片笑むだけで言葉を濁した。
「……月見様から聞きました。私の代わりに、館の掃除をしてくださってるって」
「うん! 今日はフランがメイド長ですっ」
むふーっとフランが得意げに胸を張る。その隣でレミリアは首を振って呆れ、
「なにがメイド長よ。みんなを振り回して混乱させてるだけじゃない」
「うるさいバケツの水ぶちまけたくせに!」
「あ、あれはフランがあっちこっち走り回るからでしょうがっ!」
「ぼけっと突っ立ってるお姉様が悪いんですーっ!」
「ま、まあまあ」
すでに何度か経験を積んでいるとはいえ、二人とも掃除に関してはまだまだ素人である。時たま紅魔館でお手伝いをしてくれるときも、あっちへ行けば床に物をブチまけ、そっちへ行けば妖精メイドが悲鳴をあげというのが珍しくない。
もっとも、掃除という名目の破壊活動を繰り広げるどこかのお姫様と比べれば、二人とも充分上手な方だった。さすがに掃除する前より汚されることはないはずなので、一日任せるくらいなら問題ない――と思う。たぶん。きっと。月見や小悪魔もいるし。
「お手間をお掛けして申し訳ありません」
「いーのいーの、たまにはこういうのも楽しいし! でも、早く治さなきゃダメだからね!」
「そうね。このままフランがメイド長やってたら、それこそ紅魔館が崩壊してしまうわ」
「むかーっ!」
月見が駆けつけてくれて心底安心したのか、レミリアにもフランにももう不安がる様子はない。いつも通り元気に口喧嘩するそんな姉妹を見つめながら、咲夜は。
――私が風邪を引いて、迷惑でしょうか。
そう問えば、二人ともそんなことはないと即答するだろう。けれどそれは、咲夜を気遣っての優しい嘘なのか、紛れもない本心なのかどちらになるのだろう。もしも前者であれば、二人に迷惑を掛けてしまって従者として本当に申し訳ない。もしも後者であれば、体調を崩したところで主人になんとも思われないような自分に、果たして従者としてどんな価値があるのかと考えてしまう。
私はなんて卑しいんだろう、と思う。迷惑になるのは嫌だし、迷惑にならないのも嫌だと思っている。なんて不完全で、なんて浅はかな従者なのだろうか。『完全で瀟洒』な理想の姿からかけ離れた自分を突きつけられて、思考が泥沼に沈んでいくのを感じる。
気がつけば、二人の口喧嘩が終わっていた。
「じゃあ、お昼は月見がお粥作るからね! 楽しみにしているようにっ」
「っ、」
いきなり現実に引き戻された。泥沼に沈んで風邪特有の寒気に包まれていた体が、変な汗を噴きそうになるくらい熱くなった。
「……や、やっぱり、月見様が作ってくださるんですか」
「うん。だって咲夜、月見の手作りがいいでしょ?」
「げほげほ!?」
なにもしていないのに咽る。フランはうむうむと意味深に頷き、
「月見が咲夜のためだけに作るお粥だからねー。水月苑でみんな一緒に食べるご飯とはワケが違うのよ」
「あ、あの、その」
薄々頭の中で思い描いていた妄想のひとつが、現実となって迫ってこようとしているのを感じる。月見の手料理自体は、もう何度も食べたことがある。レミリアやフランと一緒に水月苑へ行ったとき、昼食や夕食として出される料理がそれだ。
しかしながらあれは月見自身も含めたみんなのために作られた食事であるし、ほとんどの場合は咲夜もお手伝いしている。今回はそれとはワケが違う。月見が咲夜のためだけに誰の手も借りず一人で作り、かつこの世で咲夜だけが食べることを許された唯一無二の料理なのである。
たかがお粥と侮るなかれ。ぶっちゃけ言って、どんな料理かはまったくもって問題ではないのだ。
たった一杯のお粥だろうが豪華絢爛な懐石料理だろうが、月見がただ一人のためだけに作った手料理という、その意味。もしかすると、八雲紫や蓬莱山輝夜だってまだ味わったことがないかもしれない。
レミリアがゆっくりと息を吐いて、
「……ま、それが咲夜にとって一番なのはわかるし、なにも言わないわよ」
「あ、あうあう……」
なにも言えない咲夜の反応がよほど満足だったのか、フランは歯を見せて思いっきり笑った。
「せっかくなんだし、月見にあーんで食べさせてもらえばいいと思うよっ!」
「!?」
「また来るねーっ!」
レミリアの手を引っ張って、ドタドタとあっという間にいずこかへすっ飛んでいく。そのときにはすでに、咲夜の意識は爆発するがごとく広がる妄想の世界に絡み取られてしまっている。
やっぱり、そうなのだろうか。
そういう風に、なってしまうのだろうか。
ベッドの傍に月見の幻影が出現する。机から持ってきた椅子に腰かけ、膝の上には銀のトレーと柔らかい湯気をあげる丼がひとつ。和風にハマる姉妹のため最近買った漆塗りのスプーンで、そっと優しく一杯をすくう。ふう、ふう、と何回か息で冷まし、静かに運んでくれる先は咲夜の口元で。咲夜は胸の奥がむず痒い熱で疼くのを感じながら、躊躇いがちに口を小さく開けてあああああいけませんわ月見様そういうのはまだ私には早すぎるといいますかいえいえ決して嫌なわけではなくわたくしめにはちょっと幸せすぎるなあと思うんですほっほら私はいつも自分のことは自分でしているのでこんな風に誰かにしてもらうのがすごく、なんといいますか、
え、ならいいじゃないかって……。
……。
た、食べます。
…………。
では。
あ、
あーん、
『咲夜』
「ふひゃあああああああああ!?」
ドアのすぐ向こうから月見の声がして、やっぱり咲夜はベッドから転げ落ちるくらいびっくりした。
『ど、どうした?』
「なななっなんでもないですなんでもないですなんでもないですっ!?」
月見が目の前にいるわけでもないのに、必死に両手を振ってピンク色な妄想を頭の中から叩き出す。本日二度目。風邪を引いているせいなのかなんなのか、今日の咲夜はいささかスキだらけである。
『……ええと、お粥ができたよ。入って大丈夫かな』
「えっ――お、お早いんですね!?」
ついさっき、レミリアとフランが部屋を出ていったばかりである。お昼にしてはまだ少々早すぎるのではないか。
『うん、そうかい? もうお昼は過ぎてるけど』
「……えっ」
咲夜は枕元の時計で時間を確認した。
正午を二十分ばかり過ぎていた。
レミリアとフランが部屋を出ていってから、四十分くらい経っていた。
理解した瞬間、心臓がきゅっと小さくなったのを感じた。
「――あ、も、申し訳ありません、少し微睡んでいたみたいで。も、もうこんな時間だったんですね、あは、あはははは」
変な汗が噴き出た。――うそでしょ? 私、時間忘れて四十分近くもあんな妄想してたの?
それはひょっとして、どこかの鬼子母神様を笑えないなかなか気持ち悪いやつなのでは、
『なるほど。……それで、入っていいかい?』
「ど、どうぞ」
とにかく、咲夜は首を振って気を入れ直す。ドアが開き、銀のトレーに丼を載せた妄想通りの月見が入ってくる。ベッドの対面に置かれた咲夜の机を見て、
「椅子、借りていいかな」
「は、はひ」
いけない――なんというか、完全に妄想通りの流れになっている。咲夜の心臓が本格的に早鐘を打ち始める。操り人形が糸で引っ張られるように、よく考えもしないまま無意識に体を起こす。パジャマ姿を見られるなんて羞恥心は、それ以上の緊張で跡形もなく空の彼方に吹っ飛んでいた。
ベッドのすぐ脇にある、咲夜が普段小物置きとして使っているナイトテーブルを小気味よくトレーが鳴らす。月見が机から椅子を持ってきて、ゆったりと傍に腰掛ける。咲夜の心臓の鼓動が、また少しだけ強くなる。
「だいぶ久し振りに作ったけど、まあ、不味くはないだろうさ」
たまご粥だった。生まれてはじめて、たかがお粥に心の底から目を奪われた。
「それと、少し果物も。食べられそうだったら食べてくれ」
トレーの片隅にある果物を盛り合わせた小皿も、なんだか宝石箱みたいに美しく光り輝いて見える。
「さて、自分で食べられそうかい? 辛いようなら、スプーンは私が持ってもいいよ」
「……!」
肩が跳ねる。頭の中が自分の心臓の音だけで征服される。一世一代の究極の選択。七転八倒がごとき緊張を乗り越えて月見にお願いすることができるのか、咲夜の度胸と欲望への忠実さが試されている。
お願いしますと、ただ一言そう言うだけでいい。そうすれば夢が現実になる。きっと自分はそのために風邪を引く運命だったのだと、欲望の咲夜が声高に主張する。
でもまさかまさか月見に「あーん」なんてされようものなら、咲夜はよくわからない感情に全身を叩きのめされて死ぬかもしれない。そんなのは無理だと理性の咲夜が涙目で叫ぶ。
ここまでの思考時間はコンマ一秒、票数一対一の鍔迫り合い――すべての選択権はいまここにいる己へ委ねられる。
欲望が理性を背負い投げする。
理性が欲望に腕ひしぎ十字固めで反撃する。
十秒にもなろうかという短くも長い戦いの末、咲夜は大声ではっきりと答えた。
「――ひ、ひとりで食べられますっ!!」
「そうか。わかった」
○
「――咲夜さん、あなたどんだけヘタレなんですか? 月見さんに看病してもらう意味が半分くらいパーになっちゃったじゃないですか。ほんとやる気あるんですか?」
「ねえ咲夜ー、そんなんじゃいつまで経ってもなにも変わらないよー?」
「…………くすん」
その後自室にて、悪魔と吸血鬼にお説教されるメイドの姿があったとかなんとか。