ノイズ
「秋川。お前いま、俺のこと無視したろ」
講義棟の入口で、遠山隆二が肩を並べてきた。片手にコンビニの袋、片手にスマホ。額に汗が浮いている。
「無視してない」
「したね。生協の前ですれ違っただろ。俺、手ぇ振ったぞ」
隆二とは、大学に入って最初の講義で隣になってから、なんとなく一緒にいる。講義も昼飯も、気づけばだいたい隣にいた。向こうは友達が多いくせに、なぜか僕のところにも毎日のように寄ってくる。
だから、今みたいに肩を並べて文句を言われるのも、もういつものことだった。
「気づかなかった」
僕はそれだけ言って、鞄を肩に掛け直した。これ以上この話を続けるつもりはない、という意味も込めて、そのまま講義棟へ向かう。
けれど隆二は引き下がらなかった。
僕の半歩前へ回りこむと、後ろ向きのまま歩きながら、顔の横で三本の指を立ててみせる。
「三メートルだぞ」
「三メートル先の人間の顔を、いちいち確認しないだろ普通」
「するが?」
隆二が本気で不思議そうな顔をするので、僕は黙って自動ドアをくぐった。
冷房の効いた空気が、汗ばんだ首筋に刺さる。六月の半ばにしては暑すぎる朝だった。
「お前さ、昔から人の顔見ねえよな」
エレベーターを待ちながら、隆二が言う。悪気はない。この男に悪気があったことは、たぶん一度もない。
「……そうかな」
「そうだよ。俺と喋ってるときも、だいたい俺の鎖骨あたり見てる」
僕は反射的に、隆二の鎖骨から目を逸らした。
人の顔を、長く見ないようにしている。いつからそうなったのかは、自分でもよく覚えていない。たぶん中学のどこかだ。
別に、人と目を合わせるのが苦手なわけじゃない。ただ、顔を見るということ自体を、いつの間にか避けるようになっていた。
意味があるのかと訊かれれば、たぶんない。
それでも、何年も続けた癖というのは、そう簡単には消えてくれない。
理由は、この一年半、隆二にも一度も話していない。
三階でエレベーターを降りると、廊下が学生で詰まっていた。一限の必修は文学部の二年生が全員同じ教室に押しこまれるので、この時間だけは毎週こうなる。
隆二が急に立ち止まって、僕の肘を掴んだ。
「おい、いたぞ」
「なにが」
「桃井さん」
隆二が顎で廊下の先を示す。僕はそちらを見なかった。人の背中の高さのあたりに視線を置いたまま、前へ進む。
桃井怜奈。同じ学科の、同じ学年。名前は知っている。顔も、たぶん知っている。でも僕は、この一年と少しのあいだに彼女と一言も交わしたことがなかった。
同じ教室に毎週いて、それでも一度も口をきかない人間というのは、大学にはいくらでもいる。
「俺、去年一回だけ話しかけたことあるんだよ」
「へえ」
「語学が一緒でさ。ほら、桃井さんっていつも本を読んでるじゃん。だから、『桃井さんって何読んでるの』って訊いたんだよ」
「うん」
「『人の本を覗かないで』」
僕は思わず笑ってしまった。
「笑うなよ。けっこう傷ついたんだからな」
「いや、ごめん。その人らしいのかもしれない」
「らしいって、お前知らないだろ」
「知らない」
知らない。本当に、何も知らなかった。




