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ベラドンナ ―光を捨てた魔王が、最期の場所として選んだ軍師の腕の中―  作者: 佳月


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 私はペンを置き、目の前の彼女を見つめた。

 セレスティアは今、私が処理した魔界領地の報告書に目を通し、隙のない手際で修正を加えている。まるで戦場の布陣を敷くような、迷いのない指示だった。


「ここをこうしなさい。……無駄が多いわ。ルシファー様、あなたはそんなものではありませんでしょう?」


 彼女は冷徹に言い放つが、その視線には私を信頼し、使いこなそうとする執着が宿っている。

 私は小さく息をつき、椅子から立ち上がった。彼女の背後に回り、その肩に手を置くと、彼女は一瞬だけきょとんとした表情を見せたが、すぐに「続きを」と促すように目を閉じた。

 執務室に置かれた大きなアンティークの椅子にセレスティアを座らせ、私はその後ろに回った。柔らかな髪が指の間を滑り落ちる。

 この時間は、一日の終わりに訪れる唯一の静寂だ。私は彼女の長い髪を丁寧に梳きながら、あのはじめて出会った夜を思い出していた。



 魔界の辺境、絶え間なく降り続く毒を含んだ雨。

 天界の光を焼き捨て、ルシファーという名に生まれ変わり、妹とソロン魔王が聖域に閉じこもったのを見届けた後、ただ冷たい魔界の中を宛もなく彷徨っていた。

 その時、傘を差した一人の女性が目の前に現れた。セレスティア。今の社交界の女王として君臨する彼女との、最初の出会いだった。


「……随分と無様ね。元・天界の英雄が、そんなところで彷徨っているなんて」


 彼女は私の顎を強引に掴み上げ、瞳の奥を射抜くように覗き込んだ。今の彼女には前世の記憶などない。だが、その瞳にはかつて私が戦場で仰ぎ見た、冷酷で完璧な軍師の輝きが宿っていた。


「無駄死にだけは許さないわ。私の指揮下に入りなさい。あなたの『力』を存分に使ってあげましょうか」


 その口調、論理の組み立て、容赦のない命令。私は全身に戦慄を覚えた。かつて戦場で、私が無謀な突撃をしようとするたびに、彼女が私の襟首を掴んで吐き捨てたあの台詞と、まったく同じリズムだったからだ。

 確信した。魂が、私の前世の記憶をなぞっている。


「対価は」

「あなたという男の全て。……今夜から、私の愛人として過ごしなさいな」


 彼女は傲慢に笑った。私はその時、この女に一生を捧げることを決めた。

 彼女が私を「かつての彼女」として愛しているわけではないと知りながらも、この「支配される関係」こそが、私にとって唯一の救済だと理解したからだ。



 手の中の髪の感触が、夢ではない現実へと私を引き戻す。

 彼女は前世の記憶がない。だからこそ、私を「過去の亡霊」ではなく、今この手元にある「最高の所有物」として存分に飼い殺すことができる。


「ルシファー様。……髪を梳く手が、少し止まっていますわよ」


 セレスティアは振り返らずに、不敵な笑みを浮かべた。その傲慢な態度は、あの出会いの夜から一日たりとも変わっていない。


「……失礼。君の指示が、あまりに昔の誰かと重なったのでね」


 私はあえて「誰か」とぼかして言った。セレスティアは振り返らず、鏡越しに私を冷ややかな瞳で見つめる。


「昔の誰か、ですか。……ルシファー様、私という唯一無二の存在を前にして、別の誰かを重ねるなんていい度胸ですわね」


 彼女は悪戯っぽく笑いながら、私の方へ振り返る。記憶のない彼女にとって、私の過去などどうでもいい。ただ、自分の所有物がよそ見をすることだけが許せないのだ。


「教育が足りないようですわ。私以外を見ることなどないように、今夜は寝室でたっぷり時間をかけて躾け直して差し上げましょうか」


 彼女の指が、私の手に重ねられる。私はその冷たい指先に口づけ、ひざまずいた。

 彼女を支配しているつもりが、私は最初から、この記憶のない女王の手のひらで踊らされ続けているのだ。


 寝室へ足を踏み入れると、執務室の冷徹な空気とは異なる、濃厚な甘い香りが二人を包み込んだ。

セレスティアは部屋の中央で私に向き直ると、ゆっくりとドレスの肩紐を指先で滑らせた。


「……表の魔王様、と言っても。私の前ではただの『愛人』であることに変わりはありません」


 彼女は私を誘うように歩み寄ると、私の胸元の勲章を、まるで戦利品を剥ぎ取るかのように一つずつ外していく。


「あなたがソロン様の代行として、魔界の表舞台でどれほど威厳を保とうとも。私の寝室で、この手の中にいるあなたが、一番真実に近い」


 私は彼女の腰を引き寄せ、その細い首筋に顔を埋めた。

前世で教官だった彼女の香りが、記憶の奥底を激しく刺激する。あの時、戦場で背中を預け合っていたときとは全く違う、支配と従属の香り。


(――ああ。やはり、私はどうしようもなく君に帰ってくる)


 かつてミカエルとして天界にいた頃、私は一度たりとも彼女に背いたことはなかった。そして今、ルシファーとして魔界の王の仮面を被っていても、私の魂は彼女という指揮官の号令を待ち続けている。


「……君は、本当に容赦がない」

「愛を囁くより、指図をする方がお好きでしょう? あなたは」


 彼女は私の耳元でそう囁くと、私の額に唇を押し当てた。

 それは甘い抱擁というよりも、自分の所有物に刻印を押すような儀式に近かった。


「私があなたを所有し、私があなたを磨き上げ、私があなたを世界で一番美しい魔王に仕立て上げる。……だから、一生私の傍から離れてはだめよ、ルシファー様」


 彼女の瞳には、記憶がないからこその、残酷なまでの純粋な独占欲が宿っている。

 かつての教官が、戦場で私を守るために命を賭けたように。今の彼女は、私を「自分のもの」として閉じ込めるために、そのすべてを使おうとしている。

 私は彼女をベッドへと押し倒した。

 真の魔王が聖域で眠りにつく間、私はこの寝室で、女王の指揮下にある「最も幸福な敗残兵」として、永遠の夜を貪り続ける。



 魔界の冬は長く、そして過酷だ。真の魔王ソロンが聖域に隠遁して以来、魔界の秩序を維持しているのは、実質的に「表の魔王」である私ルシファーと、その背後に控えるセレスティアの屋敷から出る指示書だった。


 しかし、権力というものは常に腐敗の芽を孕んでいる。


 ここ数週間、古参の魔族貴族たちが不穏な動きを見せていた。彼らは、堕天使に過ぎない私を「真の魔王の器ではない」と見なし、この機に乗じて領土の割譲や商権の再編を要求してきていたのだ。

 執務室に置かれた大きなアンティークの机には、貴族たちから届いた無礼な書状の山が積み上げられている。


「……またしても、ベルゼブ公爵の派閥が難癖をつけてきています。ルシファー様、あなたが直接手を下せば簡単でしょうが、それは彼らの思う壺ですわね」


 セレスティアは、私に背を向けて優雅に紅茶を啜りながら言った。彼女の声には、焦燥感など微塵もない。それどころか、まるで退屈な盤面を眺めるチェスプレイヤーのような余裕があった。


「彼らは私を傀儡の魔王を立てようとしているのだろうね。君はどうしたい?」


 私はペンを置き、彼女の背中を見つめた。彼女が振り返る。その瞳には、前世の記憶など欠片もないにもかかわらず、戦場を支配したあの冷徹な軍師の輝きが宿っている。


「排除など必要ありません。……彼らに、ご自身の愚かさを自覚させてあげましょうか」


 彼女は手元の書類を指先で弾き、私に放り投げるようにして命じた。


「明日の夜会で、あなたが彼らの経済的基盤である『魔晶石の輸出権』を、この書類に記された弱みを突いて完全に掌握してしまいなさいな。彼らは自分たちの無能さを突きつけられ、二度と公の場で口を開けなくなるはずです」


 その論理の組み立て、容赦のない攻撃の形。かつて戦場で、私が命を賭して実行していた戦略そのものだった。

 私の鼓動が、早鐘を打つ。彼女は「今の彼女」として私を動かしているつもりだろうが、その采配は、私の魂に深く刻まれた「かつての彼女」のそれと寸分違わない。


「……光栄だ。君の指示通りにしよう」


 私は彼女の足元に跪き、その冷たい指先に口づけを落とした。

 この女に操られるためなら、魔界の貴族など何人血祭りにあげても構わない。私の内側で、かつての英雄の血が、狂おしいほどの情熱で沸き立っていた。


「よい返事ね。……さあ、ルシファー様。私の兵士として、華麗に勝ち抜いていらして。……帰ってきたら、ご褒美を差し上げましょう」


 彼女は私の顎を指でくいと持ち上げ、悪戯っぽく、しかし冷酷に微笑んだ。

 その微笑みこそが、私にとっての唯一の聖域であり、逃れられない鎖だった。


 夜会は、魔界の貴族たちがルシファーという「堕天使」を追い落とすための舞台として用意されていた。

 彼らが仕掛けた罠は単純。宴の最中、酒に高濃度の魔力抑制剤を混ぜ、ルシファーが酩酊し、失言や不体裁を晒す隙に、その「不適格さ」を弾劾するというものだ。

 しかし、彼らは一つだけ計算を誤っていた。私が、セレスティアという「軍師」の支配下にあるということを。


「……ルシファー様。今夜は少し、彼らに好きにさせて差し上げなさい。泥酔したふりをして、彼らの悪意をすべて吐き出させるのです」


 夜会直前、セレスティアから受けた密かな指示。彼女は戦場の霧の中を見通すかのように、敵の次の一手を読み切っていた。

 宴が始まると、貴族たちは露骨に私を挑発してきた。差し出される毒入りの酒。私は指示通り、それを煽り、わざと視線を揺らして「堕天使はやはり堕ちた存在だ」と嘲笑を誘う。


「見ろ、あの無様な姿を。魔王の代行などと呼ぶには、余りにも滑稽だ」


 ベルゼブ公爵が周囲の貴族たちと声を潜め、私を指さして笑う。彼らが私の弱みを確信し、弾劾の準備を整えたその時だった。

 会場の空気が、冷ややかな重圧によって一変した。

 セレスティアがゆっくりと会場の中央へ歩み出てきたのだ。彼女は私の隣に立つと、公爵たちが仕掛けた罠が、逆に彼ら自身の首を絞めるよう誘導を始めた。


「ベルゼブ公爵。……先ほどから、私の『愛人』に随分と熱心に秋波をおくっているのね」


 彼女の冷徹な眼光に、公爵の顔から血の気が引く。

 セレスティアは私の持っていたグラスを奪い取ると、その液体を一滴、床に垂らした。即座に紫煙が上がり、床石が腐食する。


「この毒は、あなた方の派閥が独占する『禁断の魔晶石』の成分ですわね? なぜ、宴の席にそれが混入しているのかしら。……まさか、魔界の王の代行を毒殺しようという不敬を働いたのでは?」


 会場に戦慄が走る。彼女は最初から、彼らが罠を仕掛けることを見越して、その罠自体を「反逆の証拠」として用意させていたのだ。


「ルシファー様。……『兵士』としては少し不甲斐ない姿でしたが、今は『魔王』として、彼らの愚行に裁きを下して差し上げなさい」


 彼女の命令は、かつて私が聞いたどの号令よりも甘美だった。

 私は酔ったふりを止め、冷酷なまでに研ぎ澄まされた魔力を解き放つ。ベルゼブ公爵の足元に強大な圧をかけ、彼がその場に跪くよう強制した。


「ベルゼブ公爵、貴殿の魔晶石の独占権。……明日から、私がすべて管理する」


 彼は言葉を失い、恐怖に震えることしかできない。セレスティアは私の肩に手を置き、まるで勝利した司令官のような満足げな微笑みを浮かべた。


「お見事ですわ、ルシファー様。……さて、宴の続きを楽しみましょうか。この汚らわしい貴族たちの悲鳴をBGMに」


 私の正体を知り、私を軽んじていたはずの貴族たちは、今や女王の采配一つで地に伏している。私は彼女の支配に身を任せながら、これが「かつての戦場」よりも遥かに、背徳的で心地よい勝利であることを確信していた。


 夜会の喧騒と、貴族たちの断末魔のような悲鳴を背に、私たちは屋敷へと戻った。

執務室のドアが閉まった瞬間、セレスティアは振り返り、その冷徹な女王の仮面を脱ぎ捨てるように、ふわりと私に微笑みかけた。


「……お疲れ様でした、ルシファー様。期待以上の働きでしたわ」


 彼女は私を寝室へと手招きする。私を支配し、飼いならしているはずの彼女だが、今その瞳に浮かんでいるのは、戦利品を愛でるような純粋な歓喜だった。

 寝室に入ると、彼女はドレスの重たい装飾を一つずつ外していく。無防備な背中を晒し、彼女はベッドの縁に腰掛けた。


「貴族たちが震え上がる様、ご覧になりましたか? あんなにも滑稽で、愛おしい」


 私は彼女の背後に膝をつき、肩にかかる艶やかな髪を梳き始めた。

 先ほど、夜会で見せた軍師としての鋭利な眼差しとは違う、私だけに見せる甘い隙。私は彼女の肩に顔を埋め、毒と香水の混じった甘い匂いを深く吸い込む。


「……君の采配があったからだ。私はただ、君の示した布陣の上を歩いただけに過ぎない」

「ふふ、謙遜は無用ですわ。……私の兵として、もっと褒めて差し上げましょうか」


 彼女はゆっくりと振り返り、私の首筋に手を回した。

 その細い指先が、堕天使である私の肌の上を、まるで戦場の地図をなぞるように這い回る。記憶のない彼女が、なぜこうも私の「急所」を心得ているのか。その不思議な一致に、私は抗いがたい背徳感と甘美な痺れを覚えた。


「望むご褒美は、ありますか?」


 彼女の問いに、私は自分の欲望を隠さず、彼女の唇を指先でなぞった。


「君の管理下に置かれることだ。……私が何者であろうと、今ここで私が君の『所有物』であると、証明してくれるか?」


彼女は愉悦に目を細めると、私の首元に深く口づけを落とした。

それはまるで、所有者が自分の持ち物に刻印を押すような、独占欲に満ちた儀式だった。


「ええ、飽きるまで……一生かけて、教えて差し上げますわ。あなたは私のもの。誰にも渡さない、私の最も美しい『魔王』なのですから」


 記憶の海に溺れかけた思考を、彼女の甘い吐息が引き戻す。

 今夜もまた、私は「元・天界の英雄」という仮面を捨て、ただ彼女の所有物として、この閉ざされた檻の中で夜を明かすのだ。


 寝室の柔らかな灯りの中で、彼女は私に寄り添い、無防備に微笑んでいた。夜会の冷徹な女王の影はどこにもない。しかし、その指先が私の髪を弄ぶ仕草一つひとつが、かつて戦場で負傷した私を無言で介抱してくれたあの時の彼女と重なってしまう。

 私は彼女の胸元に顔を預け、震える吐息を殺した。



 天界の軍勢が崩壊寸前だった、あの灰色の戦場。私の肩には深手があり、視界は赤く染まっていた。


「ミカエル、その姿勢を崩してはだめよ。……貴方が倒れたら、この軍は終わりなのよ」


 司令官だった彼女は、汚れも厭わずに私の隣に膝をつき、戦火の中で冷ややかに、しかし誰よりも確かな声音で命じた。

 私はその言葉に導かれ、何度でも立ち上がった。彼女の冷徹な采配こそが、私の魂の唯一の支えだったのだ。


「……死んではだめ。私の許可なしに、貴方の命を消滅させることは許さないわ」


 そう言って、彼女は震える私の手を取り、戦場を統べる力を私に預けた。あの時の彼女の手の温もりと、傲慢なまでの所有欲が、今も私の記憶に焼き付いている。



 現在。私の頬を撫でるセレスティアの指先は、戦場の泥の代わりに、魔界の甘い香水の匂いを纏っている。


「……何をそんなに悲しげな顔をしているのです? 貴族どもを叩き潰したばかりで、まだ物足りないのかしら」


 彼女は私の視線を覗き込むように、不敵に眉を上げた。今の彼女は記憶を持たない。あの戦場の司令官ではない。けれど――。


「……いいえ。君の采配が、あまりにも完璧だったから。……昔、私の戦いを見守ってくれていた誰かを思い出してね」


 私はわざとらしく、しかし本心を混ぜて答えた。すると彼女は、面白いものを見るように目元を細め、私の顎を強引に引き寄せる。


「昔の誰か、と比べるなんて、随分と余裕があるのね」


 彼女は唇を重ね、私の中の「ミカエル」としての記憶を、今の支配者としての快楽で塗り潰すように深く口づけた。


「その『誰か』とやらよりも、今の私があなたをどう支配し、どう飼い殺しているか。……それを、その身体と魂の隅々にまで刻み込んであげましょうか」


 彼女の言葉は、戦場の命令と同じ響きを持っている。

 前世で守ってくれた司令官としての彼女も、今世で私を支配する女王としての彼女も、その本質は何一つ変わっていない。私は彼女の手の中で、再び運命を選び取っていた。


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