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ベラドンナ ―光を捨てた魔王が、最期の場所として選んだ軍師の腕の中―  作者: 佳月


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プロローグ



 魔界の社交界において、ルシファーという名は「絶対的な秩序」の象徴だった。

 豪奢なシャンデリアが揺れる舞踏会場の中心で、黒の軍服を模した正装に身を包んだ彼は、まるで冷たい彫像のように立っている。周囲には婚約の座を狙う令嬢たちが群がっているが、その瞳に宿る熱狂さえも、彼にとってはただの塵芥に過ぎなかった。


「……皆様、魔王様の代行者であるルシファー様に、これ以上の無礼は控えるべきかと存じますわ」


 氷を溶かすような、しかしどこか甘い声が会場の喧騒を切り裂いた。

 扇を片手に、夜の闇を纏ったかのような深紅のドレスを揺らし、一人の令嬢が進み出る。セレスティア。この社交界の女王であり、誰もがその完璧な振る舞いにひれ伏す公爵令嬢だ。

 ルシファーの双眸が、初めてわずかに細められた。

 彼は令嬢たちを冷たく追い払うと、セレスティアの背後に回り込み、耳元で低く囁いた。


「相変わらず、私の領域に土足で踏み込んでくる。君の社交術は、いつ見ても冷徹だ」

「あなたを守るためですわ、ルシファー様。……それに、あの令嬢たちの浅薄な計算など、見ていて胸が悪くなるのです」


 セレスティアは振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。その指先が、何気なくルシファーの胸元の勲章を整える。

 その刹那、ルシファーの心臓が不自然に跳ねた。

 まるで、忘れていたはずの記憶が、指先を通じて脳裏に逆流してくるような錯覚。


(――無理をしすぎですよ、ミカエル)


 誰の言葉だったか。――いや、違う。そんな名前で私を呼んだ者は、もういないはずだ。

 彼はセレスティアの手首を掴み、人目を忍ぶバルコニーへと強引に連れ出した。月明かりの下、二人の距離は息がかかるほどに詰まる。


「……セレスティア。君は、自分のしていることが分かっているのか?」

「ええ。あなたを一番効率よく、魔界で飼い殺す方法を考えているのですよ」


 彼女は迷いなく、彼の首元に細い指を這わせる。それは女王の戯れか、それとも――魂が求めた渇望か。


 「ルシファー様。……あなたは、時折とても悲しい目をされますね。まるで、大切な何かを置き忘れてきたような」


 ルシファーの瞳が大きく揺れた。彼女は今、何の衒いもなく、彼が一番隠したかった内面を射抜いたのだ。

 彼は衝動的にセレスティアの手首を掴み、人目を忍ぶバルコニーへと連れ出した。月明かりの下、二人の距離は息がかかるほどに詰まる。


「……セレスティア。君は、自分のしていることが分かっているのか?」

「いいえ。分かりません」


 彼女は首を傾げ、悪戯っぽく笑った。だが、その瞳だけはまっすぐにルシファーを射抜いている。


「ただ、あなたの隣にいると、こうするのが一番正しい気がするのです。……まるで、昔からずっとこうしてあなたを導いてきたかのように」


 それは無意識の戯言か、それとも魂の記憶か。

 ルシファーは彼女の瞳の奥に、かつて天界で背中を預け合っていた司令官の面影を重ね、喉の奥を鳴らした。


「……君の言葉は、時折ひどく過激だ。まるで、私を躾け直そうとしているようだよ」

「あら。そう聞こえましたか?」


 セレスティアは迷いなく、彼の胸元に細い指を這わせる。彼女自身、なぜ自分がこれほどまでに彼を制御できるのか、その理由など知らない。ただ、そうすることが彼という男を最も輝かせる方法だと、本能が知っているだけだ。


「ならば、お望み通りに。――私だけがあなたの全てを把握できる場所へ、ご案内しましょうか?」


 夜のバルコニーに、冷たい魔界の風が吹き抜ける。

ルシファーはセレスティアの指が触れる自分の胸元を見つめ、どこか諦念に満ちた笑みを浮かべた。


「君はいつもそうだ。……自分がどれほど恐ろしいことをしているか、微塵も自覚していない」

「恐ろしい? 買い被りですよ、ルシファー様。私はただ、無能な貴族たちに囲まれて消耗しているあなたの時間を、有効に活用して差し上げているだけです」


セレスティアは扇を閉じ、その先端でルシファーの顎を軽くすくい上げた。

今の彼女には、かつて軍の最高司令官であった彼を、鬼軍曹として叱咤していた記憶などない。しかし、その指先の迷いのなさは、かつて戦場ですべてを指示していた彼女そのものだ。


「……有効活用、か。私の時間を、君の玩具にするということか?」

「玩具だなんて。……私の大事な『管理対象』ですわ」


彼女はそう言いながら、ルシファーのネクタイをゆっくりと手繰り寄せた。

その仕草に、ルシファーの理性がわずかに軋る。もしここで、この女にすべてを明かしたら。かつて自分を指導した彼女の魂に、今のこの泥濘のような魔界の現実を背負わせたら――。


(……いや。それは許されない)


彼はセレスティアの手を包み込み、そのまま自分の額に押し当てた。

冷たい魔界の風の中に、懐かしい天界の残り香が混ざるような錯覚を覚える。


「いいだろう、セレスティア。君が私を管理したいというのなら、そうさせてやろう」


ルシファーは彼女の手の甲に深く口づけを落とした。

その瞳の奥には、セレスティアには到底見えない、千年前の光景が焼き付いている。


(……君は、私より先に逝ったはずだ)


天界の聖域。二人が並んで戦ったあの戦場で、彼女は自分を庇い、その輪郭を光の粒子へと変えて消えていった。あの時、彼女は最後に何と言ったか。思い出そうとすればするほど、彼女が消滅した時のあの冷たい感覚が、今のルシファーの胸を焼く。

今のセレスティアは、彼女ではない。

魂が同じであっても、彼女は「消滅」という二度と戻れない扉の向こうへ行ってしまったのだ。

だからこそ、ルシファーにとって、目の前のセレスティアは「手に入れてはならない、だが離してはならない、残酷な奇跡」なのだ。


「ただし、忘れるな。一度でも私の手綱を放せば、今度は私が君を……世界の終わりまで逃がさない」

「ふふ、望むところですわ。……さあ、ダンスの時間ですよ、ルシファー様。今夜はまだ、誰にもあなたを渡す気はありませんから」


セレスティアは悪戯っぽく微笑み、再び社交界の喧騒へとルシファーを誘った。

彼女が去った後、バルコニーの影から、ルシファーを監視するような天界の使い――偵察用の幻影が微かに消え去るのを、ルシファーは見逃さなかった。

彼が「ルシファー」という仮面を被り、セレスティアという「檻」の中に沈んでいくのを、天界が遠巻きに注視し始めている。


魔界の夜は深い。

 無自覚な女王と、過去に囚われた代行者。その駆け引きは、まだ始まったばかりだった。


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