第九章 第二五節
眼前に広がる光景から受ける衝撃に、ノイシュタットの商人ダミアンはただただ立ち尽くしていた。
燃えている。
これまで苦心して築き上げてきた商館が、無惨にも燃えていた。完全に炎に包まれたそれを見上げることしかできず、もはや声を上げることすら忘れていた。
――まさか、まさか……
その言葉ばかりが心中で幾度となくくり返される。これから起こるであろう混乱をある程度は想定していたものの、現実はそれを遥かに上回り、無慈悲にもすべてを圧倒していく。
周囲で暴れ回る暴徒の数は減りつつあるものの、未だ混乱の収る気配はなく、商館の多く立ち並ぶこの区画での火災はなおいっそうその激しさを増していた。
「ダミアン様ッ!」
自身を呼ぶ聞き慣れた声に、はっとして振り返った。
そこには、息を切らして駆け寄ってくる若い女性がいた。
「イルマ! ドミニクたちはどうだった!?」
「まだ見つかりません! どうやら、商館には立ち寄ってないみたいなんです! 部下の者たちはすでに逃がしましたが……」
「……そうか、きっと勝手なことをしたのがばれないように、宿に泊まったんだろう……」
「申し訳ありません。私がもっと早くに到着していればなんとかなったんですが、関所で共和国の間者ではないかと疑われてしまって……」
あわてていたのがいけなかった。衛兵から頭ごなしに言われてかっとなり、ついくだらない騒動を起こしてしまった。
だが、ダミアンはかぶりを振った。
「イルマが謝る必要なんてない。すべての責任は私にある」
「ダミアン様?」
「そもそも、この騒動が起きた原因の半分は我々にあるんだ。自分の身内だけ無事を祈るなんて虫がよすぎたかもしれん」
「そんな……」
「もちろん、あきらめたわけではないよ。今からでもまだ間に合うかもしれない――いや、きっと間に合わせる。だから、イルマも手伝ってくれ」
「もちろんです。でも、どうしますか? この混乱の中で二人を捜し回っても、見つかるかどうかわかりません。それどころか、ここにいるかどうかさえ――」
「いや、きっとここにはいるだろう」
「どうして?」
「ドミニクは私の子だ。こんな状況になったからこそ、館のみんながどうなったか確認に向かうはずだ。ルークは止めるだろうが、おそらくあの子は聞きはしない」
「じゃあ、比較的ここの近くにいると?」
「たぶん、そのはずだ。だが、これだけのことが起きているとなると、子供の力ではどうすることもできない。周りに流されてきっと、どこかに――」
「とにかく、手分けをして捜しましょう。時間がありません」
「そうだな、こうして話している時間も惜しい」
目に見えて兵士の数が増えてきた。これから沈静化に向かうのかもしれないが、一時的にごたごたが増える危険性もかなりの程度あった。
「では、ダミアン様は市街の西側をお願いします。私が城のほうを見てきますので」
「だが、あちらのほうはなぜか荒れているぞ?」
「今はそうですが、ドミニクとルークは賢い子です。もし自分の力で打開することが無理だと悟ったのなら、もっとも安全な場所へ向かったはず」
「なるほど、その可能性はあるな。だが、いくら君でも暴徒に囲まれたら――」
「これくらいのこと、戦と呼ぶほどではありません。私は以前、もっとひどい状況を経験しています。少なくとも自分ひとりなら、いかようにも切り抜けられます」
それでも心配の種は尽きなかったが、自分がついて行くとかえって足手まといになることを察し、ダミアンは自重した。
「どこで落ち合いましょう?」
「いや、もしドミニクたちを見つけたら、すぐにそのまま逃げてくれ。どこへでもいい。ここから離れるんだ。落ち着いてから、例のデューペかオスターベルクの店で連絡をとるようにしよう」
「わかりました!」
返事もそこそこに、イルマは矢のごとき速さで飛び出していった。
――自分も急がなければ。
こういった異常事態では、一瞬の差が決定的な差を生み出すことがある。自分はそれを、あの〝アイトルフ騒乱〟で嫌というほど思い知らされていた。
もう、二度とあんな思いはしたくない。予想される最悪の結果を覆すには、一歩でも二歩でも速く前へ進む以外に道はなかった。
不安と焦燥に背中を押されるようにひた走った。すぐに悲鳴を上げるひ弱な己の体が恨めしい。
人の流れの強さは圧倒的で、いつの間にか目的の方向からずれてしまう。といっても当てがあるわけでもなく、今はたとえ闇雲にでも動き回るしかなかった。
だが、行っても行っても目的の影さえ見つけられない。これだけの人がいると、そもそも確実に見分けることは不可能だった。
それでも、見慣れた後ろ姿を見つけられたのは、かなりの幸運だったのだろう。
「カール!」
呼びかける声に驚いて、飛び上がってから振り返ったのは、あのカールだった。
いつもは貴族のごとく着飾った華美な衣装を身にまとっているのだが、今ばかりは薄汚れた姿で、顔まで煤で黒ずんでいた。
「カール、どうしてここに!?」
「逃げようと思ったんだが……間に合わなかった……」
「なぜ、あえてノイシュタットに戻ってきたんだ!?」
「どうしてもここの資産を移転させておきたくて……」
力なく答える男に怒る気力すら起こらず、ダミアンはこめかみを指で押さえた。
「――で? どうなったんだ?」
「…………」
「カール?」
問いかけても返答はなく、ただうつむいている。
暴動に巻き込まれて混乱しているにしても、あからさまなまでに様子がおかしい。ダミアンは、カールの両肩を摑んで揺さぶった。
「どうした!? 何があった?」
「……私の部下が、翼人たちに殺された」
「なん、だと……」
「初めからこちらが狙いだったようだ。この騒動が起きた直後から待ち伏せされていた」
「しかし、なぜ君たちが?」
その問いに言葉で答えることはせず、カールはただ斜め前方にある荷馬車を指さした。
「荷を運び出すことには成功したのか――これは!?」
積み重なった箱のひとつを開けたダミアンは、目をみはった。翡翠色に輝く宝石のような石が大量に箱に詰められている。
「これは……飛翔石? どうして君が?」
「私が商人として成功できた理由がこれだよ。多国間で大量に取り引きすることで利ざやを一気に稼ぐことができた」
「翼人もこれを狙っているというのか?」
「君は何も知らないんだな。私もそうだったら、もっと気が楽だったのに……」
どこか自嘲的に嗤うカールの態度に不穏なものを感じ、ダミアンが彼に一歩近づこうとしたとき、その声は突然降ってきた。
「飛翔石は、翼人の心臓が結晶化したものなんだよ」
上から聞こえてきたその言葉に、ダミアンははっとして振り仰いだ。
そこでは鋭い目つきの男が、灰色の翼を羽ばたかせていた。
「やっと見つけたぞ、〝死の商人〟。長のくせに部下をあっさり見捨てて自分だけ逃げるとは、いい根性だ」
「ひっ……」
腰が引けて尻もちをついたカールを、ただただ冷たい目で上から睥睨している。
その細身の剣はすでに血に濡れていた。
ゆっくりと降りてくる翼人の男、ヌアドの前に立ちはだかったのはダミアンだった。
「ま、待ってくれ! 飛翔石を取り扱っているのは彼だけじゃない。知らずに取り引きしているのは、人間全体の責任じゃないか」
「はっ! お前、そいつが|どうやってジェイドを生み出しているか《、、、、、、、、、、、、、、、、、、》知っているのか?」
「え?」
地に降り立ったヌアドはその目にはっきりと憎しみの色を込めて、宣告した。
「そいつの儲けの源はジェイドなんかじゃない。弱い翼人を捕らえて集め、各国に売り渡す。死んだ翼人からはジェイドがとれる、おいしい二重の儲けというわけだ!」
「なっ……!」
「そいつはなぁ、ただの奴隷商人なんだよッ!」
突きつけられた剣先に、カールは激しく動揺した。
だが、それはダミアンにしてみても変わりはなかった。
「か、カール……?」
「仕方がなかったんだ……当時、北方のゴールへの投資を焦げ付かせてしまって……。最初は一度きりのつもりだった。でも、いつの間にかバルテル隊商同盟の――」
「バルテル? どういうことだ?」
地べたに座り込んだまま後ずさりするカールに、もはやダミアンの声は届いていないようだった。
「もっとも、この俺も本隊から連絡が来るまで知らなかったがな」
男が軽く剣を振ると、その刃がなぜか複数に分裂した。
戦場を知るダミアンとカールにはわかった。
彼の殺意は本物だった。
「あれだけ儲けたんだ。もう十分おいしい思いはしただろう? この世に未練はないはずだ」
「ま、ままま待ってくれ! 違うんだっ!」
歩み寄るヌアドに、カールは震える手を振った。
「わ、私は命じられただけなんだ、本当にくわしいことは知らない! そ、そう、そこの奴に全部指示されたんだっ!」
「なんだと?」
カールの落ち着かない指は、明らかにダミアンのほうへ向けられていた。
「カール……」
ヌアドの目がダミアンのほうへ向いた瞬間、今までの様子が嘘のようにカールは駆け出していった。
「ちっ、また逃げやがったか。まあ、いい。奴なんていつでも殺れる」
刀身を閉じたヌアドが、こちらへゆっくりと向かってくる。
ダミアンは、あわてて叫んだ。
「ま、待ってくれ、誤解だ!」
「あの男と親しげに話していながら何を言う。それに、わざわざ箱を開けてジェイドを確認していたじゃないか? 上からすべて見ていたぞ」
「違う! 私は知らなかったんだ!」
「ああ、奴も同じことを言っていたよ。『翼人のことはよく知らなかった、だから奴隷にしていいと思った』とな」
――反論できない。
リファーフの村の一件のことはすでに聞き及んでいた。
翼人奴隷によって繁栄した村。
そして、怒りに燃えた翼人によって滅ぼされた村。
すべては、我々人間側の翼人に対する無知と無理解が招いたことのように思えてならなかった。
――かく言う自分も、飛翔石の商いは一度だけしたことがある。
その得体の知れない出自に違和感を覚え、すぐにやめはしたが。
少なくとも、自分に一切責任がないとは言えなかった。
「…………」
だが、ダミアンは黙るべきではなかった。その沈黙を肯定の意にとったヌアドが、完全に彼を関係者とみなしたようだった。
「安心しろ。人間の心臓がある程度は俺たちの役に立つことはわかっている。お前の死は、まったくの無駄というわけではない」
「!」
男は無雑作に剣を振り上げると、無慈悲にそれを振り下ろした。
歴戦の戦士の一撃をまったくの素人がよけられるはずもない。
だが、わずかな幸運がダミアンの命をつなぎ止めることになった。
ヌアドが対象を斬りつけようとした刹那、周囲をぱっと火の粉が舞った。その一瞬が、剣の軌道を微妙に狂わせる結果となった。
湾曲した切っ先が、ダミアンの左肩から右の脇腹にかけて切り裂いていく。
赤黒い鮮血が宙に飛び散った。
激痛に顔を歪めたダミアンであったが、戦士ではない彼にもこれが致命傷ではないことはわかった。
――逃げなければ。
もう一度、炎の切れ端が降りかかり、相手が顔をしかめるのを横目に思いきって駆け出した。
まともに戦って勝てる相手ではない。いちかばちか、背後から斬りつけられるのを覚悟で必死に走るしかなかった。
後ろを振り返りたい衝動を必死にこらえ、狭い路地にあえて入る。あの大きい翼だ。少なくとも地上を追ってはこれないだろう。
こちらも火事や暴動に巻き込まれるリスクはあったが、もはや気にしている場合ではなかった。
耳障りなほどの自身の呼吸の音が、焦りをなおいっそうつのらせる。傷の痛みよりも 疲れと煙に巻かれたことによる息苦しさのほうが上回り、いつの間にか目まいで視界が暗くなっていた。
それでも、殺される恐怖のほうが上回った。いや、それだけではない。
――私がここで死ぬわけにはいかない。
自分にもしものことがあったら、残されたドミニクはどうなる。生きていく糧に心配はないだろうが、ただでさえ母親がおらず、こちらは仕事で寂しい思いをさせてきた。
ドミニクは、大人が思うよりも繊細な子だ。勝手に振る舞っているように見えながら、その実、他の誰よりも周囲に気をつかっている。
自身がひとりぼっちになることを恐れているのだ。孤独な時間の長さを知っているだけに、それに対する恐怖も人一倍強かった。
ルークだけはそのことに薄々気づいているようだったが、彼やイルマでさえドミニクのこころの空白を埋めることは難しいときもあるだろう。
自分がそばにいてやらなければならない。
それが、親として最低限の役割だと思えた。
必死の思いで走っているうちに、幸いにも争いに巻き込まれずに路地を抜けることができた。
――しまった、広い通りか……
まぶしさを感じるほどに周りが開けている。火事は起きておらず、煙が薄いベールとなることもない。これでは、完全に上から丸見えだ。
「だ、ダミアン、こっちだ!」
「カール……」
聞き慣れた声に顔を上げると、すべてを人に押しつけ、自分だけさっさと逃げたカールが、一画にある家屋の扉を半開きにして立っていた。
複雑な感情を抱えながらも、そちらへ向かった。
「何をしてるんだ、カール! 早く逃げないと――」
「いや、今はへたに動かないほうがいい。翼人の目は異常なほど達者だ。すぐに見つけられる」
あからさまに怯えた様子で、その共和国の商人は急いで扉を閉めた。
外の激しい叫声がつかのま、やわらぐ。だが、カールの激しい呼吸は収る気配もなく、それどころかダミアンの刀傷を見てさらにその速さを増した。
「す、すまない、私は……」
「わかってる、君がまったく冷静じゃないことは。だが、そんなことよりさっきの話だ。奴隷を、それも翼人の奴隷を扱っていたなんて、どういうことだ!?」
「…………」
「答えろ、カール! 相手が翼人だからいいなんて言い訳は通用しないぞ。お前もわかっていたはずだ、売られた翼人たちにも家族や大事な人たちがいたことを!」
許せなかった。先ほど自分が裏切られたからではない、非道が身近で行われていたからだ。
商人といえど――否、商人だからこそ絶対に守らなければならないことがある。人道にもとることだけはすまいとこれまで自身を厳しく戒めてきただけに、どうしてもカールの行いは認められなかった。
しばらくの沈黙が場を支配する。
しかし、追いつめられた男はこんなときに限って、いつものように反駁した。
「う……うるさい! 私が何をしようが私の勝手だ! そもそも、お前に正論を語る資格なんてない!」
「カール……!」
「だいたい、ダミアン。貴様、自分の息子が本当は何になりたがっているのか知っているのか!?」
「な、なんだと!?」
「はっ、愚か者め。やっぱり気づいてなかったようだな」
狼狽するダミアンに、カールはわざともったいつけて言った。
「知らないというなら教えてやる。ドミニクはな、騎士になりたがっているんだ」
「なっ――」
「自分の夢とお前の期待の板挟みにあって悩んでる。私のところにわざわざ相談しに来るくらいなんだぞ? このことは、あのいけ好かないモーリッツだって知っている」
狼狽するダミアンに、カールは畳みかけた。
「自分の子供をわざわざ追いつめてる奴が、偉そうに家族を語るなッ!」
「!」
知らなかった事実に、何も反論することができない。
――ドミニクが……そんなまさか……
しかし、今このように感じていることそのものが、自分の思い込みが強かったことを示していた。
もしドミニクにも商人とは別の夢があるのではないか、少なくとも想像くらいはしているのではないかと気づかっていたら、こんなにも驚くことはなかっただろう。
――私は、自分の夢と息子の夢をはき違えていた。
そんなもっとも単純でもっとも根本的なことに気づいていなかったせいで、結果的に一番大事な息子を苦しめてしまっていたとは。
「カール、私は――」
言い過ぎたかとばつの悪い顔をしていたカールに一言言おうと口を開いたとき、乾いた木材がきしむ異音とともに家の壁が突然崩れだした。
「なんだ!?」
大量のほこりとともに火の粉が舞い散り、やがて轟音が響くなか、木と漆喰でできた家屋の全体が崩壊した。
周囲に大量の塵埃と瓦礫をまき散らしたあと、しばらく不自然な静寂が場を支配した。
炎によって木が爆ぜる乾いた音が響くなか、崩れ去った建材の一部がわずかに動いた。
それをようよう持ち上げてのっそりと起き上がったのは、いよいよ見すぼらしい格好になったカールであった。
よく見ると、自分たちのいた家だけでなくその周囲のそれらも同じように倒れ果てている。おそらく、いくつかが火事ですでにもろくなっていたのだろう。連鎖的に辺り一帯の建物が一気に倒壊したようだった。
こんなときに家屋の中に入るべきではなかったと後悔しても遅かった。
「だ、ダミアン!? ダミアンっ!」
周囲を見回しても、人の気配はまるでない。焦る気持ちが、名前を呼ぶ声を甲高いものにさせる。
「くっ……カール!」
わずかな声に、はっとして振り返った。家屋があった場所の隅のほうだ。
あわてて駆け寄ったカールが目にしたものは、あまり見たくはない光景だった。
「こ、これは……」
倒れたダミアンは、瓦礫のなかにすっかり埋もれていた。上半身は建材の隙間からやっと見えるが、下半身はその影さえわからない。
「カール! 頼む、引き出してくれ!」
「ま、待ってろ!」
急ぎ、上にのしかかる邪魔な瓦礫をどけていく。
上半身がようやく見えてきた頃になって、カールの手がふと止まった。
「カール?」
ダミアンが彼の視線の先を追うと、煙の薄幕がかかる向こうに不穏な灰色の翼が見えた。
それは、饐えた笑みを顔に張りつかせた先ほどの男に他ならなかった。
「カール、早くしてくれ、カール!」
だが、当の彼は持ち上げていた木材を下へ落とし、一歩、二歩と後ずさった。
「カール!?」
「すっ、すまない、ダミアン! お前の言ったとおり、私にも家族がいる」
「…………」
「あいつは、きっと私を許さないだろう。に、逃げるしかないんだッ! 許してくれ、ダミアン!」
言いざま、呼び止める間もなく、元の路地の方向へ駆け出していった。
呆然と遠のく背中を見やっていたダミアンであったが、そんなことをしている場合ではない。あわてて身をよじってここから抜け出そうとするものの、建材に挟まれた両足はまったく動かなかった。
そうこうしている間にも、例の刺客が歩み寄ってくる。ここに来るまでに何人かの人間をその手にかけたのか、刀身はすっかり血に濡れていた。
ダミアンは焦りながらも、心中に奇妙な思いが込み上げてきた。
――まさか……家内と同じ目にあうとは。
あのときもそうだった。火事のせいで脆くなった家屋が崩れ、妻はその下敷きになった。しかも運悪く、自力では抜け出せそうにない。
もっと早くに助けだし、治療を受けさせていたら、まったく結果が違っていたかもしれない。だが、すべては後の祭りだった。
どうしようもない状況に苛立ちをつのらせるなか、いよいよ奴が目の前に迫った。
「まったく、しぶとい野郎だ。ここで倒れて死んでいたほうが楽だったろうに」
上から睥睨し、己の剣を肩に担いだ。だが、そのくすんだ目のどこにも慈悲のかけらすら見えなかった。
無雑作に、ただ剣を振り下ろしただけだ。
「!」
もう終わりなのか、とこころのなかの冷静な自分が最悪の結論を導き出す。
だが、視界の片隅に有り得ないはずのものを見た。
――ドミニク。
そのとき、ダミアンのなかで何かが弾けた。
なぜかゆっくりとした動きに見える相手の剣を見つめ、必死の思いで上半身だけよじってかわそうとする。
うまくいったか、とわずかに期待したものの、下半身が完全に固定されたこの状況では完全によけられるはずもなかった。
「がはっ!」
肩口を襲う激痛に、我知らず呼気がもれる。もはや、上半身を起こすことすら叶わなかった。
「愚かなことを……自分から苦しみを増やしてどうする」
「父さんッ!」
嘲笑うヌアドの耳に、場違いな子供の声が不意に届いた。
顔だけそちらに向けると、見知らぬ人間の子が今まさに走ってくるところだった。
それに驚いたのは、むしろダミアンのほうだった。
「よせ、ドミニクッ! 逃げるんだ!」
「父さん、でもッ!」
「こいつのガキか……いちいちうっとうしい奴らだ。お前らにも、力ずくで引き離された翼人の親子と同じ思いをさせてやる」
不気味にぎらつく目は、対象を確かにとらえていた。
そこに宿る狂気に、ドミニクは思わず足を止めた。
「よせッ! やめてくれッ! 頼む……!」
声を限りに叫ぶものの、ダミアンの声は男に届きそうもなかった。
寒気のする薄い笑みを口の端に浮かべながら、ヌアドが一歩、二歩とドミニクに近づいていく。
怪我をおして身をよじるものの、やはり動けない。それどころか、その動きで傷口がさらに開き、出血がひどくなった。
――ドミニク……
せめてあの子だけでも、と思うのだが、周囲に人の姿はなく、助けを求めようにもどうしようもない。
どんなに怒りや必死の気迫があろうとそこは子供、今まで幾人となくその手にかけてきたであろう本物の戦士を相手に、やり合えるものではなかった。
その目から発せられる底冷えのする敵意と殺意に、震え上がって声を上げることすらできないでいた。
血の滴り落ちる剣を握った男が目の前までやってきて、それを無雑作に振り上げるのをただ見つめている。
「ドミニクッ! 逃げろッ!」
父の必死の叫びも、今ばかりは遠くに聞こえた。
どうすることもできずただ立ち尽くしていると、風の音だけがなぜか耳に届いた。
血の色に濡れた剣が輝き、それが無慈悲に振り下ろされる。
それは、ドミニクが生まれて初めての絶望を感じる間すらない、一瞬の出来事だった。
直後、甲高い金属音が響き、さらなる強い風の音が聞こえてきた。
目をつむっていたドミニクがおそるおそる顔を上げると、そこには白い翼の背中があった。
――間に合った……!
ヴァイクは、相手の剣を押さえ込みながら歯を食いしばった。
上空でヌアドを見つけ追ってきたのだが、まさかこんなことになろうとは。
「恥を知れ、愚か者! 子供をみずから手にかけようとするなんて!」
「貴様……!」
厳しく糾弾しても、相手に怯んだ様子はまるでなかった。
それどころか、口の端にうっすら笑みを浮かべてみせたほどだ。
――何!?
こちらの剣のきしむ音がいやに耳につく。刀身の留め具はナータンが変えてくれたことで前よりもよくなったはずなのに、それが不安になるほど相手の力は圧倒的だった。
――こいつ、前より力が上がっている? いったい、何を――
疑問が頭をよぎるよりも早く、予想外の事態がヴァイクを襲った。
「何っ!?」
押し返そうとした剣が、どうしようもなく圧倒される。一瞬ののちには、軽く弾き飛ばされ、背後にいた少年もろとも大地を転げ回ることになった。
――しまった……!
まさかこんな状況になるとは思っていなかっただけに、後ろのことをあまり意識していなかった。体を起こしつつ横目で見やると、少年はあお向けに倒れて気を失っているようだった。
――どういうことだ?
あまりに大きすぎる力の差に、頭が理解を拒む。
目の前の男ヌアドは、マクシムやアセルスタンとは異なり、どちらかといえば細身。それなのに、尋常ではない膂力を示すなど普通では有り得ないはずだった。
様子がおかしいのはその力だけではない。明らかに血走った目は爛々と輝き、にやけた笑みを口元に貼り付けている。
「〝根の花〟を飲んでおいて正解だったな」
「根の花? どういうことだ?」
「おっと、しゃべりすぎたか。あれを使うと饒舌になっていけない」
これまでの冷静かつ狡猾なヌアドとは明らかに違う、上機嫌なまでの陽気さがそこにはあった。
――これが、こいつの本性だとでもいうのか。
どうにも違和感を覚える。得体の知れぬ不気味さを感じ、ヴァイクは改めて剣の柄を握り直した。
「まったく、どいつもこいつも気にくわねえ。もうこうなったら、心臓なんてどうでもいい、さっさと皆殺しにしてやる」
どうやら前よりもさらに好戦的になっている様子で、ヌアドは肩に担いだ剣を無雑作に振り下ろした。
――今は、本当の理由なんてなんでもいい。
詮索好きの自分の悪い癖が出た。知恵者気取りで物事の本質を探っている場合ではない。
余計な考えを頭から振り払い、剣を構えて相手に向き直った。
――とにかく、まずは目の前の男を倒す。
ヌアドは自分に酔っているのか、こちらが待ち構えているというのに無雑作に突っ込んできた。
「!」
――やっぱり、別人だ!
そう考えたほうがいい。戦法も動きも何もかもがこれまでとは異なる。
ヌアドが、悪ふざけにも見える大振りの一撃を大上段から見舞った。
相手の腕力と例の厄介な武器のことを考え、ヴァイクはそれを受けることはせず回避に徹することにした。
しかし、
――速い!
予想を上回る剣の速度に、よけることが間に合わない。
「ちっ」
舌打ちしつつ、わざと足を滑らせて上体はかわしながら、両手で持った剣で相手の一撃を受け止める。
最大限の力を込めているというのに予想どおり押し込まれるが、全身を使ってそれを横へと受け流した。
だが、体勢が崩れたはずのヌアドが、力で強引に立て直してくる。
――アセルスタンと同じだな……!
多少荒削りでも、その圧倒的な膂力で不利を有利へと塗り替えてしまう。小細工が効かない厄介な相手だった。
そのヌアドは、返す刀で横薙ぎにこちらを斬りつけてくる。体をのけぞらせてぎりぎりのところでよけ、翼を羽ばたかせながら相手から距離をとった。
「ちょこまかと……」
苛立ちを隠そうともせず、ヌアドが己の得物をわざと振って刀身を分裂させた。
――奴の行動に脈絡はない。だったら――
ヴァイクは、灰翼の男が無雑作に一歩踏み出した瞬間、一足飛びに相手との距離を詰めた。地を這うように宙を舞い、対象に最速の一撃をお見舞いする。
これまで余裕綽々だったヌアドが、さすがにあわてた様子を見せる。まさか押されている側が一気に飛び込んでくるとは思っていなかったのだ。
――今の奴は、確かに速くて強い。だが、油断をすればどんな力も無意味だ。
相手が防御姿勢もままならないあいだに、ヴァイクはその眼前に到達していた。
もっとも速く、もっとも無駄のない攻撃――突きを、迷わずくり出した。
ヌアドの刀身のひとつを弾き飛ばし、女神の切っ先がその喉元に迫る。
――とらえた。
ヴァイクは確信していた。このタイミング、この速さなら、どんな歴戦の勇士もかわせるものではない。
そのはずだった。
だが、現実だけが違った。
リベルタスの太刀筋が斜め横へと確実にそれていく。
剣を通して伝わってくる下からの衝撃。
ヌアドは、己の剣を強引に上へ動かすことによって、こちらの一刀を無理やり突き上げて見せたのだった。
軌道がずれた攻撃は目標からわずかにそれ、相手の首筋をかすめて通り過ぎていった。
――外した……!
あえて剣を引くことはせず、そのまま勢いを殺さずに突っ切り、ヌアドの横を行き過ぎた。
すぐさま振り返った視線の先に見えたのは、男が首を押さえて憎しみに満ちた目をこちらへ向けている姿だった。
――驚いてるのは俺のほうだ。
自信のあった必殺の一撃を、まさかあのタイミングでかわされるとは思わなかった。
だが、衝撃を受けているのは相手も同じらしい。剣を握る手がわずかに震えている。
「貴様……!」
「何をやったか知らないが、力だけでは俺に勝てない。マクシムに比べれば、お前はひよっ子だ」
「…………」
何か反論してくるかと思いきや、厳しい目つきでただ睨んでくるだけだった。
「これじゃ足りないというのか、仕方がない――」
意味不明の言葉をつぶやくとわずかに冷静さを取り戻した様子で、腰にくくりつけた小袋から何かを取り出し、それを躊躇なく飲み込んだ。
――なんだ?
丸薬だろうか。今仕掛けたほうがいいのかもしれないが、得体の知れない不気味さを感じ、ヴァイクは距離を詰めることを躊躇した。
「ふ……」
うつむいていた顔を上げ、少しの呼気を吐くヌアドの目に映るのは、さらなる狂気であった。
「は、ははっ……! 実にいい気分だ。もっとお前みたいないけ好かない奴をいたぶれそうだ!」
と、なんの前触れもなく突進してくる。なかば予想していたヴァイクは、すぐさま右足を引き、半身の姿勢をとった。
相手の勢いは凄まじい。これは受けてはならないと、こころの内なる声が本能的に叫んだ。
翼を利用し、ジャンプする形で一歩退こうとする。
だが、宙に浮いたときにはもう、ヌアドは目の前まで迫っていた。
「!」
頭部に迫り来る一撃を必死の思いで受け止め、あえてそれに押されるままにした。
どうしようもなく弾かれ、無様に一度地に叩きつけられてから、その反動を利用して起き上がる。
そこへ、さらなる攻撃が襲いくる。
次から次へと剣がくり出され、それらを防ぐの精いっぱいで逃げることさえできない。
衝撃的なのは、それだけではなかった。
――翼を使っていないだと!?
純粋な脚力だけでこれだけの動きを実現している。翼人としては、有り得ない戦い方だった。
――やっぱり、おかしい……!
そもそも、ここまでの膂力を出す時点で十分、不自然なのだ。この男はアセルスタンのようなたくましい肉体があるわけでも、アーベルのような動きの巧みさがあるわけでもない。
しかも、最大限の力を行使しつづけているであろうに、疲れが出る気配さえなかった。力の強さに応じてスタミナの消費は大きくなる。あのマクシムでさえ、戦いの終盤にはいつも疲労がにじみ出ていたというのに。
――まずい……
一方的に剣を振るわれ、どうしようもなく押されてしまう。無雑作な一撃一撃はただただ重く、頭を使って対応しようにもその余裕さえ今はなかった。
一瞬だけ、視界の片隅で傷を負った人間の男が倒れるのが見えた。
あれはいけない。い早く手当てをしなければ、おそらく間に合わないだろう。
――どうすればいい――
だが、今のヌアドには正攻法が通じそうになかった。対応する方法を思いつかない。
そんなとき、ふと頭に浮かび上がってきたのは、あの傲慢でいけ好かないマクシムの言葉だった。
『そんなのは単純な話だ。正攻法が通じないなら、こちらも――』
はっとさせられる。
そうか、そうだった。自分はなぜそれにこだわっていたのか。
すぐさま次の行動に移る。あえて敵の攻撃を正面から受けてそれを右方向へ受け流すと、すぐに大上段から全身全霊の一撃を見舞う。
わずかに体勢を崩している相手が、身を強張らせたのがわかる。まさに、ここが狙い目だった。
振り下ろす剣をヌアドに受け止められる前に寸止めすると、直後、最速の蹴りを下段から放った。
まったく予測していなかった相手はそれをもろに体の中心で受けて大きく弾き飛ばされ、受け身をとることもままならずに大地の上をもんどり打った。
――力には力で対抗するという考えは、俺の中にはなかった。
自分の戦士としてのタイプをわかっているだけに、いつしか利口な戦い方を常にするようになっていた。
だから、たまにはこういうのもいいだろう。マクシムには笑われそうだが、今の自分にはこれくらいしか思いつかなかった。
「こっ、この野郎……!」
怒りと一抹の怯えを含んだ目で見上げてくるが、もはやそこから脅威を感じることはなかった。
これまでばか正直に正面から戦っていたのがいけなかったのだ。いわば、相手がやりやすいように合わせてしまっていたのだから、苦しくなるのも当然だ。
まともにやり合わなければ、いかようにも対応できる。ヌアドが視線をこちらから切り換えたのは、ヴァイクが目処が立ったと感じたときのことだった。
「まったく、ちょこまかと余計なことを……。まあいい、そこのガキから片付けるか」
いきり立つ男のそばには、未だ気を失ったままの少年が横たわっている。
――しまった……!
後先を考えずにやってしまったがために、よりによって少年のそばにヌアドを運ぶ形となった。こちらからよりも、相手のほうが明らかに近い。
急ぎ駆け出して飛び上がるものの、もはや間に合いそうにない。
相手が剣を軽く振り上げる。少年の目が開くことはなかった。
「ヌアドッ!」
その鋭い声は倒れ伏した人間の男のものでも、もちろん自分のものでもなかった。
それに驚き、そして狼狽したのはむしろヌアドのほうであった。
空に、自分と同じ灰色の翼の男がいる。
「あいつは……」
確か、ゼークという名の新部族の戦士。なぜか凄まじいまでの怒気をその顔にはらみ、呪殺せんばかりに対象の男を睨みやっている。
ゼークは相手の目を見て、さらなる怒りをたぎらせた。
「その目……! てめえ、また〝根の花〟を使ったなッ!」
それまでどこか恍惚とした表情をしていたヌアドがまったく余裕をなくし、足元にいる少年のことすら忘れている。
「この、部族の恥さらしが……! 結局、てめえは最低限の掟さえ守れねえクズ野郎だ!」
「…………」
「俺は、絶対にお前を許さねえ。あのとき長老や兄弟に誓ったんだ、かならず真相を突き止め、ことの発端をつくった仇を討つと」
ゼークは、己の得物たる曲刀をすでに抜いていた。
「まさか、てめえのせいで部族が滅んだことを忘れたわけじゃないよな?」
「…………」
「まただんまりか。ま、へたに言い訳する奴よりいいけどな」
ゆっくりと一歩進み出ると、ヌアドは一歩下がった。
「覚悟を決めろ、〝幻影〟のヌアド。お前にだってちったあ良心はあるはずだ。それなら、断罪の刃を自分で受けろ」
軽く刀を振るゼークの正面で、相対するもうひとりの灰色の翼はすでにかなわないと悟っているのか、逃げの体勢になっていた。
張りつめた糸が場を支配する。
それが切られたのは、些細な出来事がきっかけだった。
ヌアドのそばに横たわる少年が身じろぎした。わずかに、ゼークの視線がそちらへそれる。
その一瞬を、〝虹〟の男は見逃さなかった。
振り向きざま飛び上がり、一目散に逃げていく。今は脚力も尋常ではないらしく、助走がなかったにもかかわらず、早くも空高くへと舞い上がっていた。
「待ちやがれッ!」
すぐさまゼークも飛び上がるものの、すでに距離を開けられた今からでは追いつけるかどうか。
ヴァイクは二つの灰翼を見送ってから俺の剣をしまい、少年ではなく未だ倒れ伏したままの男のほうへ向かった。
その下にある、黒ずんだ瓦礫の木材が赤く濡れている。くわしく診るまでもない。
――これは助からない。
「う……」
「おい、俺の声がわかるか?」
「あ、あなたは――」
驚いたのは、ヴァイクのほうだった。
――確か、ジャンたちが関所を越えるときに助けてくれた男。
「俺は翼人だ。だが、あんたのことは知っている。俺は、関所で会った人間たちの仲間なんだ」
「そうか、我々を助けてくれた……」
ダミアンは、顔だけ上げるので精いっぱいだった。
「な、ならば、あなたは義を解する方とお見受けします……。どうか、どうか息子をお願いします……」
「あの少年のことか? わかった、かならず安全な場所まで送り届ける。だが、そのあとのことは――」
「では……イルマという女に……」
「イルマ?」
「手練れの棒術使いです。おそらく、この地随一の……」
「ああ、あのときの」
リーンの関所の近くで〝虹〟と最初に戦っていたとき、さっきのヌアドをしたたかにやり込めていた鉄棒の女だ。
それならば、顔を憶えている。
「彼女に……全権を委任すると……。これを……」
すでに虫の息のダミアンが震える右手で掲げたのは、血で汚れたペンダントだった。
「そして……息子に……〝自由であれ〟、と……」
それを言ったきり、糸が切れたように男の上体が弛緩した。
その瞳が最後に見つめていたのは、まぎれもなく己の息子であった。
「――――」
――兄さんも、きっとあのときは似たような気持ちだったんだろうな。
部族での最後の日々を思い出す。兄は自身の残された時間ではなく、こちらの未来を案じていた。
――いけない、感傷に浸っているときじゃない。
首を振って、あえて感傷を捨て去る。
厄介なヌアドは去ったものの、まだこの町の状況は安全からは程遠い。すぐに少年を運ぶ必要があった。
男の冥福を祈ってからきびすを返し、少年の元へ向かった。
突然の声にはっとなったのは、その子を抱え上げようとしたときのことだった。
「ドミニクから離れろッ!」
驚くヴァイクの目に映ったのは、太い鉄の棒を持った件の女だった。
烈火のごとき形相で、猛然と襲いかかってくる。
「貴様ッ、そのペンダントを返せッ!」
「待て、誤解だ! 俺は、あの男から預かっただけだ!」
「人殺しのくせにぬけぬけと! ダミアン様の仇、このイルマがとってくれる!」
――これじゃあ、リファーフの村のときと同じじゃないか。
奇妙な既視感を覚えながらも、ヴァイクはよけに徹した。
怒りに任せて得物を振るうイルマの攻撃は、おそろしく雑だ。だが、そのひとつひとつが異様な速さを持ち、かわそうとするこちらの鼻先をかすめていく。
――こいつはやばい。
確実によけるのは難しくなってきた。このままではかつてのヌアドと同じく、この凶器の餌食となってしまうだろう。
ふと背後からハスキーな女の声が響いたのは、こちらが剣を抜こうとしたときのことだった。
「彼の言うことは本当よ」
「あ、あなたは……」
ヴァイクには声でわかっていたが、一方のイルマはその姿を見て目を丸くして驚いた。
白翼の背後に見える翼は、特徴的な紅色をしていた。
「久しぶりね、イルマ。最後に会ったのは、あの戦の――」
「その話はいい。そんなことより、この男は……」
「ああ、私の義理の弟よ、出来は悪いけど」
「義理の? でも」
「残念だけど、イルマ。今のあなたじゃ、そこのヴァイクには勝てない」
「…………」
「あなたが一方的に攻撃をできたのは、手を抜かれていただけ。こいつが反撃しようと思えば、いつでもできた。その意味がわかる?」
そうまで言われてようやく納得したか、ずっと構えたままだった鉄棒をようやく下ろした。
悔しげな表情をして。
――かならずしもそうじゃないんだけどな。
本当に圧倒されていたと認めるのはばつが悪いから黙っておいたが。
気がついたときには、イルマと呼ばれた女がこちらに厳しい目を向けていた。
「ダミアン様は……」
「あの男か。彼は逝った。最後の最後までお前たちのことを案じていた。それで、イルマという女にすべて任せると、これを――」
まだ付着した血が乾ききっていないペンダントを受け取り、イルマはその場に膝をついた。
「また……守れなかった……」
「イルマ、あのときのことはあなたのせいじゃない。今回だって――」
「救えなかったという事実になんら変わりはない!」
事情を知っているらしいヴァレリアの言葉も、涙を振り払いながら激昂するイルマにはなんの効果もなかった。
――確かにそうだ。
どんな理由があれ、大切な存在が失われた、そこに手が届かなかった後悔が消えることはない。
だが、
「すべてを守ろうとして守りきれるものではない。己の力には限りがある」
それは真実だった。
しかし、イルマは逆上した。
「うるさいッ! お前に何がわかる!」
「わかる。俺も、故郷も兄弟も何もかも失った――自分の弱さと愚かさのせいで」
「…………」
「人は同じ失敗をくり返す。兄を失ったあの日、俺はもう絶対に大切な存在を死なせない、そのために強くなるとそう誓ったのに、そのあと、また守れなかった」
そう、〝また〟だ。
――リゼロッテ。
あのとき、無力な自分はどうすることもできなかった。目の前で幼い命の灯が消えていくのを見ていることしかできなかった。
「後悔が消えることはないし、消すべきでもない。人はたぶん、それがあるから前へ進んでいける」
「知った風な口をきかないで。私はもっと重荷を背負った。これから前進できるかなんて、誰にもわからない」
「だが――」
「もういいわ、ヴァイク」
ヴァレリアが組んでいた腕をほどいた。
「ここであれこれ言っていても仕方がない。イルマはもう行きなさい」
「…………」
「ただ、たとえあなたにどれだけ力量があっても、地上を進むのではたぶん確実に争いに巻き込まれる。本当は私が護衛してあげられたらいいんだけど、翼人の私がそばにいたんじゃかえって話がややこしくなるし……」
「いい、必要ない」
「強がるのは勝手だけど、じゃあ、この子はどうするの?」
三人のすぐそばには、少年が未だ気を失ったまま横になっている。
それに答えた声は、意外な男のものだった。
「問題ない。俺が護衛してやる」
「セヴェルス……」
いつの間に来ていたのだろうか、横合いから馬に乗って近づいてくるのは弩弓を右手に持ったあのセヴェルスであった。
「お前には、まだやることがあるんだろう? ちょうどいい、俺もいったん町の外へ離脱するつもりだった。メルと合流しなければならないからな」
「ジャンを捜さなくていいのか?」
「あいつことなんて、もうどうでもいい。俺がここに来たのは、メルの奴がうるさいからだ」
突っけんどんにそう言いながらも、その端々にこの男なりのやさしさを感じた。
イルマに反論する気力はすでにないようだった。ドミニクという名の少年のことも気がかりだったのだろう。
少年を馬に乗せるのを手伝い、背を向けた彼女に、ヴァイクはあえて一言だけ投げかけた。
「いつかまた会おう。どんな形になるかわからないが、力になってやれるかもしれない」
一瞬の間。
しかし、イルマは何も言わずに去っていった。
「怒らないでやって、ヴァイク。彼女は、あなたと同じくらい重いものを背負ってる」
「わかってる。それより、なんでヴァレリアがここに」
「あんたこそ。新部族に入ったっていうんならともかく、本来この騒動は関係ないことでしょ?」
「――見過ごせない奴がいるんだ。たぶん、俺にしか止められない」
「呆れた。また変なことに首を突っ込んでいるようね」
「変なことじゃない、必要なことだ」
「はぁ、そういうところはファルクと嫌になるくらいそっくりね」
「兄弟だからしょうがない」
「――まあ、そうか」
わずかな間に違和感を覚えたが、それはすぐに露となって消えた。
「そっちは?」
「大事なことよ」
「大事?」
「いい、ヴァイク? 落ち着いて聞いて」
「俺は落ち着いている。もう子供じゃない」
「そう言う奴に限って子供なんだけど――まあ、いいや」
詮ないことを言っても仕方がない。ヴァレリアはかわいくない義弟のほうに向き直って、核心をあえてあっさりと告げた。
「ヴォルグ族が来てる」
「!」
少しの間ができてしまったことに、ヴァイクは自分で苛立った。
「……はぐれ翼人なんてどこにでもいるだろう。お前だってそうだ」
「部族の隊が来てる」
「――本当なのか?」
「こんな嘘、冗談でもつけないでしょ、こんな状況で」
「…………」
「とにかく、今はかかわらないほうがいい。今回は不測のことが多すぎる」
「それはそうだが、だいたいなんでこうなってる? ここは前からこんなに荒れていたのか?」
「いいえ、この辺では一番安定していたでしょうね。でも、今はそれも昔の話。きっとここだけじゃない、そのうちすべてがこうなる」
翼人の世界も、人間の世界も。
現在は、すべてが不安定化しているといっても過言ではなかった。
「私は、なんとかヴォルグについて探ってみる。少し気になることもあるし……。あなたは――」
「黒い翼を捜す」
「黒い……?」
「俺には、他にできることがあるのかもしれない。だが、自分が今やらなきゃいけないと感じることはそれなんだ」
「まあ、好きにしなさい。どうせ、やめろと言ったところで止まらないんでしょう」
「当然だ」
「相変わらずね~」
半分呆れた様子で、ヴァレリアはさっさと飛び立っていった。その背にある一対の翼を見て再度思う。
――紅い翼。
ヴォルグ族。
はぐれ翼人ではない、本物の連中がよりによってこんなときにここへ来ているという。
なんらかの形で偶然出くわしたそのとき、自分は冷静さを保っていられるだろうか。
アセルスタン。
彼と初めて戦ったときも、自分でも気がつかないほどの一瞬で我を失い、憎しみの剣を振るっていた。
――いや、大丈夫だ。俺はもう、昔とは違う。
ベアトリーチェ、そしてリゼロッテが変えてくれた。二度とあんなことにはならないだろうし、そうすべきでもなかった。
――わからないのはむしろ、あのときのヴォルグ族の正体だ。
マリーアの話が本当なら、あのヌアドが鍵を握っているのは間違いないのだが。
もう一度、天を見上げる。灰色の雲がかかった天上に、今も無数の翼が舞っている。




