第九章 第二三節
侯都上空の空気は、あからさまなほどに震えていた。
紅い翼がやってきた。
その事実が、あらゆる翼人のこころを激しく揺さぶった。
何せ、自身の部族が滅ぼされたはぐれ翼人は多い。たとえ故郷を、仲間を奪われた憎しみが強くても、そのときの恐怖のほうが未だ勝っていた。
だが、まったく別の面で動揺を隠せない者たちもいた。
「どうなっている、リオ? ヴォルグ族がこのタイミングで動くなんて」
彼らと同じ翼の色をしたアーシェラが、まるでその事実に気づかぬように眉をひそめて、隣に立つ蒼の翼の男に問うた。
「それはこちらの台詞だ。何も聞いてないぞ」
「奴らがここに来る理由はなんだ?」
「知るか。お前のほうがくわしいはずだろう」
「…………」
「――すまん、過去は詮索しないのが流儀だった」
歳のわりに屈強な、リオという名の青年は、不器用ながらも素直に頭を下げた。
「じゃあ、本当に知らないんだな」
「ああ。あえて言わせもらうが、ここらはお前の担当のはずだ。なんで調べておかなかった」
「私がヴォルグ族に近づけるわけがないだろう」
「他の部族については調べていたはずだ」
「なんの情報もなかった。そもそも、ヴォルグ族と接触できる奴なんてどこにもいない」
「それもそうか……」
腕を組んで考え込んだリオの横で、アーシェラがはっとして顔を上げた。
「誰か近づいてくる」
男もすぐに気配を察した。
「そのようだ」
「何をしてる。早く隠れろ」
「いや、私はこのまま離脱する。もし、例のことがばれそうなら、お前もさっさと南へ戻れ」
「――わかった」
何かが近づいてくるのと反対方向へ、蒼い翼のリオは低空を飛んでいった。その後ろ姿は木の陰に隠れ、すぐに見えなくなった。
逆に、こちらへ接近する相手の正体は程なくしてわかった。
「アーシェラ!」
「ナーゲルか」
見慣れた白い翼、それが目の前に舞い下りてくる。
地に足を着けるのを待って、アーシェラはあえて怒鳴りつけた。
「遅い! 何をやってた!?」
「……いや、それが、状況がわかるまで仲間からの報告を待っていたんだ。だが、いつまで経っても来ないからこうして……」
相手の勢いに圧倒されるまま、しどろもどろに答えた。
遅れてやってきたのには訳があった。
老師アオクのところでヴァイクと別れる際、『連絡があるまであえて動かない』と約束したのだが、それが完全に裏目に出たのだ。
どれだけ待っても伝令すら来る気配はなく、ネリーの警護役であるフーゴの部下が急ぎ窮状を知らせてから、あわてて動いたのだった。
――ヴァイクめ、こっちのことを忘れてたんじゃないだろうな。
恨み節が出てきてしまうが、今は彼の名は伏せておいた。
「ともかく、細かいことはどうでもいいんだ。俺たちのやるべきことははっきりしている」
「ああ、ネリーの警護に向かってくれ。今、フーゴたちが守りを固めているが、こんな状況だ、何が起きるかわからない。それにヴォルグ族が来たとなると――」
「それで、場所は?」
「城の東だ。丘の上に大きい館が建っている。行けば、すぐわかるはずだ」
「そうか。じゃあ、行ってくる」
さっさと飛び立とうとするナーゲルに、あえてアーシェラはひとつ問いかけた。
「どうしてここがわかった?」
「なんとなくだ。俺は昔からやけに勘が当たるんだ。ヴァイクの奴からもよく――って、それはいいか」
言い終えるのも待たず、忙しげにすぐ飛んでいった。
「――――」
残されたアーシェラは、天を見上げた。
雲の多い今日。それらが地上から立ち上る煙と混ざり合って、毒気となって空を染め上げていく。
――まるで、この私のように。
孤独な紅色の翼の思いが晴れることはなかった。




