第九章 第二二節
延々とつづく長い闇。
どこまでもどこまでも暗く、長い通路がつづき、終わりの見える気配もない。
――長い――
いったいいつになったら、光が見えてくるのだろう。自身の呼吸と無数の足音が耳障りで、こころの内を乱していく。
――いいえ、そうじゃない。
この苛立ちの原因はおそらく、〝恐怖〟なのだろう。危機に陥ったことはこれまで幾度となくあったが、自分の城が攻められ、荒らされるのはもちろん初めてのことであった。
しかも、兵士ではない一般の者たちまで倒れていく。この異常な状況に内面は激しく揺さぶられ、自身でもどこまで正気でいるのか定かではなかった。
――前線で戦っているみんなは、いつもこんな恐怖を覚えていたのね。
どんな理由があれ、やはり後方で控えているだけの存在は卑怯者だ。これは、そんな自分に対する天罰なのかもしれなかった。
――いけない。
アーデは首を振って、後ろ向きな感情を打ち払った。
――こんなことじゃいけない。今もまさに、仲間たちは剣を手に戦ってくれているのに。
感傷に浸ることさえおこがましい。仲間から指揮を託された自分がしっかりしなくてどうする!
弱い自分を強引にでも叱咤し、動かない体をみずから鞭打つ。
前方から、かすかな明かりが見えてきたのは、足が悲鳴を上げはじめた頃のことだった。
「出口だ。注意しろ」
先頭を走るレベッカが全員に呼びかけた。さすがに体のつくりが違う翼人は、息を乱すことさえない。
上りの階段がはっきりと見えてくる。そこを駆け上がり、光待つ地上へようやく出られた。
急に光量が増したことに、人間の面々は目を細めた。
周囲に広がる光景は、見慣れぬものであった。背の高い木々がまばらに生え、町の城壁は遠くに見える。
どうやら、確実にシュラインシュタットの外までは来たらしい。脱出は成功したかのように思われた。
だが、そうではないことをアーデはすぐに思い知らされた。敵の姿が見えたからではない、レベッカもレーオも、そしてあのシェラもまったく緊張を解いてはいなかった。
否、その警戒感はいや増した。
全員が足を止めた直後、辺りに散らばった気配の主が一斉に現れた。
「翼人……」
眉をひそめるレベッカの視線の先では、上空から次々と見知らぬ者たちが舞い下りてくる。
「それだけじゃないぞ、レベッカ……」
レーオの視線の先では、わずかではあるが土煙が上がっていた。
「あれは……!」
アーデらの正面から見る間に迫ってくるその姿は、統一された鎧をまとう人間の一団であった。
胸に刻まれる星の紋章は、まぎれもなく敵国ダスクのものであった。
「共和国の正規部隊!? どうやって、ここまで!?」
――お兄様のノイシュタット本軍が破られたとでもいうの!?
いや、そんなはずがない。仮にノイシュタット侯が倒れたとしても、国境線から二重三重の防衛線が張られているのだ。この短時間でそのすべてを突破してここまでやってくるというのは理にかなっていなかった。
――落ち着け。まだ取り乱すような状況じゃない。
「逃げるぞ! ここでは袋叩きにあってしまう!」
レベッカの号令一下、それぞれがもう一度動きだした。確かにこの場に留まっていては、敵の思うつぼ。今はともかく、逃げに徹するを打つしかなかった。
「どうしてここが!?」
「アーデ、冷静によく考えてみろ」
「レベッカ……」
「理由はひとつだ。ノイシュタット側に内通者がいたとしか考えられない」
――やっぱり、そうなのか……
わかってはいたことだった。本当に一枚岩になれる組織なんて存在しない。それぞれが独立した個人として存在する以上、いくらかの齟齬はあって当たり前。
それさえも否定するのなら、ただの夢想か恐怖政治に他ならない。
――でも、こんな……
もし新部族側にも裏切り者や間者がいたのなら、それは自分の責任であった。
歯噛みするアーデの前方に異質なものが見えてきたのは、追っ手の声が間近にまで迫ってきたときのことだった。
「待て、みんな!」
レベッカの鋭い声に、危機感をつのらせながらも足を止めるしかなかった。
「どうしたの?」
「…………」
何も言わない女戦士を訝ってその視線の先を追うと、前方に|あってはいけないはずの《、、、、、、、、、、、》光景が広がっていた。
「え……」
最初、〝それ〟がなんなのかまるで認識できなかった。いや、わかってはいたのだろう。だが、明確すぎるほどに頭がそれを拒絶していた。
地上に横たわるいくつもの物体。
それらはすべて、城で働いていた者たちの虚しい骸だった。
「!」
一瞬、息が詰まる。見知った者たちが、男も女も関係なく無惨にも殺され、血に染まっていた。
「アーデ……。レーオ、そっちは」
「駄目だ、レベッカ。みんな事切れてる。それに、もう行き止まりだ!」
「そうか、みんな俺たちと同じようにここに追いつめられたんだな……」
誰も武器は持っていない。にもかかわらず、『ノイシュタットの関係者だから』『侯妹かもしれないから』というだけで、一方的に命を奪われた。
そのあまりに無慈悲な行いに、レベッカは体の奥底から突き上げてくる怒りに震えていた。
――戦士でない者までその手にかけるなんて。
ヴォルグ族。
かつて、自分の大切なものをすべて奪った存在。憎んでも憎みきれず、あのときの光景だけが残影となって目に焼きついて残る。
だが、魂を揺さぶる怒りの炎は、より体の小さなアーデのほうが遥かに凌駕するものがあった。
「許さない――」
握りしめた拳は、小刻みに揺れていた。
「許さない、ダスクッ!」
憤怒の女神から発せられる圧倒的な覇気に、それまで突進してきた敵兵らが確かに足を止めた。あまりの波動に、先頭を走っていた者は息をすることさえできない。
「憎しみのためじゃない、同じ犠牲、同じ悲しみをけっしてくり返さないために、ダスクと〝虹にかならず真実の制裁を下してやるッ!」
燃え盛る瞋恚の炎に、アーデと対する者たちはまったく圧倒され動けなくなっていた。
それは、味方の面々にしてみても同様だった。
――アーデ、やはり君は――
レベッカにとって、アーデはまぎれもなく己を賭けるに足る人物であった。
この胆力、この将器。
だが、それらとてつもない秘められた可能性とともに、危うさを感じてもいた。
内に宿る無形の力があまりにも大きすぎるのだ。その炎は深奥からみずからの身をも焦がし、やがては本人の意志とは関係なく周囲へと燃え広がっていくのだろう。
――自分が歯止め役とならなければ。
そう思う。アーデはきっと、これから世の中をいやおうなしに変革していく人だ。望むと望まぬとにかかわらず、あらゆる存在を巻き込み、それに反発する者もかならず出てくる。
それでも、彼女は止まらない。問題は、そのときに発する熱が周りにどう影響するかだった。
――ユーグもそれをわかっている。
だからこそ、あえて常に諫める言葉を吐いているのだろう、憎まれ役を買ってまで。やり方は違えど、同様の覚悟が自分にはあった。
レベッカがそんな物思いにふけってしまうほど、不可思議な静寂が辺りを包んでいた。
敵の将らしき人物がはっと気づいてあわてて声を上げたのは、しばらくしてからのことだった。
「何をしている! 行けっ!」
あっと思った一団が、弾かれたように再び動きだした。
元より逃げ場はなく、対処法もない。アーデらは、再び戦闘態勢に入った襲撃者たちをただ見ていることしかできなかった。
突然、前へ進み出たのは、これまで厳しい目つきで口を閉ざしていたミロードであった。
「レベッカ殿、レーオ殿、やっぱりここは我々が時間を稼ぎます」
「はい。そのあいだに、アーデ様を連れて飛んでください」
見習い騎士の意図を察したシェラも同意した。
しかし、唖然としたアーデが口を開くより早く、レベッカはより険しい表情で即座に否定した。
「駄目だ」
「どうして!?」
「――翼人の数のほうが、多い」
上空を見上げれば、無数の翼が次から次へと舞い下りてくる。
つまり、空へはもう逃げられない。
――しまった、完全に追い込まれた。
アーデは、自分たちの大きな過ちを悟った。
万事、休す。
やがて後悔する間もなく、死神がすぐ間近に訪れるだろう。
――お兄様、みんな、ごめんなさい。
自分たちがここで倒れたとなれば、この戦がどう転んでも残った者たちにきっと大きな迷惑をかけることになるだろう。
それが申し訳なかった。己の志を成就するどころか、余計な禍根を残してしまうことになろうとは。
いろいろな言葉、いろいろな人たちの面影が、脳裏に浮かんでは消えていく。やがて、それらはひとりの人物の像を結んだ。
――お兄様――
もっとも身近で、もっとも自分のことを心配してくれた人。
唯一の肉親。
そんな陳腐な言葉では数多ある思いを表わしきれないほど、深い絆があった。
そんな愛しい兄が今身近にいたとしたら、なんと言うだろうか。
「アーデ、生きろ」
はっとして視線を上げると、目の前に剣を構えた朱い翼の女性がいた。
「レベッカ……」
「生き抜くんだ、なんとしても。私はこんな状況、これまで何度も経験してきた。なんとかして突破してみせる」
歴戦の女戦士は、果敢にもみずから前へ歩を進めようとした。
だが、その勇気は儚かった。
数という名の暴力に、レベッカでさえほとんど何もすることもできずに圧倒される。レーオやシェラたちも、すぐに倒れないようにするだけで精いっぱいだった。
「みんな――」
自身も弩弓を構えながら、あえて大切な仲間たちに呼びかけた。
「ここまで来たら最期は一緒にいましょう」
ひどく追いつめられた状況とは思えぬ穏やかな顔。それがアーデの純粋な思いだった。
「今までの行いが無駄ではなかったと、残された者へ知らせるためにも」
剣を振るいながらもその言葉を、仲間たちは確かに聞いた。
――この人をけっして死なせてはいけない。
その思いを同じくする。されど、切迫したこの現実はもはやどうしようもなかった。
最初に膝をついたのは、ミロードだった。レベッカらも後ずさり、いよいよ最後尾のアーデまで抜き身の刃が迫った。
――ごめんね、みんな。
この瞬間、思い浮かんだのが兄でもオトマルでもなくあのいけ好かない男の横顔だったことにむっとしながらも、アーデは弩弓を下ろそうとした。
とてつもない雄叫びが上がったのは、その直後のことであった。
と同時に足下から響いてくる地鳴りの音が、ほとんど瞬間的に高まっていく。
帝都とフィズベクで戦場を経験しているミロードにはすぐにわかった。これは――
「騎馬隊の音だッ!」
言う間に、東側から巨大な土煙がもうもうと上がり、遠目のきくレベッカにはすでにその姿が見えていた。
「ノイシュタット軍――ユーグの隊だ!」
その勢いは、圧倒的の一言。
あっと思った直後には、最前線の槍騎兵が眼前にまで迫り、呆然と立ち尽くす共和国の兵士らが、その大波にあっさりとのみ込まれていく。
蹴散らす、などという次元ではない。ほとんど路傍の石のごとく踏まれ、薙ぎ倒され、抵抗するどころか一歩引くことすらままならずに、敵兵は軍馬の中へと消えていった。
空中にいる翼の者たちも例外ではない。馬に乗る騎兵らがなぜか大型の弩弓を両手に持って、次から次へと矢柄の太い矢を放っていく。
その速度は凄まじい。翼人らがかわす間もなく、ただの的となって貫かれていく。
しかも、それだけではない。そのさらに上空、人間には点にしか見えない高さから、続々と色とりどりの翼人らが舞い下り、残った敵を屠っていく。
さすがのアーデらも唖然となるなか、程なくして例のいけ好かない男の声が聞こえてきた。
「近衛隊はここに残れ! 他は、そのまま侯都内の敵兵を蹴散らしていくんだ!」
命令どおり、波に乗った隊に止まる気配はまるでない。
その本隊の一部がアーデたちを取り囲んでから、長たるユーグが馬に乗ったままずかずかと歩み寄ってきた。
「遅れました、申し訳ありません」
「ユーグ……」
「ん? 何を泣いてるんですか、らしくもない」
「ち、違う。怖いんじゃなくて、仲間を追いつめてしまったことが申し訳なくて……」
「感傷に浸っている暇があったら、次のことを考えてください」
相変わらずかちんと来る物言いだが、今はなぜかそれが頼もしかった。
いつの間にか出てしまっていた涙をすぐにぬぐって、息の乱れていない長身の騎士に向き直った。
「でも、なんでここに? お兄様のほうは――」
「フェリクス閣下の命で戻ることになったんです。結果的には大正解でしたね。ここまでぎりぎりになるとは思いませんでしたが、さすがのご判断でした」
「それにしても早すぎない? フィズベクからだと、いくら急いでも二日はかかると思うけど」
「フィズベクから、ならね」
「何ニヤニヤしてるの?」
わざとらしく咳払いしてからユーグは答えた。
「……別の兵をあらかじめ用意しておいたんですよ、シュラインシュタットの近くにね」
「兵って、ユーグの隊は全部フィズベクへ行ったはずじゃ――」
「もちろん、ノイシュタットの兵士ではありません。そんなことをしたら、フェリクス閣下にばれてしまいます」
「じゃあ、新部族の? でも、あんなに人間の仲間いた?」
「厳密には違います」
「は?」
「ほら、来ましたよ」
ユーグの視線を追うと、なぜかロバに乗った白髪の技師が近づいてくるところだった。
「あ、ヴィトーリオ……」
「ちっと遅れてすまんかったな、姫さん」
にかっと笑うと、アーデの目の前で年不相応の俊敏な動きでロバから飛び降りた。
「どういうこと、ヴィトーリオ?」
「どうもこうも見てのとおりだ。人間のみの隊を新たにつくったんだ」
「人間のみ?」
「この世界は偏見に満ちておる」
「そうね」
「だから、何も知らない人間に、協力的な翼人もいるから今すぐ仲良くしようと言ったところで無理があるだろう?」
「――わかったわ。それで、まずは翼人のことはともかくとして、人間の義勇軍をつくることにしたのね」
「そのとおりだ。それで、徐々に新部族との融和を進めればいい。その崇高なる理念の元に結成されたのが、そう、この新しい互助組織〝明星〟だっ!」
小柄な技師が胸を反って高らかに宣言したものの、周りの反応は思いのほか薄かった。
「……なんでもっと感動してくれんのだ、うん?」
「なんでって、私、なんにも聞いてないんだけど」
「あ? 言ってなかったか? ナータンには伝えたはずだが」
「ナータン? あいつ、言うの忘れてたな……」
あとでたっぷりお仕置きしてやろうと誓うアーデであったが、すぐ近くの茂みに当の彼が怯えて隠れていることにまったく気づいていなかった。
その不満を手近にいた標的=ユーグに向けはじめた横で、レベッカが己の剣を鞘にしまいながらヴィトーリオに向き直った。
「助かった、ヴィトーリオ。今回は、本当に最期を覚悟した」
「なんの。ほんとは、もっと早くに来たかったんだがな」
「――ナータンから、ヴェーヌスの準備はもっと遅れていると聞いていたが」
「うーん、人員はそろっておったし、訓練も進んではおったのだが、なかなか新部族のことを理解してくれなくてな。それより、翼人のことか。やはり、帝都騒乱や数々の襲撃事件で過敏になっとるな。物分かりの悪い奴らではないんだが、実際の編成に手間取ってしまった」
「それでアーデには知らせなかったのか」
「ナータンの判断だろう」
小声で話すレベッカに、ヴィトーリオははっきりと首肯した。
「これ以上姫さんの心配ごとを――というより、仕事を増やしたくなかったんだろう。わかってやってくれ」
「それはわかってる。翼人より人間の人員を増やすことが難しいことも」
「ま、翼人を襲う人間はいなくても、その逆はよくあるからな。ああ、でも、リファーフのような件もあるか……」
「翼人がどうしたって?」
「人間と関係性を結ぶのはまだ難しいという話だよ、姫さん」
話に割って入ってきたアーデが、思い出したとばかりにユーグに問うた。
「ヴェーヌスはともかくとして、あなたはどうやってここまで来たの? 翼があるわけでもないのに。仲間に運んでもらったとか」
「新部族の翼人は、共和国が動員してきた翼人を相手にするので手一杯でしたからね。私も、もうどうしようもないかと思っていたんですが、意外な者たちが助けてくれましたよ」
「意外?」
「〝極光です」
「!」
「彼らが、我々をまとめて運んでくれたんです。まあ、初めは相手の意図を疑いましたけどね」「アウローラが……」
天を見上げても、もはや先ほど助けてくれた翼人の姿は点も見えない。
「じゃあ、さっきのは――」
「ええ、うちではなく彼らの隊です。人間側に戸惑いはあったようですが、それでも初めてにしてはまあまあでしたね」
ユーグの言葉にヴィトーリオはうなずきつつも、天を仰いだ。
「その辺は厄介な問題だ。物理的な距離はすぐ詰められるが、こころの距離はそうはいかん。こりゃあ、時間がかかるだろうな」
「いいわ、いくら時間がかかっても」
アーデは真顔で言い切った。
「何もやらないよりは遥かにましよ。少しずつでも前へ進んでいけばいい」
それは、皆に共通した思いだった。元より、新部族も初めから一枚岩だったわけではない。否、今だってその途上だろう。
立ち止まることさえなければ、いつかきっと願いは成就する。それを信じて、生きていくほかなかった。
「それにしても、騎兵が弓を使うなんてね」
「面白いでしょう? 騎馬の機動性と弓の射程を組み合わせたんです。ま、揺れる馬の背で狙いをつけるのは大変ですけどね。我々の〝騎弓兵〟なら、そこらの弓使いには負けません」
鼻高々な様子でそう言う男にアーデは無性に腹が立ったが、今ばかりは何も反論できなかった。
その沈黙とあからさまに不機嫌な顔を別の意味に受け取って、青年騎士は居住まいを正した。
「申し訳ありません、殿下。まさか、敵がここまでのことをしてくるとは思いませんでした」
「何言ってんの。それを予測するのは私の役目でしょ。こちらの責任じゃない」
「ですが――」
「もういい」
アーデは、あえて背を向けた。
「今回のことで、本当に自分の弱さを痛感させられた。私は、もっと自分の刃を磨く」
せめて、自分の身くらい自分で守れなければ。
だが、否定の声はすぐ近くから上がった。
「それは違う」
「レベッカ……」
「アーデの刃は我々だ」
朱色の戦士は、先のアーデの言葉を思い起こしていた。
〝憎しみのためじゃない、同じ犠牲、同じ悲しみをけっしてくり返さないために、ダスクとイーリスにかならず真実の制裁を下してやるッ!〟
そのために剣を振るうのは、あくまで自分たちだ。以前からこころに決めていたことではあったが、その思いを新たにしていた。
「アーデは、後ろに控えていてくれればいいんだ。そのほうが、みんなも安心する」
「そうです。殿下は、あくまで我々を率いる立場/指揮官なんですから。今回のようなことには二度としないと誓います。心配はありません」
「ユーグ……。でも」
「自分の役割を勘違いしてもらっては困る。それこそ、越権行為だ。私たちの役目を奪わないでくれ」
「――――」
ここまではっきりと思いをぶつけられて、今さら何かを言えようはずもなかった。
口を突いて出てきたのは、ただ一言のみ。
「ありがとう、レベッカ」
翼人の女戦士は、ひとつうなずいただけだった。
「ユーグも……も、戻ってきてくれて、ありがと……」
「は? なんですか?」
「もういい!」
まったくこの唐変木は淑女の健気な想いも知らないで――などとぶつぶつと文句を言いはじめた姫の理不尽な怒りに、ユーグがいつものように眉をひそめた。
レベッカたちの顔にようやく笑みが戻ってきたのは、そのときのことだった。
だが、一瞬ののちに、その表情が一変することになった。
「あれは……」
最初に気づいたのは、未だ低木の茂みのなかに隠れたナータンだった。
南の空に、いくつかの黒い点が見える。
「ねえ、ユーグ」
「あっ、ナータン! そこにいたのね!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、アーデ。さっきの隊とは別に、アウローラには他の部隊もいたの?」
「他の部隊? なんの話だ」
「じゃあ、あれはなんなんだよ」
ナータンが指さす先には、徐々にその姿が大きくなりつつある影があった。
しかし、それを見るべきではなかったのかもしれない。特に、すでに滅びたクー族のレベッカは。
「あれは――」
その特徴的な紅色の翼を見た瞬間、ようやく落ち着いたレベッカの目に烈火のごとき熱が宿った。
「ヴォルグ族ッ!」
あの翼を見まごうはずもない。
自分からすべてを奪った部族。
情け容赦なく、女も子供も関係なく手にかけていった者たち。
そして何より、リゼロッテの――
あの子の面影が浮かんだ刹那、危険なまでの怒気が一気にふくれ上がり、復讐の刃を握りしめた女戦士は周りが驚くほどの声を上げてすぐさま飛び上がろうとした。
「待って、レベッカ!」
反射的に呼び止めたのは、すぐ隣にいたアーデだった。
「行かせてくれ、アーデ! 私は、なんとしても一族の仇を討たなければならない。無念のうちに死んでいった戦士たちの思いを今こそ晴らすんだ!」
すさまじき激昂にも、アーデはしばらく何も言わなかった。
再び口を開いたのは、怪訝に思ったレベッカが焦れてきた頃合いだった。
「ごめん、レベッカ」
「アーデ?」
「あなたの思い、あなたの使命感が強いことはわかる。でも、今は、今だけは、すでに死んだ人のことより今を生きている人のことを考えて」
――アーデ。
はっとさせられるとは、まさにこのことだ。
その一言に、いったいどれほどの思いが込められているのか。
言葉の意味するところの大切さに気づけていなかった自分は、愚かだった。
「……すまない、私がどうかしていた」
「謝らないで。私は、世の中に正当な復讐はあるって思ってる。こんな言い方しかできなくてごめんなさい」
「いや、言ってくれてよかった。今は、仲間とこの町のことを優先する」
「ありがとう」
もう長い付き合いになる二人のあいだにある絆は、一時の感情で壊れるほど薄っぺらなものではなかった。
とはいえ、空に見える複数の翼が本当に翼人の世界で悪名を轟かすヴォルグ族となると、大きな問題になることは確実であった。
「いったい、なんの目的があって……」
答えたのはユーグだった。
「今の段階では憶測することも難しいでしょう。いずれにしろ、厄介なことになるのは間違いありませんね」
「アウローラは?」
「さあ……。そういえば、うちにひとりいたじゃないですか」
「アイラか。彼女は?」
レベッカは首を横に振り、レーオは呆れたように肩をすくめた。
「自分たちでさえこれだけ混乱してたんだぞ。新入りたちがどこにいるかなんて、確認できてるはずがないだろ」
「それもそうね」
「それに、あまり触れてやらないほうがいい」
「わかってるわ、レベッカ。ヴォルグ族から追放されたとなると、相応のことがあったんでしょう。誰にでも、触れられたくない過去はあるし」
そういったことを詮索しないというのが、新部族における暗黙の了解でもあった。
「ヴォルグ族、か」
突然現れた、翼人の世界における鍵となる部族。だが、謎は多く、彼らの内情も行動原理も未だ知れない。
これまで自分たちには直接の接点はないものと思ってきたが、ここへ来ていきなり接触することになろうとは。
アーデの目が、すっと細められた。
「レベッカには悪いけど――」
「気にしなくていい」
「ひょっとすると、これはちょうどいいかもしれない」
「どういうことだ?」
「人間の世界も翼人の世界も、もう、いろいろなことがごちゃ混ぜになって、訳がわからなくなってる。以前から活動してきた私たちでさえ、ね。だけど、今までいろいろな形で名前が出てきたのに、あのヴォルグ族だけはかかわりがなかった」
「そうか、これでいい悪いは別にして〝つながり〟はできたということだな」
「そう。彼らの真意はわからないけど、やっぱり世界は動きはじめたんだと思う」
なし崩しにすべてが巻き込まれ、流れていく世界。その荒波のなかで、自分たちに何ができるのだろうか。
「ここで立ち止まっていてもしょうがないし、すぐに見張り役を――」
「その必要はねえ」
男の低い声は、上から降ってきた。
「あ、ゼーク!」
「お嬢、無事だったみてえだな」
下に降りてこないまま、ゼークは皮肉げな笑みを浮かべた。
「私のことより、その必要がないってどういうこと?」
「速い連中をすでに偵察に行かせた。それにヴォルグだからな」
「だから?」
問いかけたアーデが見た彼の目は、いつになく深い色をたたえていた。
「どっちにしろ、奴らは構わなくていいかもしれねえ。いや、ほっといたほうがいいだろう」
「なんで?」
「どうせ、心臓目当てに来ただけだ。人間には、とことん無関心だからな。というか、意識的に避けてやがる」
「ふぅん」
「わかってるとは思うが、絶対に仕掛けるんじゃねえぞ。あいつらは、実際には慎重だ。無益な勝てねえ戦いをするような奴らじゃねえ。こっちからちょっかいを出さないかぎり、何もしてこねえだろう。ま、数しだいだがな」
「やけにくわしいじゃない」
「……ヴァレリアから聞いたんだ」
皆が、あっと思った。
――そうだった、ヴァレリアもヴォルグ族の出身だった。
そばにいるのがあまりに自然だから、これまでまったく意識していなかった。
「そういえば」
「何、レーオ」
「彼女も来てたぜ、ここに。誰か捜してるみたいだったけど」
「…………」
〝極光〟との会合以来、ずっと会っていない。だが、要点はそこではなかった。
いろいろなことが、いろいろなところで動きはじめている。それぞれが単独で動いているように見えながら、すべてはかならずどこかでつながっているはずだ。
――これが、世界を綾なす糸。
自分はどこまでそれを紐解き、全体の流れをよりよき方向へ変えていけるのだろうか。
背後に見える故郷シュラインシュタットの街からは、未だ不穏な煙が上がりつづけていた。




