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第九章 第十三節

 周囲を暗闇に包まれていても、はっきりと風を感じる。

 自分はおそらく空中にいるのだろう、それもかなり高い位置に。

 ――うかつだった。

 油断があった。

 状況の把握のために仲間を方々へ派遣したあと、拠点に残ったのはわずかな人員のみ。みずから孤立する状況をつくってしまった。

 ユーグがいたら諫めたのだろうが、他のみんなもどこか冷静さを欠いていたのだろう、反論の声はまるでなかった。

 しばらく待っても連絡がない。城のことがどうしても気になることもあって、こらえきれなくなった自分がそちらへ移動しようとしたときだった。

 突然、背後から口を押さえられた。『なんだ!?』と思った次の瞬間には気を失っていた。

 そして気がつけば、この状態。独特の匂いからして麻で編まれた袋に入れられているらしい。

 無礼な振る舞いにかっと頭が熱くなるが、今ここで暴れても意味がない。それよりも、可能なかぎり周囲の様子を探った。

 自分は誰かに抱えられている。といっても、上空にいて、しかも力強い羽ばたきの音が聞こえるということは、相手は翼人に違いなかった。

 こちらの腰を抱え込んでいる腕は、引きしまってはいるがわずかにやわらかさを感じるものだ。

 ――どうやら、相手は女らしい。

 女性の翼人に憎まれるようなことをした憶えはないのだが、何かしらの狙いがあるのだろう。そうでなければ、ここまで用意周到にやることはなかったはず。

 恐怖よりも、状況が判然としないことへの苛立ちがつのる。

 今まで気を失ったままの振りをしていたが、思いきって暴れてみようかなどと、せっかちなアーデが不穏なことを考えはじめたとき、変化はいきなり訪れた。

 風の向きが急に変わった。いや、飛ぶ方向を変え、どうやら降下しているようだった。

 程なくして着地したのがわかる。風が止まり、体が揺れることもない。

 襲撃者はおもむろに歩きだしたが、すぐに立ち止まり、木の軋む音が響く。

 ――扉を開けたようね。

 そしてさらに数歩進むと、少し勢いをつけて荷物(、、)を放り投げた。

「!」

 しばらくの危険な浮遊感のあと、やわらかい(わら)の感触を全身で感じた。

 ――このっ……!

 ぞんざいな扱いに、瞬間、再び頭に血が上るが、わずかな理性が感情をなんとか抑え込む。

 扉が閉められ、その足音から相手が遠ざかっていくのがわかる。

 ――そんなに大柄ではないみたい。

 歩幅と音の大きさからして、中肉中背といったところだろう。結局、これといって特徴を摑めないまま、女性であろう翼人は飛び去っていった。

「…………」

 ――さて、と。

 すぐに動きだす。いつもふところに隠し持っている短剣を取り出し、足を縛る縄を切り、袋を破って外へと出た。相手は油断していたのか、こちらの持ち物を確認しなかったようだ。

 自分がいるのは案の定、小屋の中だった。粗末な造りのもので、四方の壁に窓すらない。猟師小屋なのか、壁にはいくつかの弓矢が掛けられていた。

 アーデはすぐに立ち上がり、扉へ向かった。

 いったいどれくらい気絶していたのか、見当もつかない。少なくともシュラインシュタットの状況は、すでに大きく変化しているだろう。

 ――まさか、こんなときに。

 ただでさえ想定外のことが起きて対応が難しくなっているというのに、貴重な時間をかなり奪われてしまった。

 いけないと思いつつも、焦りを抑えきれなかった。

 それにしても、襲撃者の狙いはなんだったのだろう。わざわざ自分だけをさらったということは、相手が敵であることは間違いない。

 しかしそれならば、なぜこちらの命を奪わなかったのか。そうしておけば、後顧の憂いを絶つことになっただろうに。

 ――私だったらそうしている。

 今のところ、考えても答えが出そうにない。アーデはドレスの裾を持ち上げるのももどかしく、扉へ向かった。

 木製の取っ手がついただけのそれを押し込んでみる。

「あれ?」

 がちゃり、という金属質の音が鳴るだけでびくともしない。試しに引いてみるが、結果は同じだった。

 ――しまった、そういうことか。

 人質。

 自分が生かされているのは、ノイシュタット、もしくは新部族を脅迫するための材料として使うためだったのだ。

 ――まずい、このままじゃ……みんなが。

 仲間の危機に対する恐怖が、アーデを突き動かした。

「誰か! 誰かいないの!?」

 扉を叩き、わざと激しく音を立てて外へ向かって叫ぶ。さっきまでは、脱出するのに周囲に人の気配がしないのはちょうどいいなどと考えていたが、様相は一八〇度変化した。

 急がなければみんなが危うい。脅しに屈するような連中ではないと信じているが、状況が状況なだけに場合によってはわからなかった。

 それは、互いの絆が強すぎるから。

「誰か! 誰かッ!」

 女の自分の力では、扉を強引にぶち破るのは難しい。かといって窓もないからには、一縷の望みにかけて外の誰かが偶然気づいてくれるよう叫びつづけるしかなかった。

 だが、その可能性は低い。ここが猟師小屋であるということは、おそらく森の奥深くにあるということ。日中であろうと、そこを訪れる人の数は限りなく少ないであろうことは子供でもわかる。

 それでも、あきらめるわけにもいかなかった。自分がこの状態にあるということは、仲間を危険にさらすということ。一刻も早く脱出しなければならない。

 焦れたアーデは、どこかがもろくなっていないかとあちこちを蹴ったり叩いたりしたが、意外に構造は頑丈らしくびくともしない。

 小屋の中に割られた薪があるのでどこかに斧があるはずなのだが、残念ながら見当たらなかった。

 しばらくの間、外に呼びかけつづけたが、悲しいほどに変化はない。

 いい加減、喉も腕を疲れ果て、息が切れて苦しい胸を手で押さえたとき、ふと、以前レベッカにもらった贈り物のことを思い出した。

 ずっと首からさげてあったそれを、あわてて取り出した。

 小指よりも小さい木製の細い笛。以前、レベッカからもらったものだった。

 これを吹いたときの音は、人間にはまるで聞こえないが、翼人にはかなり遠くにいてもはっきりと聞こえるらしい。

 急ぎ、それを使おうとするが、もしもの可能性があった。

 ――もしも、味方ではなく敵に見つかったら。

 首を振って余計な考えを振り払った。

 そんなこと、今は気にしている場合ではない。いずれにせよ、追いつめられている状況に変わりはないのだ。だったら、すぐにやってみるだけだった。

 両手で笛を持って、思いきり息を吹き込んだ。

 空気の抜ける音しか聞こえない。しかしこれでほぼ間違いなく、この辺りにいる誰か(、、)には聞こえたはずだった。

 あとは待つしかない。

 祈ることはしなかった。ただの当てずっぽうなのだ。元からうまくいく可能性は限りなく低い。

 しばらくして、比較的近くから翼の羽ばたく音が届いた。

 仲間だろうか。

 ――違う。

 聞いたことのない音。こころのどこかでレベッカが来ることを期待していたが、そんな都合のいいことがそうそう起こるはずもなかった。

 程なく、相手は降り立った。

 足音が小さい。女性だろうか。

 すぐに、金属が弾ける甲高い響きがこの室内まで届いた。

 いやがおうにも緊張感が高まる。少なくとも敵ではないことを祈らずにはいられなかった。

 扉の向こうにある光の中から現れたのは、意外な人物だった。

「あ、あなた……」

 左右に広がる黒い翼。やや童顔の顔。

 拠点の牢から逃げたアーベルに他ならなかった。

 向こうも驚いたらしく唖然とした表情のまま立ち尽くしていた。

「お前、なんでこんなところに……」

「それは私の台詞。勝手に牢から出て、どこかへ行っちゃって」

「牢から抜け出そうとするのは当たり前だ」

 それもそうかと妙に納得してしまったアーデではなく、アーベルのほうが疑問の声を上げた。

「なんでお前が呼び笛を持っている」

「仲間にもらったからに決まってるでしょ。何? あなた、もらったことないの?」

 図星だったらしく、一気に不機嫌な顔になった。

 ――扱いやすいんだか、扱いづらいんだか。

「まあいいわ。ちょうどいいから、私を前の場所まで連れてって」

「なんで僕がそんなことを(、、、、、、)

「あなた、私たちに借りがあるでしょ。命は助けてあげたんだから。それなのに、恩を仇で返すようなことをしてくれちゃって」

「借りも恩もない! 僕を子分扱いしないでくれ!」

 ――駄目だったか。

 無理難題をさも当然のことのようにふっかけ勢いで押し通す〝アーデ論法〟は、さすがにここでは通用しないようだった。

 だが、暴君は暴君ゆえにめげなかった。

「本当はヴァイクに聞きたいことがあるんでしょ。素直になりなさい」

「…………」

 ――脈あり。

 アーデは攻勢に出た。

「今しかないのよ、アーベル」

「僕は、あんな奴のことなんか……」

「じゃあ、このままでいいの? 何かを変えたいという望みはないの?」

「……僕たちは、自分の手で世界を変える」

「え?」

 思わぬ返答に、かえってこちらのほうが面食らってしまう。

 だが、ただでは転ばぬアーデは、この機会を逆に利用することにした。すぐさま言葉を発していた。

「あなたたちにはそんな大それたことはできない」

「できる! そのための用意をずっとしてきたんだ。すでに人間のいろんな集落を僕たちが救ってきた」

「用意?」

「ああ、もっと大きいことをするんだ。準備段階は、もう終わりだ」

「でも、あなたたちの組織の規模じゃ、たいしたことはできない」

「僕たちをなめるな! 〝(イーリス)〟の大きさは、お前たちが想像しているようなもんじゃない。みんなで力を合わせればやれるさ」

「無理よ」

「黙れ! 人間の国も何もかも滅ぼし、僕たちがこの辺り一帯を完全に支配下に置いてやるんだ!」

 ――やっぱり。

 予想していたこととはいえ、十分に衝撃的な内容だった。

〝虹〟は、このノイシュタット侯領そのものを狙っている。

 アーデの表情が変化したのを見て、アーベルは自身がしゃべりすぎたことを悟った。

「……とにかく、僕たちはやるといったらやるんだ。お前たちの意見なんか関係ない」

 ――〝お前たち〟ね。

 きっとヴァイクたちの言葉もずっとこころに残っているのだろう。変なところで素直ではあった。

「お前は特別に見逃してやる。巻き込まれたくなかったら、おとなしくしているんだな」

「あっ、ちょっと!」

 呼びかける間もなく飛び立ち、そのまま行ってしまった。

 止めようとしても止まるような男ではないのだろうが、どうにかして思いとどまらせるべきだったのではないかと、わずかな後悔が残った。

 しばらく飛び去る彼の背中を見つめていたアーデであったが、はっと我に返った。

「こんなことしてる場合じゃなかった。急がないと……!」

 アーベルが開けっぱなしにした扉をくぐり、外に飛び出た。

 予想どおり、森の中ではあった。しかし、その外延部らしく平原がすぐ近くに見える。

 どこか見覚えのある風景だった。

 ――ひょっとして、あの(、、)リファーフの村の近く?

 忘れられぬ忌まわしい記憶。だが、それは翼人たちにとってこそ最悪の光景だった。

 ――私と同じ人間がやったのなら、他人事にはできない。

 責任の一端はあるということ。村の人間にすべての責任を押しつけておしまい、とするわけにはいかなかった。

 後ろ向きになる己の気持ちを無理やり奮い立たせて走った。太陽の位置と影の方向、そして現在の季節を考慮すればおおよその方角はわかる。

 ――一刻も早くシュラインシュタットまで戻らないと。

 ここがリファーフの近くだと想定して向きを決めるしかない。もし合っているなら、そのうち街道にぶつかるだろう。

 はたして、見慣れた風景が視界に入ってきた。昔からよく通る街道を見まちがえるはずもない。

 悲劇、というにはあまりにも生々しく痛々しいことが起きた現場が見えてきた。

 荒れ果て、人の気配がないそこは今や廃村となっていた。

 ――当然の報い。

 同情する気は毛頭ない。自分としては、もっと痛めつけたうえで鎖で縛り上げてやりたいくらいだった。

 家畜のように扱われていた翼人たち。

 自分が傷つけられるよりずっとつらかった。

 ――けど、憎しみにとらわれてはいけない。

 憎悪を純粋な怒りへと変えよう。その炎によってこの世界を変えてやる。

 決意を新たに、アーデは西へと向かう。息を切らし、激しく揺れる肩には今、多大な重圧がのしかかっていた。

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