第九章 第十二節
空から見下ろす地上の人の動き、生き物たちの気配に不穏なものを覚え、ヴァイクは嫌な焦りを感じながら先を急いでいた。
大きいはずのシュラインシュタットの街は未だ見えてこない。最速で飛んでいるつもりだが、たまりにたまった疲れがこれ以上の無理を明確に拒絶していた。
――〝虹〟の隊。
もし〝極光〟の情報が本当なら、これから何かが起こるはずだ。その何かは今のところ想像することさえできないが、新部族の連中に急いで伝えなければならなかった。
わずかな異変に気づいたのは、目的の場所の近くにある丘の上空まで達したときのことだった。
「なんだ……?」
前方に、地上から空へと伸びる薄い白色の筋が見える。それがひとつ、ふたつと増えていき、やがて重なり合って大きなうねりとなった。
――あれは!
明らかに煙だ。低い位置を漂う茶褐色の幕は土煙だろうか。
すでに何かが起きているのは間違いない。強烈な悪寒を無理やり封じ込めて、シュラインシュタットがあるであろう方向へ急いだ。
少しして、ようやく中心部の様子が見えてきた。
街区を見渡したヴァイクは、顔をしかめるしかなかった。
「また戦か……」
どこもかしこもひどい無秩序のうちにある。逃げ惑う人の数は見る間に増していき、沈静化する気配はかけらほどもない。
目印となるはずの城を探すが、煙で周囲が覆われたせいで方向感覚が狂ってしまう。
――翼人は来てない。
視界の中には、少なくともその姿は見えない。取り越し苦労だったかと思いつつ、目的の場所へ急いだ。
状況が劇的に変化したのは、町の中央部に差しかかったときのことだった。
突如、耳をつんざく激しい音が響いてきた。
驚いて下方を見やると、これまでのものを遥かに凌ぐ土煙がもうもうと舞い上がった。
館のひとつが倒壊していた。周辺に群がる暴徒が嬉々として雄叫びを上げ、次の標的に向かって動きはじめる。
――よほど憎いらしい。
アルスフェルト騒乱とも帝都騒乱とも違う、そこには明確すぎるほどの敵意と憎悪とがあった。
暴徒らの目的も行動原理も知れない。だが、その動きからしてなんらかの狙いそのものははっきりと存在しているようだった。
しばらくするとあちらこちらに火の手が上がり、最初は小規模だった火災が連鎖的に広がっていく。
そこから発生する上昇気流と膨大な煙で翼が勝手に煽られる。
あのときと同じだ。アルスフェルトのあのときと。
――厄介なことになった。
視界が悪いだけならまだしも、これでまともに飛ぶことも難しくなった。こうした混乱の中で状況確認ができず、離脱することさえ困難な状態というのは、それだけで十分危険だった。
――どうする。
と、考えるまでもない。いったん、乱気流の影響を受けない高さまで上がるほかなかった。
地上では、おそらく無関係の人々まで巻き込まれている。それがわかっていても、人間同士の争いに自分が首を突っ込むわけにもいかない。
そんなことをすれば『翼人が来た』と騒ぎになり、かえって混乱が増すだけだ。
やはり、一度は新部族と合流しようと考え、進むべき方向を探った。
中空を漂う薄い煙の幕が漂う向こう側に黒い点が見えたのは、視線を変えようとした瞬間だった。
下の人間たちは気づいていないようだが、翼人の目ならわかる。
その点がひとつ、ふたつと急速に増えていき、そのそれぞれが徐々に徐々に大きくなって、やがて輪郭がくっきりと浮かび上がった。
全員の背にある一対の翼。
――来やがったか。
これまでは人間が暴れているだけだったが、時期が時期だ、何かがあるとは思っていた。
案の定、〝奴ら〟はやってきた。
自身はあえてより高くへと上がってから、相手の様子をうかがう。
色とりどりの翼。
殺気に血走った目。
〝虹〟に間違いない。
――アーベルの姿は――
ない? 彼の性格を考えると、我先にと先頭を飛んでいるかと思ったのだが。
――それにしても、数が多い。
見える範囲だけでも数十人はいる。後方にも同じか、それ以上存在することを考えると、その総数は計り知れない。
だが、それも予想していたことではあった。
メルの村周辺で感じた気配の多さ。それを思えば、これでさえまだ全体の一部なのだろう。
問題は、彼らの目的だった。アルスフェルトのときと同じで、人間の心臓が目的なら抵抗が大きいであろうこんな大都市を狙う必要はない。
〝極光〟はあのとき、もっと大きい目的のために動いていた。
――では、こいつらは。
考えてもらちが明かない。そうこうしているうちに、〝虹〟と思われる一行は街区の上空に達し、それぞれが突然、急降下を始めた。
――やっぱり、そう来るか!
みずからも剣を鞘から引き抜き、すぐさまあとを追う。
もはやこちらの得物に不安はない。戦うなら、最初から全力でいける。
先に下へ向かった者たちが、迷うことなく人間に襲いかかった。
上空からの襲来者に、ただでさえ混乱を極めていた地上が、さらなる狂騒の中へと陥っていく。
通りの片隅で、ひとりの女性が倒れた。
そこへ紺色の翼の男が、剣を振り上げて向かう。
「させるか!」
両者の間に割って入り、一撃を確実に受け止める。それを思いきり押し返してから、叫んだ。
「人間を襲うなんて恥を知れ、〝虹〟!」
男は顔をしかめるものの、その言葉を否定することはなかった。
――つまりはそういうことだ。
相手が戦いを望むなら、受けて立つまで。向けられた剣を素直に受け入れるほど、自分はお人好しではない。
そう、〝あの子〟に誓ったのだ。自分は自分の道をゆく、これからも生きつづけると。
地上から敵を少しでも引き離すため、こちらから飛んだ。剣と剣とがぶつかり合い、甲高い音が弾ける。
こちらの勢いに押されて相手がのけぞったところを、剣の柄頭でみぞおちをしたたかに打ちつけて気絶させた。
しかし、いかんせん数が多い。次の敵がすぐさまやってきて、再び剣を合わせることになった。
どうやら相手は、敵対する翼人がいることは想定済みらしく、こちらのほうへ迷うことなく向かってくる。
――本当に〝あのとき〟のようだ。
不吉な既視感があった。
帝都騒乱。
あのときも、〝極光〟は敵味方の翼人を識別する策を講じていた。〝虹〟もきっと同じように綿密な計画の下、行動しているはずだった。
――アーベル、ヌアド。
彼らはどこにいるのだろうか。少なくとも視界の範囲内では認識できなかった。
マリーアの言葉が思い起こされる。
〝ヌアドがアーベルを捨て駒にしようとしている〟
もしそれが本当なら、この戦いはヌアドとその裏にいる存在が画策したものに違いない。アーベルがまるで気づいていないのなら、自分が止めてやらなければならなかった。
――それよりも厄介なのは……
敵がどんどんと集まってくることだ。さすがに複数の相手と同時に戦うとなると、その攻撃のすべてをさばくことはできず、生傷が少しずつ増えていった。
「ちっ」
このままではこらえ切れそうにない。これからどうするにしても、一度離脱することにした。
目の前の男を思いきり押し返し、距離をとる。
すぐさま背を向けて飛んだ。
地上における混迷の度合いはひどい。平和な町の様子は、今や見る影もなかった。
何もできない自分に、焦りと苛立ちがつのってくる。
――いっそ、〝虹〟だけだったらなんとかなるんだが。
厄介なのは、市民の一部まで一緒になって暴れていることだ。すべてが入り乱れ、誰が敵で、誰が味方なのかさえわからない。
どうやら、新部族はまだ来ていないようだった。
周囲を見やると、町の戦士たちは有効な反撃ができないでいた。弓を持っているにもかかわらず、射かけられずに右往左往している。
――準備不足だな。
過去の出来事から、いったい何を学んだのか。どんな武器も実戦でうまく扱えなくては意味がない。
このままでは、人間だけで対応できる見込みは薄かった。そもそも一部の人間さえも激しく暴れているのだから、敵は上空だけではないのだ。
収束していく気配などまるでなく、時を追うごとに混沌とした空気は確実に広がっていった。
――このままでは、本当に帝都騒乱と同じようになる。
あのときも、帝国の側が明確な対応ができないままに混乱が混乱を呼び、やがて収拾がつかなくなった。
気がついたときにはもう騒乱が全域にまで広がり、その後、すべてが破壊し尽くされるまで自然に収ることはなかった。
今回もおそらく、ノイシュタット側が的確な対応をしないかぎり似たような状況になるだろう。
「ちくしょう……」
――見ていることしかできないのか。
くだらない悪態が口を突いて出てしまう。
今うかつに飛び込めば、きっとまたすぐに囲まれて乱戦に巻き込まれるだけだろう。
ヴァイクが悔しさと無力感に歯噛みするなか、ふと遠方に不自然なものを見た。
上空高くを、ひとりの翼人が飛んでいる。何かの荷物を抱えているのか、そのシルエットはやけに太いように思える。
――あれは。
目を凝らすと、紅色をした翼の女であることがわかった。
――あの女、どこかで――
すっと、故郷が襲われたときのことを思い出した。
飛び交う紅い翼の者たち。
倒れゆく仲間。
燃える集落。
――なんで今、あのときのことを思い出すんだ。過去の感傷に浸っている場合ではない。
頭を振って、無駄な思考を断ち切った。
ここから離れていくのならきっと無関係だろう。
すぐに地上のほうへ向き直ったとき、目の前に細く黒い影。
「!」
反射的に体全体をよじり、すんでのところでかわした。
髪をかすめて飛んでいくそれは、地上から放たれた矢だった。
――おいおい。
よりによって、こちらを狙ってくるとは。とはいえ、人間には上にいる翼人が敵か味方か判別のしようがないのだから無理もなかった。
ここにいても危ないだけだ。町の外に向かっていったん移動することにした。
その方角に三度、翼人の姿が見えてきたのは、それからまもなくのことであった。
多彩な翼が一直線に向かってくる。敵の増援かと緊張感が高まる。
その正体が判明したのは、先頭の男を視認できたときだった。
――あいつは、確かゼーク。
全員、新部族のようだった。
そのうちのひとり、萌葱色の翼の男がこちらを認めたかあわてて近づいてくる。
そいつに対して、反射的に怒鳴ってしまったのは、己の未熟さゆえか。
「遅すぎるッ! 何をやってたんだ!」
新部族がこの町を守らなくてどうする、という言外の意味を込める。
対するナータンの顔は、なぜか色を失い蒼白だった。
「アーデが……」
震える唇から発せられた言葉は、ヴァイクにとっても十分衝撃的だった。
「アーデがさらわれたんだ!」




