第九章 第四節
ローエの都グリューネキルヒェンにある城にいる者たちは、いつものごとく淡々とみずからの仕事をこなしていた。
といっても出撃の準備であるのだが、北の隣国ゴールなどとの争いに慣れた家臣らは、特にこころを乱すことはない――のだが、珍奇なことに、いつもはまるでやる気のないひとりの人物が朝からずっとあわてふためいていた。
「まだ出られないのか!」
書類の整理をしていたニーナが、振り向きもせずに答えた。
「まだ準備が整ってないんだから、しょうがないじゃないですか」
「だから、それを早くしろって言ってんだろ」
「じゃあ、ライマル様も手伝ってください。城の者はきちんと働いております、いつものとおり」
「もっと急げって! だいたい、相手の動きが予想よりずっと早いじゃねえか」
「どうも焦っているようです、なぜかはわかりませんが」
「平気な顔して語ってるんじゃねえ! これは、とんでもないことになるぞ……」
「そのあわてっぷり、ようやく領主としての自覚が芽生えてきたようですね」
「ローエがどうなろうと俺の知ったことじゃねえ! だが、フェリクスの奴にもしものことがあったら、俺は――」
沈痛な面持ちで、ライマルは書類の束をくしゃりと握りしめ、唇を噛みしめた。
見かねて、ニーナがその書類を取り上げた。
「間に合います。いいえ、間に合わせます。そんなに私たちが信用なりませんか」
「お前たちの性格は信用ならん」
指をぱちんと鳴らすと、ニーナは扉のほうへ向かって声をかけた。
「すぐに閣下の昼食を持ってきて、私がつくったやつ」
「……すまん、俺が悪かった……」
「ゼルギウスの準備はできたそうです」
「だったら、すぐに進発させろ!」
「もうさせています。これが、その命令書です」
と、くしゃくしゃになった書類をこれ見よがしに突きつける。
「……じゃあ、いっか」
「よくありません。ふだんからその調子でやってください」
「うるせえ!」
ニーナは書類の整理をつづけながら、わざとらしくため息をついた。
「本当は、他の選帝侯の同意を得たほうがよかったと思うのですが」
「得られると思ってんのか、お前は」
「いいえ、無理でしょう。ですから、こういうことになったんです」
「俺は今さら、帝国なんてどうなろうと知ったことじゃねえ。こんな国、どうせそのうち滅びる」
「でしょうね。でも、それなら他国から攻められたらどうするんです」
「俺とフェリクスが協力すれば、たいていの敵は潰せるさ」
「本気ですか」
「ああ」
自信満々に答えるライマルが、なぜか頼もしく見えた。
――本当に、領主としての自覚が出てきたようね。
それならば、こちらとしても望むところ。文官は帝国に依存しない所領経営をずっと心がけ、武官は最強を目指して軍の編成を急いできた。
その成果が今、結実しつつある。
――今回は、それを試すいい機会かもしれない。
準備は整った。今度は、それを現実の世界で具現化する必要がある。
そのためにはライマルと、そしてフェリクスの力が必要なのだ。
――私の野望を実現するためにも。
「俺は、先に帝都近くまで行ってるぞ。あそこの状況を見たいしな」
「わかりました、リーヌスを付けます」
「まだ俺を疑ってんのか! こんなときに遊ぶわけねえだろ!」
「違います。念のため、です」
怪訝な表情のライマルのほうを見向きもせず、ニーナは言った。
「いいから、行くならとっと行ってください。部屋がいつまで経っても片付きません」
「領主を領主とも思わない奴……」
「領主らしくない男がそういうこと言わない」
冷たい態度に文句を言いつつ、それでも帽子を手に取って〝放蕩侯〟は出ていった。
侯の執務室に沈黙が下りる。そんな中、六宮宰のリーダー格の女は作業の手を止め、窓の外に広がる空を見た。
――もうすぐ、始まる。
その期待に、ニーナはひとり震えていた。




