第九章 第二節
「宣戦布告だと?」
見慣れぬ服装の使者がもたらした一報に、謁見の間にいる面々が一気に色めき立った。
「長らく続いたノイシュタットの横暴を正し、かの地をあるべき姿、あるべき場所に戻す所存――」
要するに、開戦する旨の内容を滔々と語りつづける。敵中にひとり飛び込んできたというのに、場慣れしているのかその使者に怯んだ様子はまるでなかった。
一通り布告の中身を伝え終えると、使者は居丈高に胸を反った。
「お主たち、命が惜しくないようだな」
オトマルの一声に、他の家臣たちも同調する。
「よせ、使者に当たってもしょうがない」
「フェリクス様、これは共和国全体に対して言っておるのです」
「もういい。そなたも、とっとと帰れ。全面的に受けて立つとでも伝えておけ」
相手を射抜かんばかりの視線にさらされながらも、使者は最後まで慇懃無礼な態度を変えずに去っていった。
「さて――」
少し間を置いてから、主君たるフェリクスが椅子に座ったまま一同に向き直った。
「これで、いよいよ本当の戦となったわけだ」
「まあ、事態がはっきりとした分、わかりやすくなりましたな」
「確かに」
もはや、憶測も仮定の話も必要ない。
正面から戦う、それだけだ。
「しかし」
と、ユーグ。
「どうして、共和国はここまで強硬なのでしょうか」
「理由はあるようでないのだろう」
「はい?」
「戦うために戦っているということだ」
「戦うことそのものが行動原理ということですか?」
「ああ、ぞっとしない話だが」
呆れと不快感を表わすかのように、フェリクスは頭をぐしぐしとかき上げた。
「人間の行動に、常に明確な背景があるわけではない。ときには感情的になって、自分にとって損になるようなことをあえてすることだってある。それは、組織や国の場合も同じだ」
「ですが、それでは相手の行動パターンを読むこともできませんし、場合によっては自身でも止められないではないですか」
「そうだ、そういうことになる。それがもっとも恐ろしいことかもしれん」
感情に支配された存在は、もはや理屈も、誇りも、何もかも無関係になる。
「どんなに被害が出ようと構わないというわけだ」
「それで、ダスクの民は納得しているのでしょうか」
「さあな。あそこは共和制だ。自分たちが選んだ首長が決めたことなんだ、少なくとも多数派は支持しているだろうよ」
「共和制というのも困ったものですね」
「大衆の意志によって政治が決定されるからこそ、大衆が狂っていれば政治も狂う」
「しかし、大半の民は感情に流されやすいものです」
「そうだ。だから、こんなことになる。まあ、共和国の分析はもういい」
フェリクスがさっと、椅子から立ち上がった。
「我々は、すでに準備ができている。あとは、いつものようにひとつひとつこなしていくだけだ」
そして、全員を見回し、静かに告げた。
「ふだんの訓練どおりに、な」
その一言で、一連の事態にいきり立った家臣たちの気持ちが静かに収っていく。それぞれの目に冷静さが戻り、いつもの様子にすっと戻った。
――お見事です、フェリクス様。
怒りに支配され、いったん感情的になった者たちの内面を再び落ち着かせることは、熟練の領主でもなかなかできるものではない。
この若さにして、すでに人の上に立つ者として必要なものを十分に備えていた。
「もはやこれ以上は語るまい。あらかじめ決めておいたとおりだ。各自、それぞれの持ち場で指示あるまで待機してくれ」
主君から一言を受け、颯爽と散っていった。
ひとり謁見の間に残った老将は、ゆっくりと主のほうへ歩み寄った。
「フェリクス様」
「オトマル、帝都のときとはまた違った戦いになる」
「ええ、それはもちろん。ただ、すべての動きが思ったよりも早かったですな」
「ああ、我々の見込みはやや甘かったようだ」
現実が予想よりも先に進む。それはこれまでに幾度となく経験してきたことだが、最近、そうしたことが劇的に増えているように思えて仕方がなかった。
「行こう、オトマル。我々も準備が必要だ」
「はい」
フェリクス、オトマルに続き、ユーグも部屋の外へと出ていく。
予想外の事態は、もうひとつだけあった。
廊下の先には、泣きそうな表情をしたひとりの少女がいる。
「アーデ」
「お兄様……」
急報を受け、ずっとここで待っていたのだろう。少女の硬い靴底の犠牲になった絨毯が荒れ果てていた。
「すでに知っているかもしれないが、こういうことになった。私は、今から出陣する。今度は内紛ではない」
フェリクスは、ゆっくりと妹の鳶色の瞳と視線を合わせた。
「本当の戦争だ」
「…………」
「こうなったからには、戦うしかない。わかっているとは思うが、今回ばかりはおとなしくしていてくれよ。ノイシュタットのためじゃない、アーデ、お前自身のために」
「ですが――」
「オトマル」
アーデの反論の言葉を遮るように、フェリクスが副官に呼びかけた。
「悪いが、留守を任せる」
「フェリクス様?」
「このノイシュタットが、いつまでも老将に頼っているわけにはいくまい。今回は、我々だけで対応する。そうでなければ、ノイシュタット騎士団の名がすたるというものだ」
「――ですな、まさにいい機会かもしれませぬ」
「ユーグが私についてこい」
「はっ」
「…………」
アーデの非難と憎しみのこもった鋭すぎる目に気づかぬ振りをして、ユーグは嬉々として主君に付き従い颯爽と去っていった。
――やられた。
正直、ユーグが抜けることになったのは痛い。てっきりいつものように目付け役として残すと思っていたのだが、こちらの動きを封じるつもりもあるのだろう。
だが裏を返せば、兄の護衛が盤石になり、かつ軍本隊の状況を逐一知ることができる。それは、けっして悪いことではなかった。
――といっても、すでにユーグを新部族の戦力として、戦略に組み込んでしまっている。
このままでは、予定に大幅な狂いが生じてしまいかねない。
「こうなったら、オトマルにも手伝ってもらうわよ」
「なんですと? 私は、このシュラインシュタットを守ることが――」
「そのためにこそ必要なの」
「は?」
「敵の本当の狙いはおそらく――」
その繊手を顎に当てて思案するアーデをしかし、オトマルは厳しい目で見つめた。
「姫――」
「今のままの戦略じゃ――」
「姫ッ!」
いつにない激しい声が、がらんとした石製の廊下に響き渡った。
居住まいを正し、老将は侯妹たる女性に向き直った。
「アーデルハイト殿下、ご自身のお立場をわきまえてください。殿下にもしものことがあれば、兄君が悲しまれるだけではない、このノイシュタットが傾くことになりかねないのですぞ!?」
「そんなことは言われるまでもないわ! でも、今はもう、そんな次元の状況ではないでしょう!?」
「いい加減にするのです、殿下! 侯妹の責務を放棄し、ご自身だけでなく兄君の威光まで傷つけるおつもりですか。ノイシュタットを危地に追い込むことだけでは許されませんぞ!」
「だから、そんな枠組みが意味のないものになりつつあるって、どうしてわからないの! これだけ世界が、すべてが動いているのに、なぜ狭い了見でしかものを考えられないの! 今は、世界が変動している。だったら、それを見るのが当然というものでしょう!」
「そんなことは詭弁です! 今はノイシュタットの一大事。世界がどうこうという以前に、この地を守らなければ話になりませぬ! 世界などどうでもいい、このノイシュタットだけは――」
「だったら、ノイシュタットなど滅びてしまえばいいッ!」
あまりのことに、オトマルは目をむいて跳び上がらんばかりに驚いた。
その内容もさることながら、その言葉の迫力に圧倒されたためであった。
「世界などどうでもいい? ノイシュタットだけは? そんなひとりよがりで利己的な考え方が帝国を、引いてはこの世界をおかしくしているとなぜわからないッ! 今のがあなたの本心なのだとしたら、自領のことばかり考えている他の諸侯と何が違う!」
「!」
「自分の狭い見識にとらわれ、大局も見えず、場当たり的な対応に終始するのなら、自領を捨て、己を捨ててまで世界のために戦ったゴトフリートのほうがよほど尊い!」
アーデの力強く握りしめられた両の拳は震えていた。
「領地や国という概念が人を縛ってしまう――だったら、そんなものはなくなればいい! 私はもう命を懸ける覚悟はできてる、ノイシュタットなんていうちっぽけな存在のためじゃない、この世界のために」
姫であったはずの女性の瞳は爛々と輝き、そこには強烈なまでの強い決意の光が宿っている。
オトマルは言葉の内容よりも、むしろその圧倒的なまでの覇気に驚嘆していた。
――これは、ひょっとしたらフェリクス様を超える――
「まったく、やっぱりあんたは野暮な男だねぇ」
ただでさえ驚愕しているオトマルに、追い打ちをかけるようにして女の声が響いた。
「マーレ!?」
オトマルの妻であり、城の女官や女中のまとめ役でもあるマーレが、エプロンをつけたまま怒ったような顔で立っていた。
その恰幅のいい体格に似合う、いつもの印象的な笑顔は消えていた。
「若い人が勇気をもって自分の道を歩もうとしてるっていうのに、どうしてその邪魔をするんだい。まったく、気のきかない男だねえ」
「お、お前、まさか……」
「ああ、そうだよ。私も、翼人と人間の互助組織〝新部族〟の一員なんだ。今は裏方だけどね」
「な、なんと……」
とんでもないことを胸を張って言う妻を、哀れなオトマルは唖然と口を開けて見つめるしかなかった。
だが、そんな状態に陥った老騎士でさえ、〝戦姫〟は容赦しなかった。
「とにかく、今回ばかりは有無を言わせず協力してもらうわ。このノイシュタットを守るためにも」
「…………」
憤怒の女神はそう言ったきり、きびすを返してさっさと行ってしまった。無数の衝撃のあまり言葉もない老兵に、それを呼び止める余力など残っているはずもなかった。
侯妹の姿が見えなくなってから、オトマル夫妻の口論が始まった。その優劣は明らかだが、今回ばかりは、ふだんあきらめのいい夫もなかなか引き下がろうとはしなかった。
そんな一連の様子を、曲がり角の奥でひとりの青年が微動だにせず聞いていた。




