第八章 第三節
もはや初夏だというのに上空の風はどこか冷たく、春の残滓を感じさせる。前方から吹きつける空気は重く、飛ぶ速度を上げたくとも上げられないもどかしさがあった。
――アオクに焦るなと言われたものの――
あれから何日も経ったというのに、ジャンと、そしてベアトリーチェの消息は未だ摑めないままだった。
とにかく手がかりがまるでない。はぐれ翼人の自分が地元の部族に話を聞くわけにもいかず、必然、やみくもに飛び回って捜すしかなかった。
だが、それももはや限界だ。これだけ飛んで何も得られないからには、やり方を大幅に変える必要があった。
「上からじゃ、もう駄目だ」
つぶやき、ヴァイクは人気のない辺りに向かって一気に降下した。
危険を承知で地上を行くしかない。そこには人間もいれば、敵となる同族もいるだろうが、何かあるとすれば森の中しかないだろう。
――アオクもそう言っていたし。
確かに、この辺にはぐれ翼人の集団が隠れられるような森は限られている。しかも、人間を数人引き連れているとなれば、想定される場所はさらに絞り込めるだろう。
――もっとも、ベアトリーチェたちが生きていれば、だが。
不吉な予感を、強引に頭から振り払う。
万が一の可能性を考えたところで、今は意味がない。余計なことに思いわずらっている暇があったら、その余力を捜すことに費やさなければ、と自分に言い聞かせた。
降り立った場所は、さまざまな木々が鬱蒼と茂る原生林のようなところだった。人間の集落に近い場所の森は大半が人工のものだが、ここは何かが違うと翼人としての勘が知らせてくれる。
しかし、それゆえに人間の影もなければ翼人のそれもない。今は、試しにこの辺を歩き回ってみるしかないようだった。
「――――」
程なくして、違和感に気づいた。
まるで生き物の気配がない。
鳥のさえずりもなければ、虫の音も、獣の気配もない。これが嵐のあとだというならまだしも、静かな晴れた午後の昼間であることを考えると、十分異常だった。
――怯えているのか?
生き物がまったくいないわけではないのだろう。どこかひっそりと息を潜めているような雰囲気もある。
――何か、ある。
何もないなら、ここまで不自然な状態になるはずがない。原因がなんなのかは定かではないが、ともかく尋常ではないものがこの場にある可能性は高かった。
足音を潜め、できるだけ息を殺し、周囲をうかがいながら歩を進める。近くに動くものの波動は感じないが、警戒するに越したことはなかった。
周囲があまりに無音のために、地を踏みしめる足の音、そして自身の呼吸がいやに耳につく。
だが、しばらく歩いても期待した変化は訪れず、思ったよりも深い森は日が陰ったこともあって暗さを増していった。
明らかにおかしいのに何も変化がないのは、それだけでも十分異常であった。
焦れたヴァイクは、いったん空へ出てみようかと考えはじめていた。
と、そのときだった。
――誰か、来る。
獣か? いや、違う。この足音は、どう考えても二足歩行。それをするのは人間か、翼人だけだ。
右手にあった大樹の陰にさっと隠れる。小気味いい調子の音は確実に近づき、それはどんどん大きさを増していく。
――まったく警戒していないのか。
ならば、こちらのことは少なくともばれてはいないようだ。そして、こんなところに普通の人間がいるはずもない。
様子を見る好機だった。
――歩幅が大きい。
大柄な男だろうか。しかし、その割にはひとつひとつの足音からして体重は軽そうだ。
――そもそも、なんで地上を走っている?
冷静に考えてみると妙な話だった。翼人ならば空を飛べばいいはず。ということは、地元の人間である可能性も捨てきれない。
すぐに確認したい思いを抑えられなくなったヴァイクが、相手の様子を探ろうと木の陰から右目だけを出そうとしたときのことだった。
「ヴァイクッ!」
突然、自身の名が叫ばれたことに、文字どおり飛び上がって驚く。
しかも、その声は若い女。
さらには、聞き覚えのあるものだった。
「ま、さか……」
反射的に木の陰に隠れてしまったが、すぐに身を乗り出した。
その正面にいたのは、白く、繊細な雰囲気をまとった白翼の少女であった。
「マリーア……」
「やっぱり――やっぱり、ヴァイク!」
こちらの姿を視認するなり、勢い込んで飛びついてきた。首の後ろに手を回すと、何度も何度も口づけをしてくる。
「よかった! 本当にまた会えるなんて!」
「わ、わかったから離れてくれ。これじゃ、話もできない」
「私と会えたのがうれしくないの?」
「うれしいに決まってるだろ。俺は正直――もう駄目だと思っていた」
マリーアの肩を優しく摑むと、ヴァイクは彼女の青い瞳を見た。
「あの日、俺が集落に戻ってきたときにはもう、ほとんど誰もいなかった」
ヴォルグ族の襲撃の日。たまたま外に出ていた自分は直接の被害を免れたが、集落に戻ってきたときにはもう、そこに生きる者はほとんどいなかった。
当然、マリーアの姿もない。重傷を負った兄の看病をしながらしばらくその姿を捜し求めたものの、彼女はおろか同族のひとりすら見つけることはできなかった。
「それなのに、どうやって今まで――」
「今は、アーベルたちのところにいる」
「アーベル!? ――じゃあ、お前は〝虹〟にいるのか」
マリーアは首を縦に振った。
「私、ついこの間まで昔の記憶を失っていたの。それをイーリスのみんなが世話をしてくれて。ベアトリーチェが診てくれてからやっと治った」
「ベアトリーチェは無事なのか!?」
「うん、ジャンも大丈夫だよ」
「そうか」
ようやく、ほっとすることができた。二人が連れ去られてからこれまで、気の休まるときが一時としてなかった。
まだ救出できたわけではないが、マリーアの様子から察するにさほど心配する必要はなさそうだった。
「イーリスの拠点はここから近いのか?」
「ううん、もっとずっと奥のほう」
「お前……飛べるようになったんだな」
「違うよ、ここまで走ってきた。空に白い翼が見えたから、ひょっとしてって思って」
――そうだった、マリーアにはマクシム譲りのずば抜けた身体能力があった。
なぜかずっと飛べないままだったが、兄に似たのか女性の中ではその瞬発力は飛び抜けている。
そのことを思い出し、ヴァイクは表情を曇らせた。
「マリーア、マクシムのことは――」
「うん、ジャンとベアトリーチェから聞いた」
まだあどけなさを残すマリーアの表情は、笑顔のままだった。
「苦しまないで、ヴァイク。たぶん、お兄ちゃんはすべて納得してあなたと戦ったんだと思う。だから、たとえ最後の相手があなただったとしても――」
「マクシムを……いや、そうだな。やっぱり、俺が殺したようなもんだ」
「ヴァイク?」
その表情に影が差したことにマリーアは不吉なものを感じたが、それを問い質す前に彼のほうが先に口を開いた。
「話はあとだ。まずは、ジャンたちがいるところへ案内してくれ。すぐに二人を助け出さないと」
「あ」
「安心しろ、マリーア。お前もかならず連れて行く。だから、早く――」
「待って!」
強引に手を引いて森の奥へ向かおうとするヴァイクを、鋭い声が押し止めた。
「なんだ? お前だって、俺とこうして話しているところを見られたらまずいんだろう?」
「待って、ヴァイク。その前に話しておかなければならないことがあるの」
少女の目は真剣、というより必死そのものだった。
「ここにいるイーリスは、ヌアドっていう灰色の翼の男が率いてる」
「ヌアド……ああ、あいつか」
以前、剣を交えた、アーベルより年長の男。そのどこかに饐えた空気をまとい、相手には悪いがあの目も言動も好きになれなかった。
「彼は、アーベルたちを騙してる」
「どういうことだ?」
「私、聞いちゃったの、ヌアドが知らない翼人と話しているのを」
マリーアの小さい手は、少し震えていた。
「私、今でも記憶が戻らない振りをしてるの。その理由は、ヌアドがアーベルを捨て駒にしようとしているのがわかってしまったから」
「イーリスは、表向きのものでしかないってことか?」
「違う! たぶん、ヴァイクが考えているよりずっと大きな組織なんだよ。相手の男の人も、『南方からわざわざ来たのに』って言ってた」
「南方……」
「それで、アーベルたちを他の組織にぶつけるんだって。どうせたいして役には立たないから、帰ってこなくてもいいって……」
――なるほど。
前に接触したときも、どうもあの灰翼の男だけ浮いていると感じたが、それはきっと彼があとからアーベルたちの集団に入ったからだろう。
捨て駒にはちょうどいい――確かに、血気盛んな若者の集団は、見方によってはそうともいえる。
――リファーフの村でも、な。
あの凄絶な戦いを思い起こし、我知らず顔をしかめた。
「ヴァイク?」
「いや、なんでもない。だがマリーア、アーベルを助けるっていったって、あいつらは自分たちはイーリスの一員だと思っている。みずから望んでそこにいる奴らをどうにかするのは難しいぞ」
「そう、なんだけど……」
「そもそも、イーリスの本当の目的はなんなんだ? いや、表向きの理由でも構わない」
「はぐれ翼人を救う」
「それだけじゃないだろう」
「不完全な人間を、管理する」
「アーベルは、そこに自分の存在意義を見出したわけか」
「はぐれ翼人も人間も、困ってる人たちを救えるから」
「それは、悪いことじゃないんだけどな」
――問題は、ヌアドと背後の組織。
どちらも得体が知れない。アーベルらを利用しようとしている以上、相手を好意的に見ることは難しかった。
「私、アーベルたちの考え方は間違ってないって思うの。同じはぐれ翼人を助けて、人間の人にも手を貸して上げる。だけど今のままじゃ、アーベルもみんなもおかしくなっちゃうよ」
「お前の気持ちはわかった。だが、具体的にどうしろっていうんだ。俺が何を言ったところで、あいつらは聞かないぞ。これまでだってそうだった」
「えっ、もう戦ったの?」
「三度も戦った。首輪の外れた狂犬のような奴らだ」
「…………」
「可能性はあるかもしれないが、俺では説得は無理だろう。同じ翼人の俺では」
と考えたところで、ふとひとりの男の顔がなぜか頭に浮かんだ。
――ジャンなら、ひょっとしたら。
いつもは情けないくせに、あいつの言葉にはときおり妙な〝迫力〟がある。はっとさせられるというか、こちらが思いもしなかった本質を突かれ、返す言葉さえ失ってしまう。
おそらくメルの村で会ったとき、アーベル自身、ジャンの一言一言に感じるものがあったからこそ彼を強引に連れていき、殺さないままそばに置いているのだろう。
「でもな、マリーア。俺はアーベルたちよりも、まずはジャンと、それからベアトリーチェを助けなければならない。ヌアドのそんな話を聞いてしまったからには、余計に危ないと感じる」
「あ、それなら大丈夫」
「大丈夫?」
「前にみんなで話し合って、ベアトリーチェさんは送り返されることになったの。これには、ヌアドも納得してる。ジャンは、自分から残ることにしたんだけど」
「ジャンの奴は、また何を考えてるんだ」
「私と同じ気持ちなの。アーベルたちを救いたい。ジャンにはもう、すべてを話してあるよ」
「しかし、危険が――」
「もしものときは、アーベルたちがかならず守ってくれる。もう何かが変わってきた気がするんだ。だから、お願い」
しばしの沈黙。
遠くにようやく生き物の気配が生じてから、ヴァイクは大きくため息をしつつ首肯した。
「わかった。お前を信じよう、マリーア」
「ありがとう、ヴァイク」
「そのかわり、俺がもうこれ以上は危ないと感じたら、ジャンは強制的に連れ出す。いいな?」
マリーアもはっきりと頷いた。異論があるはずもなかった。
まだ少女のくせにやけに強い光を宿すまっすぐな瞳を見て、ヴァイクは笑みをこぼした。
「まったく、相も変わらず無茶な奴だ。そういうとこだけは、マクシムに似たな」
握ったままだった彼女の手を見る。細く小さな指。そして、白すぎる肌。
「小さい頃のままだ」
「成長してないってこと?」
「さあな」
「ヴァイクの意地悪」
ふくれるマリーアを強引に抱き寄せ、そして持ち上げた。
「えっ」
「まずは、お前だけでも あとのことは俺と――ジャンに任せておけばいい」
「まっ、待って! 私もここに残る」
「言うと思った。だが、話を聞くかぎり、お前がここでできることはもうないんじゃないか?」
しかし、はっきりとマリーアは首を横に振った。
「私が直接、アーベルたちをぎりぎりまで説得してみる。今まで話すことも動くこともできなかったのに、なぜかみんな私の前だと素直なんだ。ひょっとしたら、ジャンと協力してどうにかできるかもしれない」
――素直になる、か。
アーベルたちの気持ちは、なんとなくだがわかるような気がした。マリーアの前では、ごまかしができない。昔から故郷の集落でも、みんな同じだった。
それはきっと、彼女自身に偽りがないからだろう。すべてを正直にさらけ出す存在の前では、どんな詭弁も無意味だ。
「わかったよ、マリーア。だが、無理はするなよ」
「うん」
森の中を抜けてきた涼しい風が、二人を軽く撫でていく。
まだまだ話し足りないことは多かったが、ヴァイクとマリーアに与えられた時間はあまりにも少なかった。
遠くでかすかに人の気配がする。最初に気づいたのは少女のほうだった。
「誰か来たみたい」
「――――」
「すぐに離れて、ヴァイク。あなたも狙われてる」
「なんだと?」
「理由はわからないけど、あのヌアドが南方から来たっていう翼人の人に『白い翼の男は消しておく必要がある』って言ってた」
「…………」
「だから、他のはぐれ翼人にも気をつけて」
「心配ないよ、マリーア」
ヴァイクは、わざと笑顔をつくってみせた。
「はぐれ翼人の俺は、常に誰かに狙われている。全部今さらだ」
「ヴァイク……」
「ああ、心配させるつもりはなかった。――そうそう、お前をいつもからかってたナーゲルの奴はまだ生きてるぞ」
「そうなの!?」
「知ってるかもしれないが〝極光〟という集団にいる」
「そっか……」
マリーアの目の前で、翼をはばたかせてヴァイクが舞い上がった。
「いいな、本当に危なくなったら、かならずジャンに相談するんだぞ。あいつは戦いはからっきしだが、驚くほど機転が利く。いざとなったら一緒に逃げろ」
「うん、わかってる」
一瞬の沈黙。
目を交わし合ったあと、ヴァイクは今度こそ飛び立った。
「かならずまた会おう、マリーア」
「ヴァイクも、どうか無事で」
木々の枝葉による天蓋を突き抜け、優美な白い翼が遠ざかっていく。その光景に一抹の寂しさを感じながらも、白い少女はきびすを返した。
周囲には、獣の気配すらない――はずだった。
だが、その光景を檸檬色の翼をした少年が見つめていた。




