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第六章 第三節

 眼下を、新緑の美しい森が()き過ぎていく。空は深く青く澄み渡り、今いる場所がそこに近いためか、真っ白な雲とのコントラストが鮮やかだった。

 しかし、そんな目を(みは)る光景とは裏腹に、ベアトリーチェの胸を罪悪感が支配していた。

 ――本当にこれでよかったのかしら。

 誰にも言わず、誰にも相談せず、独断ですべてを行ってしまった。アーベルと外に出てから、自分はとんでもなく軽率なことをしてしまったのではないかと、いやおうもなく不安が込み上げてきた。

 だが、もう後の祭りだ。こうしてここまで来てしまった以上、もはや仲間に知らせるすべもない。すべては、アーベルの胸先三寸にかかっていた。

 ――でも、私は信じる。

 アーベルは、けっして悪人ではない。それどころか、素直すぎるほどに素直な少年だ。他のみんなが疑っても、自分くらいは信じてあげたかった。

 すでにかなりの距離を飛んでいた。途中、休憩を挟んだものの、もう丸一日近くは飛んでいるはずだ。しかし、目的地に向かってまっすぐ飛んでいるようには思えなかった。

 ――私、信用されてない?

 位置がわからなくなるように、あえて蛇行して飛んでいるのだろうか。信じると決めた手前、どうしてなのか聞くわけにもいかなかった。

 それに、ヴァイク以外の(ひと)にこうして抱えられているのは、どうにも居心地が悪かった。

「あ、あの……」

「なんだ?」

「あとどれくらいですか?」

「もうすぐだ」

 いったいこれまで、何度こんなやり取りをしただろう。言葉どおり、本当にすぐだった試しはなかった。

 いい加減、彼に摑まっている腕が痛くなりだした頃、アーベルが少しずつ高度を落としはじめた。目的地に着いた喜びよりも、ようやく下に降りられることにほっとしたベアトリーチェであった。

 アーベルは、ここらでは珍しい原生林の森の中へと降りていった。地面のすぐ上のところまで来ても、そのまま飛びつづけ、しばらくしてからようやくふわりと降り立った。

「ここからは歩いてもらう」

「え、ええ」

 さっさと歩いていってしまうアーベルのあとを足早に追いかけた。

 予想とは裏腹に、周囲は開けていた。思いのほか歩きやすく、アーベルにはすぐに追いつけた。

 しばらく歩きつづけると、やがて檸檬色の翼が見えてきた。

「アーベル! 無事だったか!」

「カル」

 黒い翼を見つけるなり、仲間たちが駆け寄ってきた。

「どうしたんだ、みんな心配したんだぞ」

「すまない、不覚にも敵に捕まってしまった」

「なんだって!?」

 しかし、彼らが驚いたのはそれだけではなかった。

「その人間は……」

「――ジャンの知り合いだ。訳あって、連れてきた」

 ベアトリーチェの存在に気づき、〝虹〟の面々は怪訝そうにアーベルのほうを見た。

「なんで人間なんかを連れてきた、アーベル」

 森の奥から、年長のヌアドがゆっくりと近づいてくる。その顔には、嫌悪感と同時に怒りの色がありありと浮かんでいた。

「ここの居場所が厄介な奴らにばれたらどうする」

「大丈夫だ、そのためにわざと遠回りしてきた」

「だといいがな。お前の勝手な行動のせいで、仲間が危険な目に遭わされてはかなわん」

「どういう意味だ?」

「お前は勝手に突っ込み、勝手に捕らわれて、勝手に人間を連れてきた。ここは、子供の遊び場じゃないんだぞ」

「アーベルが悪いわけじゃないだろう!」

 怒気を爆発させたのは、当のアーベルではなくカルだった。

「あのとき突っ込んでしまったのは、みんな同じじゃないか。それに、アーベルは捕らわれたくて捕らわれたんじゃない」

「じゃあ、この人間はなんだ。もうひとりもな」

「それはすぐにわかる」

 ヌアドのことをなかば相手にしていないかのように、アーベルはベアトリーチェを目で促して、森のさらに奥のほうへと進んだ。

 そこには、案外こざっぱりとした姿をしたジャンと、そして儚げな白翼の少女がいた。

「ベアトリーチェ!? なんでここに!?」

「よかった! ジャンさん、無事だったんですね!」

「よくなんかないよ、二人も捕まっちゃって! ヴァイクたちはどうしたの!?」

「それが……」

「話はあとだ。彼女が、この前話したマリーアだ」

 白翼のマリーアはジャンの隣に腰かけ、ぼんやりと中空を見つめている。そこに、意識のかけらはほとんど感じられなかった。

「あそこの連中が、あんたは元神官だって話してた。神官は、治癒ができるんだろう? 見てやってくれ」

「アーベル、お前マリーアのために――」

「それだけじゃないんだけど……とにかく、ベアトリーチェ」

「わかりました」

 アーベルの思惑がどうあれ、問題があると思われる少女を放っておくわけにもいかない。ベアトリーチェは前に進み出て、じっくりと様子をうかがった。

 意識がはっきりしているようにはとても思えない。瞳の焦点もどこかぼんやりとしていてとらえどころがなかった。

 とりあえず何か話しかけてみようかと考えたとき、変化は突然に訪れた。

「あ……ヴァイク……」

「!?」

 口を開いたかと思うと、そこから出てきた言葉はベアトリーチェがどきりとするものだった。

「ヴァイク、の……匂いが……する……」

 瞳と唇を震わせ、視線は宙をさまよった。

「あなた、ヴァイクのことを憶えてるの?」

「ヴァイク……ああっ!」

 両手で頭を抱え、うずくまるようにして腰を折った。

「マリーア! もういい、もうやめてくれ!」

「待って。何かを必死に思い出そうとしている」

 アーベルの懇願を、それでもベアトリーチェは遮り、様子を見た。

 マリーアは激しく身を揺らし、どこかもがいているかのような様子だった。

 しかし、それも長くはつづかなかった。やがて糸が切れたように意識を失い、倒れゆくその華奢な体をアーベルがあわてて抱きとめた。

「どういうことなんだ!?」

「この様子なら、近いうちに記憶が戻るかもしれません。苦しんでいるのは、そのきっかけだと思います」

「本当なのか」

 と問うたのは、アーベルではなく少し離れたところで見守っていたヌアドだった。

「はい、以前似たような症状の方を診たことがあるんです。そのときは、結局時間はかかったんですが、あとで痛みがなくなったときに元に戻りました」

「そうか」

 どこか思案げな様子で、ヌアドは顔を伏せた。

「――記憶を取り戻すことが、本当にマリーアにとっての幸せなのか}

 少女を抱きかかえたまま、アーベルが独りごちるようにつぶやいた。

「クウィン族は滅んだんだ。もうほとんど生き残りもいない。それなのに過去のことを思い出したって、つらくなるだけじゃないか」

「じゃあ、アーベルはこのままでいいと思うの?」

「それは……」

 言葉に詰まってしまった。

 このままでいいわけがない、しかしマリーアが記憶を取り戻すことが怖かった。

 正気に返った彼女は、自分をどう思うのだろう。戦いつづけ、人間の心臓を喰らいつづけるこの自分を。

 そして過去のことを完全に思い出したら、あの人――ヴァイクとはどうするつもりなのだろう。

 自分から離れていってしまうのだろうか。

「どっちにしろ、今日はこれまでにしよう。マリーアがこんな風になったのに無理をさせるわけにはいかない」

「はい」

 マリーアの小柄な体を抱え上げ、アーベルは森の奥へと消えていった。それを合図にして、他の翼人たちもそれぞれ散っていった。

 その状況にはっとしたのは、それまで呆然と見やっていたジャンだった。

「ベアトリーチェ、ちゃんと説明してよ!」

「あ、はい」

 メルの村でジャンがさらわれたあとのことを聞く彼の顔は見ものだった。

 想像もしない一連の事態に、表情がくるくる変わる。すべて聞き終えると、ぐったりと肩を落としてその場に座り込んでしまった。

「そ、そんな……」

「私も未だに信じられない……いえ、信じたくないことなんですが、すべて本当なんです」

 中でも、翼人を〝家畜〟として扱っていたリファーフの村について聞いたときは、怒りとも悲しみともつかない複雑な色をその瞳に浮かべていた。

「いくら集落を発展させるためとはいえ、そんな……」

 全身が震えてくる。自分と同じ人間がやったこととは思いたくなかった。

「その戦いでは、翼人は誰も悪くなかった。悪いのは、リファーフの村の人間のほうだ。それなのに、協力できるはずの人たちが争うことになってしまうなんて……」

「私も、それが残念でならないんです。強欲すぎる人間のせいで、可能性が芽がほとんど消えてしまった」

 しかし、決然とベアトリーチェは顔を上げた。

「私がここに来たのは、実はそのことも関係してるんです。誰かが〝(イーリス)〟と話し合わないといけない。でも、翼人同士では無理かもしれない。そう思って――」

「ベアトリーチェの判断は間違ってなかったと思うよ」

「ジャンさん……」

「自分が同じ立場でも、同じことをしてたと思う。それに、アーベルはけっして悪人ではないからね。話し合える余地はあるはずだ」

 ベアトリーチェもうなずいた。もうここまで来た以上、自分たちでなんとかするしかなかった。

 森の中の夜は早い。空が赤く染まったかと思うと、あっという間に暗がりに捕らわれ、周囲のものは黒く彩られていった。

 夜の獣たちが動きはじめる。二人は静かに、アーベルらが去っていった方向を見つめていた。

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