第六章 正負の胎動
豪奢ともいえる廊下を進むごとに、複雑な思いが強くなっていく。
白大理石がふんだんに用いられた床や壁、無意味とさえ思えるほど精細に壁に刻まれたレリーフ、そして昼間だというのに明かりの灯された銀の燭台――そのすべてが無駄なものに思え、ダミアンは憂鬱さを表情に出さないようにするので精いっぱいだった。
ここはダスク共和国の首都ブラン、その中心にある総統府の建物だ。内装も外装も華美の一言に尽き、なんの飾りもないところのほうが珍しい。
――いったい、どちらが帝政なんだか。
総統府に来るたびにそう思う。国民性の違いといえばそれまでだが、質実剛健なノルトファリア帝国のほうがはるかに共和制に向いているような気がした。
無言のままさらに進んでいくと、次は重厚すぎる扉が見えてきた。黒檀だろうか、色つやの素晴らしい木製の扉の表面に、手に触れるのがおそれ多いほど複雑な紋様が丁寧に細かく刻み込まれている。その取っ手は、純金製のように見えた。
その前に立つと、ここまで先導してきた役人が通路の奥へと去っていった。彫像のごとく扉を守る二人の衛士と居心地悪く待っていると、やがて内側から扉が開かれていった。
わざとなのだろうか、低い音を立てながらそれが開ききると、眼前に真紅の絨毯が広がっていた。それが、磨き抜かれた大理石の上を部屋の奥まで伸びている。
その場所に立っていたのは、二人のすらりとした背の高い男女だ。
片方の男は、袖の先が広がった腕を組み、気難しげに眉をひそめている。今が不機嫌というわけではなく、おそらくあの表情が普通なのだろう。そのことが、あたかも男の内面を物語っているかのようだった。
もう片方の女は、聖服のような共和国の白い礼服を見事に着こなし、その切れ長の目ですべてを睥睨している。白い肌に紅を塗った細い唇が映え、まるで徹底的に描き込まれた絵画のように隙がない。
二人はこの共和国の最高権威、執政官を務めるアランとミレーユであった。
――それにしても。
と、ダミアンは驚きを禁じえなかった。
――二人とも若い。
特にミレーユのほうは、二十代にしか見えない。聞いた話によると実際は三十代前半だそうだが、それにしたって一国の主が女性で、しかもこの歳というのは珍しい。
男のアランのほうは彼女よりもさすがに年上だろうが、それでも十分に若い。他国なら、国家元首どころかその副官でもありえないほどだ。
驚きのあまり立ち尽くしていると、横合いから衛士に小声で促された。
「早く進みなさい」
「はっ、これは失礼……」
ばかなことをしたと赤面しつつ、絨毯の上を足早に進み、部屋の中ほどで足を止めた。
「商人のダミアンと申します。このたびは、わたくしめのために貴重なお時間を割いていただき、恐悦至極に存じます」
恭しく一礼したが、返ってきたのは冷たい声音だった。
「あいさつなどよい。商人が我らに直に申すべきことがあるとは何ごとじゃ」
「ミレーユ、それは先に説明があったろう。帝国、それもノイシュタットのことだ」
アランが、若い執政官をたしなめた。
「それで、ノイシュタットがどうかしたのか」
「はい。実は、かの地は交易が盛んであったのですが、このたび現ノイシュタット侯がさまざまな面で大幅な制限を設けはじめたのです」
「あなたは、なぜそうなったと考える?」
問うたのはアランだった。
「はい、活発に過ぎた交易が各地の均衡を崩し、ある地ではある物が有り余りながら、別の地ではそれが不足するという事態が頻発しているためかと」
「ならば、そなたらの自業自得ではないか」
と、ミレーユ。
「おっしゃるとおりでございます。ただ、ことは我々だけの問題にとどまりそうにないのです」
二人の執政官が、目で先を促した。
「ノイシュタット侯は、領内への商人の出入りを制限するという過激なことまで行いました。それは今、部分的には解除されたのですが、相変わらずの高税率。交易が滞り、もちろん共和国の商人も大きな打撃を受けております」
「なるほど、引いてはわれらが共和国そのものの不利益になるということか」
ミレーユが瞳を閉じた。この女が、共和国に利害関係のあることには過敏に反応することはわかっていた。
「ダミアンといったか、あなたは商人の連合を代表して参ったそうだな」
「はい、バルテル隊商同盟をはじめ、複数の組織、個人、合わせて百名以上の名代として参上いたしました」
「わかった」
と、アラン。
「ならば、単なる個人の陳情として扱うわけにはいかん。ことは、国全体にかかわる問題だ」
「しかり。放置しておいてよい問題ではない。しかるべく対応をとり、不遜なノイシュタットに対して能うかぎりの報復をしてやらなければならぬ」
話が不穏な方向へ向かいはじめたのを察知し、ダミアンはあわてて取りつくろった。
「いえ、なんらかの形で圧力をかけていただくだけで十分なのです。我々も、けっして活動ができなくなっているわけではございません。これ以上、ノイシュタット侯に頑なになられても困るので――」
「生ぬるい」
ミレーユが一喝した。
「帝国によって共和国が害をこうむっているというのに、なぜ配慮の必要がある。帝国には――ノイシュタット侯には思い知らせてやればよいのじゃ」
「落ち着け、ミレーユ。この者に言っても仕方あるまい」
一介の商人を仇敵のごとく睨みやる女執政官を、アランが再び諫めた。
「だが、彼女が言うことも一理ある。ノイシュタットがその気なら、我々もそれ相応の対し方をするだけだ」
「しかし、ことを荒立てますと、かえって――」
「もうよい」
ミレーユの言葉はすげなかった。
「下がってよいぞ、ダミアンとやら」
もはや、何かを意見する雰囲気ではなかった。
ダミアンはためらいつつも一礼し、下がった。
重たい両開きの扉が、二人の衛士によってゆっくりと閉じられていく。二人の執政官は、もはやこちらを一顧だにしなかった。
それが閉じきったとき、ダミアンの胸には言い知れぬ不安感と不快感がよぎった。
――共和国は、こちらが来るのを初めから待っていたのではないか。
すべてが茶番だったように思えた。あらかじめこちらが何を言い、それに対してどんな言葉を返すか決めていた。だから、あっさりと謁見が認められたのではないか。
――だとしたら、この共和国は。
自分の予感ではなく予測に、ダミアンは顔をしかめた。
近づいてくる足音を感じ、仕方なく通路沿いに進んでその場を去った。
ずっと深く考え事をしていたせいか、気がつかないうちに総統府の外に出ていた。初夏の明るい日差し、賑やかな辺りの喧噪に、急激に現実に引き戻された感覚があった。
それゆえにか、自身のこころの内にある暗いものを強く感じてしまう。腹の底に重たいものでも抱えているかのように、ダミアンは前屈みにとぼとぼと道を進んだ。
本当にこれでよかったのかという思いが、改めて込み上げてくる。少なくともカールたちは満足するだろうが、全体として、そして長期的に見た場合、かならずしもいい効果ばかりではないだろう。
自分たちは、最悪のカードを引いてしまったのではないか――そんな悪寒にも似た予感が、ダミアンの胸を苛んでいた。
「痛っ」
よく前を見ていなかったせいで、思いきり他の通行人にぶつかってしまった。
「も、申し訳ない、ぼんやりとしていて……」
「いえ、私のほうこそ。方々を見て歩いていたもので」
顔を上げると、そこには屈強な男がいた。背は高く、胸板は厚く、とてもただの庶民には見えない。事実、こちらの体がもろに当たったというのに、相手はびくともしなかった。
「失礼しました。あなたに怪我がなくてよかった」
「この程度ではなんの問題もありません。それより、あなたのほうが顔色が優れませんが」
「やはり、そう見えますか……」
逆に心配されてしまい、ダミアンはますます恐縮した。
「――初対面の方にこんなことをうかがうのはなんですが、行きずりの間柄だからこそ忌憚なく聞かせてください。もしあなたが仕方がなくとはいえ間違いを犯してしまい、それに罪の意識に感じているとしたら、あなたは次にどうしますか?」
わずかに驚きの色を浮かべながらも、男は嫌な顔ひとつせず真摯に答えた。
「それは、私が答えるまでもないと思います」
ダミアンが目を見張った。
「本当は、あなた自身の中で答えは出ているのでしょう?」
言われて、はっとした。
そうだ、本来は聞くまでもない。答えがわからないのではなく、迷ってしまい、決断ができなくなっていただけだった。
「ありがとう。今、自分がすべきことがはっきりとしました」
「いえ、私も以前、ノイシュタットで似たようなことに悩んでいたもので」
「ノイシュタットにいらっしゃったのですか?」
「ええ、所用で。それが何か?」
ダミアンは、意を決して話すことにした。
「これも天の思し召し。詳細は話せないのですが、これからノイシュタットは厄介なことに巻き込まれるかもしれません」
「どういうことです?」
一瞬にして、若い男の表情が変わった。
「どうも共和国が、ノイシュタットをなんらかの形で狙っているようなのです。それで、もしノイシュタットの関係者に会うことがあったら、とにかく注意を促してほしいのです」
「なるほど。でも、そのような気配はまるでありませんが」
共和国の首都ブランは、七十年前までの混乱が嘘のように平和そのものだ。今も、自分たちの隣を笑顔の子供たちが駆け抜けていった。
だが、ダミアンはため息をつきつつかぶりを振った。
「一般の民の思惑と、上層部のそれとは常に異なるものです。それはいつの時代、どこの国でも同じではないでしょうか」
「おっしゃるとおりです、私もそれを経験したことがあります。ですが、そのお話は実際のところどれほど信憑性のあることなのです」
「お疑いなのはごもっとも――」
「いえ、疑っているのではないのです。ただ、ノイシュタットの知人たちに話すにしても、いったいどの程度強調すればよいかわからないもので」
「可能性はそれなりに高いとだけは言えます」
「…………」
男は、しばらく押し黙った。
しかし、顔を上げたときにはもう、そこには迷いのかけらすら残っていなかった。
「わかりました。できるだけ早く、その話を伝えようと思います」
「申し訳ない、こんなことをいきなり頼んでしまい」
「いえ、あなたの真摯な気持ちが伝わってきたからこそ応える気になっただけですよ」
二人は別れのあいさつもそこそこに、すぐにそれぞれの目的地に向かうことにした。
「ああ、そうそう。私は、商人をしているダミアンと申します。ここやシュラインシュタットで商人にその名を出していただければ、誰かが屋敷の場所を知っていると思います」
「私はヨアヒム。ちょうどいい機会だから、これからノイシュタットに戻ろうと思います」
天の輝きが二人を照らす中、それぞれはそれぞれの道へ向かった。
その姿は人混みにまぎれ、すぐに見えなくなった。




