第五章 第二節
この階段を昇るのが、こんなに憂鬱だったことはない。これまでも暴走姫のわがままに振り回され、階段を昇るのではなく降りていこうかと思ったことは幾度となくあった。
しかし今は、理由が少し違う。姫の暴走をどう止めるかではなく、まったく逆のことで頭を悩ませていた。
踊り場に出るたびに、足を止めてため息をつく。それでも、立ち止まっていても仕方がないと思い直し、再び文字どおり重い足を上げていった。
こういうときに限って、目的地にすぐ着いてしまう。実際にはいつもよりも時間はかかっているのだろうが、考え事をしていた分短く感じた。
姫の部屋へ通じる扉の前には、常時二人は近衛兵がいるものだが、今日はさすがに人払いされていた。その分、この塔周辺の警備は増強されているものの、こうしたこともこれまでめったにないことであった。
自分で両開きの扉を開け、通路の奥へ進む。そこに、アーデルハイト姫の居室に直接つながる扉があった。
その前まで行って両足をそろえたとき、いきなり拒絶されている雰囲気を感じた。それでもめげずに、ユーグは扉の向こうの主に呼びかけた。
「殿下、お加減はいかがですか」
「いいわけないじゃない」
ベッドにでも潜り込んでいるのか、くぐもった声が返ってきた。しかし、とりあえず返事をしてくれたことになかば安心しながら、ユーグは言葉を継いだ。
「どうしたんですか、アーデ様。らしくないじゃないですか」
「私にだって、悩み事くらいはある」
今度はシーツから顔だけ出したのか、はっきりとした不機嫌な声が飛んできた。
「昨日の戦いはしょうがないことでしょう。一休みに行った村があんなところだとは知らなかったわけですし、その後の混乱も別にアーデ様の責任というわけじゃありません」
「そんなことを気にしてるんじゃない」
「じゃあ、なんですか」
「…………」
しばらくの沈黙。どうやら、自分から答えるつもりはないようだった。
「アーデ様、戦場を怖いと思うことは誰にでもあることです。それどころか、戦いに対する恐怖が消えたら、戦士としても人間としてもおしまいです。本当は、どんなに強い人でも怯えながら戦っているんですよ」
「それも違う」
ユーグは首をかしげた。
てっきり、先の戦いで自身がまさに命の危険にさらされ、そのことがショックで落ち込んでいるのだと思っていたが、そうではなかったのか。
「じゃあ、どうしてなんです。城の者も仲間も心配してますよ」
すぐに返事は返ってこなかった。部屋の中では、動いている気配はあったが。
「入っていいわよ」
意外な返答に驚きつつも、ユーグは勧めのとおり部屋の中に入った。
「って、寝間着姿じゃないですか」
アーデの姿を認識して、すぐに目を背けた。
姫は、薄いナイトドレスをまとっているだけだった。ヴァレリアほど魅惑的というほどではないが、明らかな女性らしさをともなったその肢体に、ユーグは柄にもなく戸惑った。
「いいでしょ。お互い、そんなことを気にする関係でもないし」
それはどういう関係なんだという突っ込みを入れたくなったが、怖い領域に足を踏み入れそうなので控えておいた。
「あなたの怪我のほうはどうなの、ユーグ」
「これくらいたいした問題ではないですよ、さすがに走ることはできませんが、普通にしている分には支障はありません」
そう言うとおり、見た目にはほとんどいつもと変わりがない。しかし、弩弓の矢がまともに刺さったのだ。本当は大丈夫なはずがなかった。
「私のことより、アーデ様。元気がないですね」
「元気はあるの、いろいろと考える力はあるんだから。でも、自己嫌悪に陥っているだけ」
飲み物を水差しから杯にそそぎ、一気に飲み干した。
「自己嫌悪?」
「私はあのとき、本気であの男を殺そうとした」
翼人を〝家畜〟呼ばわりしたあの村長。奴に対して、憎しみと怒りが極限にまで達し、自分は剣を抜こうとした。
「ユーグが私の手を押さえてくれなかったら、たぶん本当に……」
アーデの声は細く、顔はいつもよりもなおいっそう白いように見えた。
「ふだん、敵を憎んじゃいけないなんて偉そうなことを言ってるくせに、自分自身がそれを抑えきれなかった。笑っちゃうでしょ」
「笑わないですよ、誰も」
ユーグの声はいつになく真剣だった。
「いえ、笑えないんです。誰にだって、そういう思いはあるんですから。誰も憎まず、誰にも殺意を覚えずに生きていくなんてことは、むしろ不可能です。アーデ様にそういう経験がないのなら、これまでたまたま恵まれすぎていただけということです」
「……そうなのかな」
ユーグは、これまでとは違ったため息をついた。それは他ならぬ、安堵の息であった。
なんともアーデらしい。戦いについて思い悩むのではなく、自身が相手を傷つけようとしたことを気にかけていたとは。
――確かに、元から戦で怯えるような玉じゃない。
「アーデ様、みんながいつもの場所で待っています。先の戦いの反省をしなければいけませんし、例の捕らえた翼人の処遇も決めなければ。それに、白い翼の彼が待ってますよ」
「うん、わかってる。着替えるから、ユーグは先に行ってて」
律儀な騎士が、一礼して部屋を出ていった。
足音が遠ざかるのを待って、アーデはベッドの下に隠してあった剣を取り出し、そして引き抜いた。
その輝く刀身に、覇気のない己の顔を見る。
――こんなことで、くじけてちゃいけない。自分の手を血で染める覚悟もしなければ。
他のみんなはその覚悟を持って戦っているというのに、肝心の自分がたった一度のことで、ここまでこころが揺れてしまうとは。
もっと覚悟しよう、もっと強くなろう。
アーデは、その剣にではなく、今まで協力してきてくれた仲間にこそ誓った。




