第五章 残されたもの
その主のごとく見目麗しく、洗練されたシュラインシュタットの城は、常日頃ない慌ただしい雰囲気に包まれていた。
あちこちで何かを呼び求める大声が飛び交い、ノイシュタットの役人やら兵士やらがひっきりなしに行き交っている。それが沈静化しそうな様子はまるでなかった。
こんなことは、これまで一度としてなかった。アイトルフ騒乱のときも、そして帝都騒乱のときでさえシュラインシュタットは落ち着いていたというのに、まるで自領が攻められたかのように忙しない。
その原因はただひとつ、よりにもよって侯都の近くに位置する村で翼人による大規模な襲撃があり、そこが壊滅してしまったとの報がもたらされたためであった。
フィズベクでの経験があるとはいえ、よもやノイシュタット侯のお膝元で似たようなことが起きるとは、しかも人間の集落が潰されるとは誰も予想だにしていないことであっただけに、その驚愕の度合いはすさまじい。
それは主君たるフェリクスや、その副官たるオトマルも例外ではなかった。
「なんということだ……」
〝青年侯〟と称されるフェリクスも、疲れの色を隠せなかった。こめかみに手を当て、なんとか平静を保つのがやっとだ。これまでの忙しさゆえの苦悩とはまるで性質の異なる重さに、頭がじんじんと痛む。
「これは予測しておりませんでしたな。まさか、わが領内の集落が直接翼人に狙われるとは」
「だが、現実に起きたことだ。ことのしだいを分析して、今後の対応を練るしかない」
「それなんですが、どうも妙なことが多いのです」
「妙なこと?」
フェリクスが体を起こした。
「はい、報告によると翼人同士でもひどく争っていたとのこと。最初、翼人が突然村人に襲いかかり、村の衛兵が応戦。その後、あとからやってきた別の翼人の集団と先のそれとが、いきなり戦いはじめたそうです」
「じゃあ、仲間割れではなく、それぞれ違う利害関係をもった集団かもな」
「ええ。ただよくわからないのは、そこへさらに小規模な集団がやってきて、一時的に三つどもえの戦いになっていたとか。さらに、村人を襲う翼人と相対して戦う人間もいて、妙に翼人相手に手慣れていたそうです」
「それは問題ない。まあ、世の中、いろんな戦士がいるだろう。翼人とともに戦っていたならともかく、人間を守るためにそうしてくれたならありがたいことだ」
「……それがそうでもないのです」
「どういうことだ」
オトマルは、一度深く呼吸してから答えた。
「村の生存者によると、一部の人間が翼人と何事か話し込み、どうも共同で行動していた節があるのです」
「翼人と結んでいる人間がいるということか?」
「かもしれません。しかも、特定の翼人と人間とが、共同でひとりの女性を必死になって守ろうとしているように見えたとか」
「ほう、どういう女性なんだ」
「フードを目深にかぶっていたので風貌はわからなかったようですが、雰囲気からしてまだ若いのではないかと。ただ、周りの人間や翼人がこう呼んでいたそうです」
少し眉をひそめ、それでもオトマルは言った。
「アーシェラ、と」
本当は、村人のひとりがもうひとつの名を聞いているのだが、今は伏せておくことにした。
悩み抜いているフェリクスを、さらに悩ませてしまいかねない。
――姫にあやかって同じ名をつけた者などいくらでもいる。
オトマルは、みずからにもそう言い聞かせた。
「このあたりでは、あまり聞かぬ名だな。それより、そもそもどうしてその村は襲われたんだ」
「問題はそこです。翼人同士の争いは、仲間割れなのか集団同士の諍いなのかは、結局のところ翼人側の事情なので我々に直接の関係はありません」
「そうだな」
「しかし、彼らがそのリファーフの村を狙ったのはなんらかの理由があるはず。そう思って、密偵も動員して能うかぎり調べてみたら、とんでもないことが判明したのです」
「それは?」
オトマルが厳しい顔のまま、居住まいを正した。
「まず、閣下。リファーフの村がどれほどの規模かご存知ですか」
「これまで聞いたことのない名だからな。二、三百人くらいか」
「いいえ、五千です」
「五千!? 五千といったら、もう村という次元ではないぞ。ほとんど都市と同じではないか」
「ええ、我々も驚いたのですが、元々は全村民合わせても百人ほどの小さな村だったとか」
「それが、我々の知らない間にその規模になるというのは有り得ないことだぞ」
「しかし、現にそうなりました。理由は、わずか二年ほどの間に急速に発展したのです」
「ばかな。いくらこの地域が順調とはいえ、そんなことは不可能だ。それとも、商人とでも結託して小ずるいことをしてきたのか」
「いいえ、それが逆なのです。村はずっと商人を毛嫌いしてきて、古株の村民によると、以前は商人にずっと足元を見られていたためとか。それで発展してからも商人の出入りを禁じていたくらいでして」
「じゃあ、なぜそこまで発展できたんだ」
「落ち着いてお聞きください、フェリクス様」
ひとつ咳払いしてから、オトマルは告げた。
「もっとも効率のいい仕事のしかたといえばなんでしょう?」
「効率のいい? 私としては、そんなものはないと思っているがな」
「単純な話です、他の者にただ働きをさせればいいのです。そのうえで自分の仕事をこなせば、二倍近い量をこなせる」
勘のいいフェリクスは、オトマルの言わんとしているところをすでに察していた。
「……奴隷か」
「はい、リファーフの村は、よりにもよって翼人を捕らえて奴隷として使っていたのです」
「だが……だが、帝国法では奴隷を禁じているはずだ」
「フェリクス様、帝国法は人間に対してのみ効力を発揮します」
「あっ」
「そうです、人間ではない翼人は完全に法の対象外です」
嫌な頭痛に、オトマルもこめかみを押さえた。
「リファーフの村は、法の隙間を突いたのでしょう。それよりもまず、翼人に対する蔑視が根底にあったとしか思えません」
「まさか、こんなところにも翼人と人間の間にある齟齬の問題が出てくるとは……」
互いの無理解、遠い距離、そして断絶。
そうした没交渉が、今回のような狂った事態を招いてしまうことになる。
「フェリクス様は、これからは翼人とも対話すべきとお考えですか」
「もちろんだ。その前に、まずは我々のほうが翼人について知らなければならないだろうが」
「なるほど……」
フェリクスがみずからそのようなことを口にしたことに驚きつつも、オトマルはそれとはまた別のことに衝撃を受けていた。
――対話が必要というなら、アーデ殿下はフェリクス様の先を行っていることになる。
話し合うどころか、すでに翼人と協力関係にあるのだから、フェリクスだけでなく他の諸侯すら凌駕している。
先の先を読む力は、フェリクス以上にずば抜けたものがあると感じてはいたが、正直なところまさかここまでとは思わなかった。
――ううむ、しかし困ったぞ。
おそらく、今回のことにも深くかかわっているのだろうが、これでは厳しく戒めることができない。すでにみずからにも手を打たれてしまったことを察し、オトマルは嘆息するしかなかった。
「要は、奴隷とされている仲間を助けに来たということか。これでは、どちらが悪者かわからんぞ」
「戯曲家なら、まず間違いなく村のほうを悪者にするでしょうな」
「だろうな。翼人のテーマは、昔から定番だ」
ただ、そこにも人間側の偏見や勝手な思い込みが多分に含まれている。現実から離れた翼人の美化も蔑視も、相手への無理解という点に関しては同じだった。
「きっとそれを人間と協力する翼人たちが勘違いして、翼人同士で戦いはじめたのだろう。三番目の集団は、単に仲裁に入ろうとしたか、戦いに巻き込まれただけかもしれん」
「我々が出した結論も同じものです。元々の非は村側にあったと。現に、人間の犠牲者は基本的に衛兵だけだったそうです」
「しかし、厄介なことになった」
息を吐きながら、フェリクスはゆっくりと席を立った。
「村の再建がどうこうよりも、今回の一件についての噂が翼人の世界に広まれば、このノイシュタット、いや、人間そのものが彼らから憎まれることになる」
「もっとも危惧しなければならない事態ですな。もしそうなったら――」
フェリクスは、窓の外を眺めながらつぶやいた。
「翼人と人間の全面戦争だ。帝都騒乱のようなことが各地で頻発することになる」
「まさに考えうるかぎり最悪の事態です。帝国だけでなく、人間にとっての文明はめちゃくちゃになるやもしれません」
「それだけじゃない、翼人の側もただではすむまい」
フェリクスは、有能な副官のほうを振り返った。
「今はまだ、大半の人間も、そしておそらく大半の翼人も、互いのことを関係のない〝遠き隣人〟だと考えている。だが、それを改めないかぎり、これからはどうしようもないのかもしれん」
開け放たれた窓から、湿った風が吹き込む。
不穏で不快な気配に二人が一様に表情を硬くしたが、よもやさらなる苦境を知らせる急使がシュラインシュタットに向かっていようとは、今の二人には知る由もなかった。
::*
この階段を昇るのが、こんなに憂鬱だったことはない。これまでも暴走姫のわがままに振り回され、階段を昇るのではなく降りていこうかと思ったことは幾度となくあった。
しかし今は、理由が少し違う。姫の暴走をどう止めるかではなく、まったく逆のことで頭を悩ませていた。
踊り場に出るたびに、足を止めてため息をつく。それでも、立ち止まっていても仕方がないと思い直し、再び文字どおり重い足を上げていった。
こういうときに限って、目的地にすぐ着いてしまう。実際にはいつもよりも時間はかかっているのだろうが、考え事をしていた分短く感じた。
姫の部屋へ通じる扉の前には、常時二人は近衛兵がいるものだが、今日はさすがに人払いされていた。その分、この塔周辺の警備は増強されているものの、こうしたこともこれまでめったにないことであった。
自分で両開きの扉を開け、通路の奥へ進む。そこに、アーデルハイト姫の居室に直接つながる扉があった。
その前まで行って両足をそろえたとき、いきなり拒絶されている雰囲気を感じた。それでもめげずに、ユーグは扉の向こうの主に呼びかけた。
「殿下、お加減はいかがですか」
「いいわけないじゃない」
ベッドにでも潜り込んでいるのか、くぐもった声が返ってきた。しかし、とりあえず返事をしてくれたことになかば安心しながら、ユーグは言葉を継いだ。
「どうしたんですか、アーデ様。らしくないじゃないですか」
「私にだって、悩み事くらいはある」
今度はシーツから顔だけ出したのか、はっきりとした不機嫌な声が飛んできた。
「昨日の戦いはしょうがないことでしょう。一休みに行った村があんなところだとは知らなかったわけですし、その後の混乱も別にアーデ様の責任というわけじゃありません」
「そんなことを気にしてるんじゃない」
「じゃあ、なんですか」
「…………」
しばらくの沈黙。どうやら、自分から答えるつもりはないようだった。
「アーデ様、戦場を怖いと思うことは誰にでもあることです。それどころか、戦いに対する恐怖が消えたら、戦士としても人間としてもおしまいです。本当は、どんなに強い人でも怯えながら戦っているんですよ」
「それも違う」
ユーグは首をかしげた。
てっきり、先の戦いで自身がまさに命の危険にさらされ、そのことがショックで落ち込んでいるのだと思っていたが、そうではなかったのか。
「じゃあ、どうしてなんです。城の者も仲間も心配してますよ」
すぐに返事は返ってこなかった。部屋の中では、動いている気配はあったが。
「入っていいわよ」
意外な返答に驚きつつも、ユーグは勧めのとおり部屋の中に入った。
「って、寝間着姿じゃないですか」
アーデの姿を認識して、すぐに目を背けた。
姫は、薄いナイトドレスをまとっているだけだった。ヴァレリアほど魅惑的というほどではないが、明らかな女性らしさをともなったその肢体に、ユーグは柄にもなく戸惑った。
「いいでしょ。お互い、そんなことを気にする関係でもないし」
それはどういう関係なんだという突っ込みを入れたくなったが、怖い領域に足を踏み入れそうなので控えておいた。
「あなたの怪我のほうはどうなの、ユーグ」
「これくらいたいした問題ではないですよ、さすがに走ることはできませんが、普通にしている分には支障はありません」
そう言うとおり、見た目にはほとんどいつもと変わりがない。しかし、弩弓の矢がまともに刺さったのだ。本当は大丈夫なはずがなかった。
「私のことより、アーデ様。元気がないですね」
「元気はあるの、いろいろと考える力はあるんだから。でも、自己嫌悪に陥っているだけ」
飲み物を水差しから杯にそそぎ、一気に飲み干した。
「自己嫌悪?」
「私はあのとき、本気であの男を殺そうとした」
翼人を〝家畜〟呼ばわりしたあの村長。奴に対して、憎しみと怒りが極限にまで達し、自分は剣を抜こうとした。
「ユーグが私の手を押さえてくれなかったら、たぶん本当に……」
アーデの声は細く、顔はいつもよりもなおいっそう白いように見えた。
「ふだん、敵を憎んじゃいけないなんて偉そうなことを言ってるくせに、自分自身がそれを抑えきれなかった。笑っちゃうでしょ」
「笑わないですよ、誰も」
ユーグの声はいつになく真剣だった。
「いえ、笑えないんです。誰にだって、そういう思いはあるんですから。誰も憎まず、誰にも殺意を覚えずに生きていくなんてことは、むしろ不可能です。アーデ様にそういう経験がないのなら、これまでたまたま恵まれすぎていただけということです」
「……そうなのかな」
ユーグは、これまでとは違ったため息をついた。それは他ならぬ、安堵の息であった。
なんともアーデらしい。戦いについて思い悩むのではなく、自身が相手を傷つけようとしたことを気にかけていたとは。
――確かに、元から戦で怯えるような玉じゃない。
「アーデ様、みんながいつもの場所で待っています。先の戦いの反省をしなければいけませんし、例の捕らえた翼人の処遇も決めなければ。それに、白い翼の彼が待ってますよ」
「うん、わかってる。着替えるから、ユーグは先に行ってて」
律儀な騎士が、一礼して部屋を出ていった。
足音が遠ざかるのを待って、アーデはベッドの下に隠してあった剣を取り出し、そして引き抜いた。
その輝く刀身に、覇気のない己の顔を見る。
――こんなことで、くじけてちゃいけない。自分の手を血で染める覚悟もしなければ。
他のみんなはその覚悟を持って戦っているというのに、肝心の自分がたった一度のことで、ここまでこころが揺れてしまうとは。
もっと覚悟しよう、もっと強くなろう。
アーデは、その剣にではなく、今まで協力してきてくれた仲間にこそ誓った。
::*
シュラインシュタットという名の町は、確かに規模のわりに落ち着いて見えた。これでも先の戦いのせいで十分騒がしくなっているそうだが、あの帝都よりも嫌な感じはしなかった。
翼人への警戒心が強くなっているからと、あまり町に近づかないように言われている。そこでヴァイクは、その周辺を高い位置から見て回っていた。
――さすがに、他の翼人の姿はないか。
新部族と名乗る者たち以外に、同族のいる気配はない。もっともここから北へ向かってダルムに近づけば翼人の領域になるそうだが、よくは知らなかった。
ヴァイクは、いったん新部族の面々から離れた。なんでも肝心の仲間がまだ来ていないそうで、待たされたことにしびれを切らせて飛び立っていた。
とはいえ、せっかく動き回ってもたいしたものは得られそうになかった。周りの地形を把握することはできたが、人間の勢力の強いこの地で戦いになるとも思えない。
意味のない飛行に飽き、そろそろ戻ろうかと考えはじめた頃、視界の片隅にふと引っかかるものがあった。
何かが森の上すれすれを飛んでいるようにも思える。樹木の陰に隠れたりしてよく見えない。
それに対して妙に感じるものがあり、ヴァイクはとりあえずそちらに向かい、確認してみることにした。
下に弓兵がいないか警戒しながら、高度を落としていく。影は、森の木々のあいだに見え隠れしている。
念のため、相手に気づかれないように接近していった。向こうの移動速度は速く、植物が鬱蒼と茂った森の中を驚くほど軽快に飛んでいた。
はっきりとは確認できなくとも、相手が翼人だということはわかる。飛び方に独特の動きがあった。
――本当に速い。
ついていくのでやっとだ。いったい、どういう人物なのだろう。これだけの飛行ができるのなら、剣のほうも相当な使い手のはずだった。
それでも、追いかけるヴァイクもけっして負けてはいない。対象に徐々に近づき、翼の色を視認できるところまで来た。
――紫?
どこかで見たことがある。
そうだ、紫色の翼といえばあの男。
マクシムの副官でありながら、マクシムを殺したあの裏切り者。
――クラウス。
そういえば、昨日の〝極光〟の中に奴の姿はなかった。やはり、組織からは離れたのだろうか。それならば、今どこで何をしているのか。
目の前の翼人が無性に気になってきた。場合によっては、戦ってでも素性を明らかにしてやる、とヴァイクは目を鋭くした。
だが、こちらに気づいたのか、相手の飛ぶ速度がいっそう速くなった。このままではつききれないかもしれない。そう感じたヴァイクは、思いきって森の上へ出て、そこから相手がいるであろうポイントへ急降下していった。
枝葉を弾き飛ばし、自身の羽が飛び散るのも構わず、落ちるようにして突っ込む。
はたして、そこには確かに翼人がいた。
こちらに驚愕の表情を向けているのは、腕いっぱいに草やら花やら茸やらを抱えている、萌葱色の翼の男だった。
「……なんだ、ナータンか」
「び、びっくりした。ヴァイクこそ、どうしてここに?」
「翼人を追いかけてた。こっちのほうに誰か来なかったか?」
「いいや。あれ? でも、そういえばなんか上のほうでガサガサいってたような」
「お前は気配に気づかないのか」
「いや、薬草採りに集中していて……」
大切そうに抱えているものは、すべて薬に使うものらしかった。そそくさと袋に詰め込んでいった。
「何かしでかしたの? その翼人」
「いや……それより、この辺だと紫色の翼って多いのか?」
「全然。まったく見かけないよ。噂だと、ずっと東方の部族だって聞いたことがある」
「そうか――」
どうにも気になったが、見失ってしまった以上、今はもう確認のしようもなかった。
「それより、そろそろ戻ろう。たぶん、アーデたちも来てると思う」
「アーデ?」
「僕たちの実質的なリーダーだよ。前に会ってるだろ」
「あの女か」
昨日、自分の勘違いで刃を向けてしまった女性。再びすぐに顔を合わせるのはばつが悪いが、そうも言ってられなかった。
「こっちは急いでるんだ。姫様だかなんだか知らないが、さっさとしてくれ」
「そういうことは本人に言ってよ。結局、誰も逆らえないんだから」
「女相手にか」
「彼女は特別なんだ。それに、君だってヴァレリアに頭が上がらないじゃないか」
「…………」
いろいろときっちり反論したいのだが、悲しいかな、その材料が少なすぎた。
獲物を逃がしたことも合わせて二重に不機嫌になったヴァイクが、さっさと飛び上がった。ずだ袋を担いだナータンがそれにつづく。
新部族が拠点にしているという城の裏山は、ここからすぐだ。まだ日が高い位置にあるから大きく迂回していかなければならないが。
人間の目では視認できないかもしれないが、上空からすぐに他の面々の集まっている場所はわかった。
そこへ急降下していくと、いつもの声が出迎えてくれた。
「ヴァイク」
「ベアトリーチェ、全員集まったのか?」
「いいえ、まだ」
それを聞いてさらに機嫌が悪くなったヴァイクであったが、今のうちに確認しておきたいことがあった。
「なあ、最近この辺で紫の翼の奴を見たことはないか」
「紫?」
答えたのは、灰色の翼のゼークだった。
「ねえな。部族でも紫の翼の者はこの地域にはいねえ。いたとしたら、十中八九はぐれ翼人だ」
「そうか」
「それより、てめえ、なんでここにいる」
ゼークが目を細めた。
「いたくているわけじゃない。とりあえず、ここへ行けと言うから来ただけだ」
「誰がだ」
「私よ」
音もなく静かに近づいてきたのは、紅色の翼のヴァレリアだった。
「なんでヴォルグ女がここにいる」
「いいじゃない、別に。あんたも、私がいなくて寂しかったでしょ」
「確かに年寄りは減ったな」
「私は年寄りじゃない」
口が過ぎる男をキッと睨みつけたヴァレリアは、山道のほうからの人の気配に振り向いた。
「ああ、やっと来たようね」
「みんな、遅れてごめん」
素直に謝罪の言葉を口にしたのは、らしくない黒のドレスをまとったアーデだった。その後ろに、長身のユーグが付き従っている。
「全員いる?」
「全員はいない。一部だけだ。余計なのは交じってるがな」
「最近、レベッカよくいなくなるのね」
「ナータンもな」
「僕はちゃんと仕事してるだけだよ」
「じゃあ、レベッカはどこへ行ったんだ」
「そんなこと僕に聞かれても……」
「ま、いいが」
「そうよ、ここは部族でも帝国でもない。互いに束縛することのない、自由な新部族なんだから」
そう誇らしげに言うと、ヴァイクたちのほうに右手を差し出した。
「ようこそ、新部族へ。私たちは、あなたを歓迎するわ」
だが相手に、いっさいの反応がない。
沈黙の精霊が周囲を支配した。
差し出した手をどうしようかと迷い、アーデは泣きそうな顔になっている。
「……誰も入るなんて言ってない」
「ええっ!? ヴァレリア、どういうこと!?」
「そういうこと。私は連れてきただけ」
「じゃあ、なんのために……」
「元々は、お前たちの話を聞くためだった。だが、そう悠長なことを言ってられなくなった」
「どういうことだ?」
ユーグの問いに、ヴァイクは単刀直入に答えた。
「俺の人間の仲間が、〝虹〟という奴らに捕まっている。早く助け出さないと危ない」
「それで、例の黒い翼の彼を捕らえたのか」
「ああ、奴から居場所を聞き出すつもりだ」
「彼、何かしゃべった?」
とアーデが聞くと、ナータンはかぶりを振った。
「なんにも。見事なくらい微動だにせずに黙ってる。いっそ、感心するよ」
「そういう奴は、一度がつんとやってやりゃあいいんだよ」
「じゃあ、ゼークは力ずくで尋問されてしゃべっちゃうの?」
「…………」
「彼、君と同じタイプだよ。強引にすればするほど強情になる」
「うるせえ」
一同がいっせいに笑った。ゼークだけはナータンを射抜かんばかりに睨んでいるが、そこに迫力はなかった。
「そう。じゃあ、ともかくもう一度会ってみましょう。例のところへ行くわよ」
「例のところ?」
ヴァイクが、アーデのほうに目を向けた。
「ここの地下にある私たちの拠点よ。古代の遺跡を利用しただけなんだけどね」
「完成してたんですね」
「そうよ、ユーグ。ヴィトーリオたちががんばってくれた。実際に戦っている人員だけじゃない。こうやって、私たちは裏方のような人たちにも支えられてる」
「ヴィトーリオ? 今、ヴィトーリオと言ったのか?」
やや離れた位置から声が上がった。セヴェルスが、メルの乗った馬を引いて近づいてきた。
「ああ、あなたがセヴェルスさんね。気を使わせてしまってごめんなさい」
新部族にも弓を毛嫌いする者はまだまだ多く、セヴェルスはあえて離れていたのだろうとアーデは思った。
「そんなことより、ヴィトーリオというのは研究所にいる奴のことか」
「……なぜそれを?」
「俺たちは、彼に会った。お前らにかかわりのある奴だったのか」
これで合点がいった。あんな場所にあんな人物がいることが不思議だったが、こういう組織に属しているのなら納得がいく。
「奴は、この娘の足を治せるかもしれないと言った。まずは、シュラインシュタットの神殿へ行ってからだがな」
「神殿か……」
怪訝そうに目を伏せたアーデに、セヴェルスが再び問いかけた。
「何かあるのか?」
「神殿……は、やめたほうがいいと思う」
「なぜ?」
「あそこは、完全におかしくなってる。レラーティア教の腐敗の象徴みたいなところね」
内では権力争いに終始し、足の引っ張り合い。それでいて特権意識が強く、外に対しては高圧的。
『どうしようもない』という一言がまさにぴったりな状態であった。
「信者だけでなく神官まで離れていってるし、ま、なんにせよ神殿は当てにしないのがシュラインシュタットでの常識よ」
「……そうか」
「でも、ヴィトーリオに診せればいいわ。彼が自分から名乗ったんなら、治す自信があるってことだろうし――ユーグ」
「わかってます。あとで部下の者に案内させます。それより今は、地下のほうへ」
長身の騎士が先導し、この場にいる者たちは森の一角へ向かった。
厄介な灌木が生い茂る獣道をしばらく進むと、岩場が見えてきた。否、自然のそれではない、どうやら人工の石材が崩れたあとのようだった。
「こんなところに?」
「まあ、ついてきて」
訝るヴァイクを促し、アーデらはその裏手へと回っていった。すべて瓦礫かと思われたそこは、一部のみ以前の形を残していた。
そこにある石のいくつかをユーグが押し込むと、わずかな地鳴りとともに手前の壁が横にずれ、人ひとりがやっと通れるほどの隙間ができた。
「さあ、どうぞ」
と言われても、翼が邪魔になって非常に入りにくいのだが、新部族の面々はそれを苦にせず器用に入っていった。そのあとに、ヴァイクやセヴェルス、ベアトリーチェらが続いた。
「こうなってたのか……」
中は、思いのほか広い空間になっていた。壁や床は石材によってしっかりと整えられ、天井には幾重にも梁が巡らされている。古代の遺跡を利用した物とはとても思えなかった。
燭台やランプに光が灯されていくと、アーデがおもむろに口を開いた。
「牢はこの奥よ。とにかく、まずはアーベルという人の話を聞いてみないと」
その意見には皆、賛成だった。〝虹〟についてくわしいことがわからないことには、先が見えてこない。それには、当事者に話を聞くのがもっとも手っ取り早かった。
黒い翼の少年は、鉄格子の奥にいた。憔悴した様子で壁に寄りかかってうずくまり、近づいてくる者たちを鋭い目つきで睨みつけた。
「あら、まあ、随分とご機嫌なようね」
アーデの言葉にも、反応する様子はない。
だが、白い翼の男の姿を認めると、明らかに反応があった。
「おい、少しはしゃべる気になったか」
「…………」
「黙ってるだけじゃ、お前にとっての状況も変わらないぞ」
と言っても、少年は目をそらすだけだった。
だが、まったくこちらの声を聞いていないわけでもない。そこに希望を見出し、ヴァイクは再び問うた。
「ジャンをどこへやった? どこへ連れていったんだ」
「――答えるわけがない。僕にだって翼人の誇りがある。仲間の居場所を教えるようなことはしない」
「じゃあ、ジャンはお前たちの仲間のところにいるんだな」
「…………」
しまったと、アーベルはほぞを噛んだ。余計なことを言ったせいで、大事なことを図らずも教えてしまった。
「僕にとっては仲間がすべてだ。みんなを裏切るような真似は絶対にしない。僕を殺すならさっさと殺せ。覚悟はもうできている」
アーベルは目を伏せた。
「僕は、今まで多くの心臓を奪ってきた。だから、今さら自分がじたばたするつもりはない。今度は自分の番だというだけだ」
「ちょっと待――」
「そうか」
アーデの言葉を遮り、ヴァイクは剣をすらりと抜いた。アーベルよりもむしろ、周囲の者たちのほうが色めき立った。
「ヴァイクさん!?」
「何か最後に言い残すことはあるか」
「ない――けど」
わずかに躊躇してから、アーベルは口を開いた。
「もし〝虹〟に何かあったとしたら……マリーアのことを頼む」
「!?」
その名を聞いて狼狽したのは、ヴァイクと、そしてゼークほうだった。
「彼女もクウィン族なんだろう? もしイーリスのみんなに何かあったら、こっちの仲間に入れてやってほしい」
「マリーアは……生きているのか!?」
「生きてはいるが――まともにしゃべることができない」
「なんだと!?」
「意識はあるんだけど、こころがないような感じなんだ」
ヴァイクは、二重に衝撃を受けた。あのクウィン族が壊滅した日の夜、彼女も犠牲になったものとばかり思い込んでいた。
その彼女が生きていて、しかも自分たちの近くにいようとは。驚きを通り越して信じがたいことであった。
「なぜ、そんなことに?」
「わからない。僕たちが森の中で見つけたときにはもう、そうなっていた。昔からじゃないのか?」
「違う。マリーアは、明るくて闊達な子だった。少し物思いにふけるところはあったが」
「――ただ、あんたの名前だけは憶えていた」
「何?」
「何度かあんたの名前を呼んだんだ。まだ元に戻れる望みはあるのかもしれない」
そう言うアーベルの表情は、どこか悔しげだった。
マリーアには、純粋に幸せになってしてほしいと思う。しかしそれを実現するのが、この目の前の男だというのは明確に気にくわない。
とはいうものの、覚悟はできていた。いつかこんな日が来ることを、マリーアとずっとは一緒にいられないであろうことを。
「マリーアも……同じ部族の人と一緒にいたほうがいいはずだ」
「お前はそれでいいのか」
「え?」
「お前自身は、それで納得できるのかと聞いている」
改めて真正面から問われ、あわてた。
「……納得するしかない。僕にはもう、選択の余地はないんだ」
「あきらめるんだな?」
「あきらめるしかないじゃないか! どうしようもないことをあきらめて何が悪い!」
「どんなにどうしようもなく思えることでも、あきらめなければなんとかできる可能性は残る。お前は困難から逃げているだけだ」
アーベルは白翼の男を呪殺せんばかりに睨みやるが、反論はできなかった。
見かねて、ヴァイクの隣にいたアーデが口を挟んだ。
「アーベルくんは、何を目標に今までがんばってきたの?」
「……そんなことを考える余裕もなかった」
「そう、じゃあ、今考えなさい」
アーベルが、怪訝そうに顔を上げた。
「誰でも、自分が生きている意味を考えているものよ、自分なりにね。本当は、今のいろいろな状況をなんとかしたいんでしょ? だったら、すぐにでも何かをしなきゃ。わかる?」
「僕を子供扱いするな!」
「ごめんごめん、そんなつもりじゃないのよ。あなたならきっとできるって言いたかっただけだから」
「あ、アーデ様が大人に見える……」
アーベルをなだめすかすアーデを見て、もっとも衝撃を受けていたのは他ならぬユーグであった。
いつも周りを振り回しているくせに何を偉そうに、とは思うのだが、アーデに比べればアーベルは確かにまだ子供かもしれなかった。
それに、まともな話をするためにも、一度落ち着かせる必要があった。
「私たちは、あなたを害するつもりなんてないわ。あなたの組織と話し合いたいの。そのためには、あなたにしっかりしてもらわないと」
驚いたのは、ゼークたち新部族の面々だった。
「おいおい、本気で言ってるのか、アーデ」
「当たり前じゃない。それぞれの組織間で協力することも、これからは必要でしょ」
「無駄だ」
アーベルの返答はすげなかった。
「同族を家畜にするような奴らと手を組むつもりなんてない。僕が仲介することもな」
「だから、それは誤解だって言ってるでしょ」
「信用できない」
「…………」
強情である。さすがのアーデも鼻白んだ。
「まあ――」
と、ヴァイク。
「しばらくそこで頭を冷やしてろ。確かにお前の言うとおり、元から選択の余地はないんだ」
厳しい言葉だけを残し、黒翼の少年に背を向けた。
「今はまだ難しいか――でも、アーベルくん、私は本気よ。イーリスと協力したい、そうすべきだって考えてる」
アーデの言葉を最後に、全員がどこか失望の色をにじませて地下アジトの奥にある牢を出ていった。
あとには、うずくまった少年だけが残されている。
::*
周りは暗く、目を凝らしたところで何も見通すことはできない。全身を覆う感覚は不確かで、どこか空気が重く感じられた。
――今の自分にはお似合いだ。
この暗闇も、冷気も、沈黙も、すべておのれの内面の実情にふさわしかった。自身が思い悩んでいる様々なことがばかばかしくなってきて、アーベルは自嘲的な吐息をもらした。
――どうして、僕は生かされているのだろう。
戦いに完敗した時点で、みずからの心臓を奪われる覚悟をした。元より、生半可な覚悟では剣を握れない。〝もしも〟のときのことは、常に頭の中にあった。
――けど、僕は生きている。
この生の感覚が理不尽にも思えた。
なぜ、終わらない。
なぜ、終わらせられない。
何もかもが幕を閉じてしまえば、もう楽になれるだろうに。
自暴自棄の螺旋の中、ふと浮かんだ、ひとりの少女の面影。
――マリーア。
望みのない人生の内にありながら、彼女だけが希望を与えてくれた。なんの取り柄もない自分を救ってくれた。
――彼女さえ幸せならそれでいい。
〝本当にそれでいいのか〟
喉の奥にある別の自分が問いかけてくる。
| 本当にそれでいいのか《、、、、、、、、、、、》。
いいはずだ。彼女が笑顔になれるのなら、今生にもはや未練はない。
《本当にそれでいいのか》
もうひとりの自分が、明確にヴァイクの顔になった。そして、無遠慮にこちらを問い詰める。
《お前は逃げてるだけじゃないのか》
――うるさい。俺に語るな、命令するな。お前に何がわかる。お前なんかに俺をなじる権利なんてない。
しかし、どんな言葉で逃げようとしても、白翼の男は容赦なく迫ってきた。
《自分のことくらい自分で決めろ。それすらもできないのか。だとしたら、お前はただの子供だ》
――うるさい!
こころの膜を裂く悲痛な叫びがこだました。それはアーベル自身の耳にこそ強く響き、反響に反響を重ね、いつまで経っても頭から離れてはくれない。
すべて、言われなくてもわかっていた。それを、ぶしつけにも真正面から糾弾されたことで混乱し、ひたすらに苛立った。
ただ、おかげで見えてきたこともあった。
――自分は素直じゃないのかもしれない。
どこかで、おのれの本音と逆のことをしようとしている。いろいろなことを考え、いろいろなことを悩み、結果的に自身の本心とはずれたことをしていた。
損な性格だと自分でも思うが、こればかりはどうしようもなかった。
この日、何度目かもわからないため息をついたとき、ふと通路の奥のほうから誰かが近づいてくる気配があった。
ろうそくの心細い明かりの中でも、夜目のきく翼人にはわかる。ひとりの人間のようだった。
その人物、ベアトリーチェは牢の前でゆっくりと止まった。
――女か。
アーベルは意外に思ったが、あえて表情には出さなかった。
「アーベル、ちょっと話をいいかしら」
こちらが黙っていると、女は勝手にしゃべりだした。
「さっきのヴァイクの言葉、怒らないであげてね」
なんだ、そんなこと――と思ったが、声には出さない。
「彼、あなたにわかってほしかっただけなの、かつて自分が経験してきたことを。彼も、ずっと悩みを抱えて生きてきたから」
こちらが怪訝そうな目を向けると、ベアトリーチェという女はつづけた。
「ヴァイクもね、何度も自暴自棄になりそうになってた。ううん、実際にそうなっていた。けど、そのたびに彼は自分の力で立ち上がってきたの、不死鳥のように」
女は、いったん言葉を切った。いつの間にか、その話に引き込まれている自分がいた。
「どうしてそれができたと思う? 理由は簡単。ただあきらめが悪かったから」
「…………」
「何度あきらめようとしても、あきらめきれなかったの。彼の中には、そうさせようとしない何かがあった」
「何かって?」
「たぶん、ひとつじゃない。あの人は――自分の兄の心臓を得た」
「!」
「それに、リゼロッテという少女の思いも受け継いだから」
「――その話なら聞いた、ジャンという男から」
「やっぱり」
暗がりの中でもわかる、ベアトリーチェは微笑んでいた。
「……なあ、リゼロッテという子はどうして決断できたんだ」
「それは、本人にしかわからない。でも、たぶんやさしかったから」
「やさしい?」
「意志が強いとか、勇気があるとか、そんなことじゃない。ただやさしかった、それだけなの」
ベアトリーチェは、服の上からリゼロッテから譲り受けたペンダントを握りしめた。
「あの子は、他の誰も傷つけたくなかった。悲しませたくなかった。もし誰も何も奪われないのなら、ジェイドのようなものでも食べていたでしょうね」
「……僕には、そこまでの決断はできない」
「そう、だからヴァイクも、いいえ、他のみんなもずっと苦しんでる」
つらいのはあなただけではない、と言外の意味を込めた。
アーベルは、再び視線を下に向けた。
「どうしてそのことを僕に?」
「こういう言い方は失礼になるかもしれないけど、あなた、以前のヴァイクに似てるのよ」
寂しがりやのくせに強がって、苦しいのに問題ないと言ってみせる。
それが結果的に自身を追い込み、やがて積もり積もってこころを重くしていく。
そして、いつしか自分でも内面を動かせなくなってしまう。
「彼だって、まだ乗り越えられていないところがたくさんある。でもね、彼の一番すごいところは、きっとあきらめかけても最後には立ち上がるところだと思う」
「…………」
「誰でも調子のいいときはやる気が出るし、何をやってもうまくいくでしょ? でも、逆のときは、たいていずるずると引きずって、最後には投げ出してしまう。ヴァイクには、それがないの」
すっと黒翼の少年に目を向けた。
「あなたも同じ」
「僕は……」
「本当にあきらめてるなら、そんな目にはならない。あなたの目に迷いはあるけど、曇りはないように感じる」
その瞳の奥には輝きすら見えた。それがわかるからこそ、おそらくヴァイクもあえて厳しく言うのだろう。
「あがくことも大切なのよ、アーベル。あがくことで見えてくることもある。反対に、待ってるだけでは見えないことは多いんだから」
アーベルは自分の手を見た。
――僕は、周りに流されているだけだったのかもしれない。
気がつかないうちに自分を見失い、みずからの中にある正直な思いを忘れてしまっていた。
それは、今でもはっきりとは思い出せない。水底に沈んでしまったかのように浮かび上がる気配すらなかった。
「僕にはわからないんだ、何が大切で何がそうじゃないのか……。もう、何も見えない」
「だったら、今から考えればいいのよ、改めて」
「今から……」
「そう、今から。あきらめることなく、ね」
明確な変化があるわけではないが、アーベルなりに感ずるところがあるようだった。いつの間にか、その表情は真剣なものになっていた。
しかし、それだけにアーベルが次に発した言葉は、ベアトリーチェにとってあまりに意外だった。
「僕をここから出せ」
「えっ」
「ここから出すなら、あんたを僕たちの仲間のところへ――ジャンのところへ連れてってやる」
黒翼のアーベルに嘘を言っている雰囲気はまるでない。しかし、それだけにベアトリーチェは戸惑った。
「それは……できないわ、あなたの気持ちと同じで、仲間のみんなを裏切ることなんてできない」
「でも、僕は仲間の安全のためにも他の奴らに教えるわけにはいかない。あんただけだったら、連れてってもいい」
ベアトリーチェは迷った。アーベルの言い分はわかるのだが、自分が判断していいものかどうか決めかねた。
しかし、ここで決断しなければ、ジャンと再会する機会は二度と来ないような気もした。
「僕は、仲間たちにはジャンのことを何も伝えてない。急がないと何があっても知らないぞ」
その一言で、ベアトリーチェは意を決した。
自分ひとりが行ったところでたいしたことはできないかもしれない。だが、ジャンだけを放っておくわけにはいかなかった。
ベアトリーチェは、前に進み出た。そして、牢の錠前にその手をかけるのだった。
::*
シュラインシュタットに着いてから二日目の朝は、恐ろしく慌ただしいものになった。
ベアトリーチェがいない。さらに、捕らえたアーベルの姿まで消えていた。
「彼女がこんなじゃじゃ馬だとは思わなかったな」
「セヴェルスさん、そんな言い方は……」
口が過ぎる弓使いを、メルがたしなめた。
「ベアトリーチェのせいじゃない! あのアーベルが騙したんだ!」
ヴァイクは昨日の夜、彼女の姿が見えなくなったときから悪い予感はしていた。朝になってからどうしたのか本人に聞こうと思っていたのだが、結果的には遅かった。
「町の周辺はどうだった」
「いなかった。アーベルが連れ出したんだから、この辺に留まってるはずがない」
「そりゃそうだ」
「気軽に言うな! ベアトリーチェの命がかかってるかもしれないんだぞ!?」
「落ち着け。もしあの黒い翼の奴が彼女を用済みだと判断したなら、牢を出たその時点で殺していたはずだ。そうしなかったということは、別の目的があるんだろう」
「それがベアトリーチェの安全を保障してるわけじゃない!」
それはそうだと思いつつも、セヴェルスは内心、取り乱すヴァイクを面白がって眺めていた。
この男が冷静さを失うのは日常茶飯事だが、ここまでおかしくなっているのはなかなかの見ものだった。
「まあいい。とにかく、すぐに捜すぞ。どっちみちジャンを見つけ出さなきゃいけなかったんだ」
「待て」
「なんだ」
「むやみに捜しても無駄だと言ったのはお前のはずだ。ここは、新部族の連中の手を借りたほうがいい」
まだ仲間になるとも決めていない組織に頼るのは癪だったが、もはやなり振り構ってはいられなくなった。セヴェルスの言うとおりにするしかない。
地下アジトを出ていこうとしたとき、ちょうどその新部族のメンバーが中に入ってくるところであった。
心境の変化でもあったか、なぜかアーデの前を進むユーグがヴァイクに問われる前に答えた。
「こっちも駄目だった。少なくとも侯都の中にはいない」
「あの男が連れていったんだ。こうなったら、しらみ潰しにでも捜すしかない」
というヴァイクの意気込みに答えたのは、女の声だった。
「そうね。私たちも、できるかぎり協力する。でも、どこまで可能かはわからない」
「なぜだ!?」
「……南方で、また反乱が起きたのよ」
アーデが暗い顔のまま答えた。
「しかもそれだけじゃなくて、その地域の翼人の動きが何かおかしい」
「翼人?」
「うん、部族なのかはぐれ翼人なのかはまだわからないけど、どうも何かを狙ってるみたい」
「それで、我々はそちらの調査にも出向かなければならない。フェリクス様――ノイシュタット侯が御みずから出陣することにもなったくらいだからな」
アーデが落ち込むのも無理はないと、ユーグはちらりと隣に目を向けた。
絶好調に思われたノイシュタットも今や無数の問題を抱え、舵取りが極めて難しくなっている。そこへ、今回の一件だ。対応を誤れば、侯領の根幹に打撃を与えかねなかった。
「もういい。俺はすぐに出る」
「定期的にここへ帰ってきて。お互いに情報交換しながらやったほうが、効率はいいはず」
「わかってる」
吐き捨てるように言って、ヴァイクは憤懣やるかたない様子で外へさっさと出ていった。
「じゃあ、俺も行く。メルのこと、よろしく頼む」
セヴェルスも荷物を抱え上げた。
「ええ、任せておいて。とにかく落ち着いたら、研究所のほうへかならず連れていくから」
「メル、ここでお別れだ」
「セヴェルスさん……」
悲しみさえ宿った目を、メルは男に向けた。
「そんな顔をするな。どうせ、また戻ってくる」
「はい」
少女の見送りを受けて、セヴェルスはヴァイクのあとを追った。
「一気に慌ただしくなってしまいましたね」
「ユーグ、それは今に始まったことじゃないでしょ。少なくともカセル侯が動き出してから、ずっと世の中は落ち着いてなんかいない」
否、この帝国の発祥より真に平和だった時代などないのかもしれない。今、ついにそのすべてのつけが表面に出はじめただけだ。
――お兄様。
先のフィズベクでの暴動、そして帝都騒乱でも紙一重だったと聞く。今度もうまく切り抜けられるかどうかは誰にもわからなかった。
――もう、ただ待つだけなんて嫌。
「ユーグ、南への手配は?」
「すでに斥候を送ってありますよ、もちろん人間と翼人の両方を。私も、今回はフェリクス様に同道します」
「そう。じゃあ、あとは具体的な策を練るだけね」
アーデの瞳が輝いた。陰ながら支援する方法ならいくらでもある。今回ばかりは最大限、新部族の力を活用するつもりだった。
なんの皮肉か、アジトの外は晴れ渡っている。天から下る光のゆく先はどこか。
::*
「またフィズベクか――と、おっしゃらないのですね」
オトマルは、隣で難しい顔をしている主に軽く声をかけた。
「〝また〟というより、〝予想どおり〟だな。何かが起きるならここだろうとは思っていた」
籠手のベルトを締め直し、フェリクスは副官のほうに向き直った。
「侯都からも帝都からも離れ、共和国に近い。何かを起こすにはうってつけだ」
「何かを起こしたい人物がいるかのようですな」
「オトマルもそう思っているのだろう」
「まあ、そうではあるのですが、その首謀者と目的がはっきりとしません」
「私は、はっきりしていると思うが」
「フェリクス様」
オトマルは、あえて主君に厳しい目を向けた。
「何ごとも決めつけることはよくないもの。決定的な証拠がない以上、今のところ単なる予測にしかすぎませぬ」
「わかっている。だが、それを前提に事を進めねば手遅れになりかねん」
「ううむ、それはそうですな」
難しいのは、未だ敵がはっきりとしないことだった。ノイシュタットを狙う勢力があることは、ほぼ間違いない。
しかし、それが共和国なのか、翼人の組織なのか、それとも他の諸侯なのかが判然としない。結果、こちらは受け身に回らざるをえなくなっていた。
「ですが、閣下。それ以前に、足元が揺らいでいるのやもしれませぬぞ」
「ああ、正直ここまでとは思わなかった」
周りには、無念を体現するかのような光景が広がっている。
耕地は荒れ果て、川は涸れているのではないかと疑いたくなるほど水量が少ない――北方が大雨に苦しんでいるというのに。
視界の中にある庶民の家屋は見すぼらしく、空き家も多いようだった。
だが、ここに来るまでのあいだ、もはや村とは呼べないほど発展した集落も確かに見た。
「偏りがありすぎる。私の考えが浅はかだったよ」
各地域の中心となる町が大きくなれば、それにつられて周囲の村々も盛り上がるはずだと考えていた。しかし、現実はそう単純ではなく、知らず知らずのうちに格差を生みだしてしまった。
「いえ、けっしてフェリクス様だけの責任ではございません。前例がないことなのですから、誰にもこうなることは予見できなかったでしょう」
「オトマル、予想できないというのは領主にとっては言い訳にならないのだよ。たとえそうであっても責任を負う、それが領主というものだ」
「おっしゃるとおりです」
フェリクスの強すぎるほどの自覚に、オトマルは感服すると同時に領主としての確かな成長を感じてもいた。
――これなら、近いうちに私が必要なくなるな。
いよいよ、身を引くべき時期が迫ってきた。後進も育ち、人材の心配もない。全体としては、領内の各地は安定していた。
ただ唯一気にかかるのは、領内よりも周辺の動向かもしれなかった。不穏な空気は帝国内にも帝国外にも常にある。中でも東の大国メルセアは、常に注意が必要な相手だった。
しかし、今回はダスク共和国寄りの南西の地域。いつもなら、特段警戒する必要もないはずであった。
「ところで、ユーグはどうした」
「前線へ偵察に行きました」
「自分でか。あいつらしい」
フェリクスは、なかば苦笑した。
この出征には、近衛騎士のひとりであるユーグを連れてきた。アーデは相当に駄々をこねたようだが、今回ばかりは妹姫のわがままを聞くわけにはいかなかった。
「ユーグよりアーデ様のことのほうが心配です。おとなしくしていてくださるでしょうか」
「しててもらうさ。ことがことなだけに、な」
領内での暴動ゆえに、対応を誤れば各地に飛び火しかねない。帝都での混乱よりたちが悪い面もあった。
「裏で何をやっているのか知らないが、初めから戦場に近づくなど許されん」
「何かご存じなのですか」
「いや、くわしくは知らない。まあ、アーデのことだ、私たちにばれないようにやるだろう。オトマルのほうこそ何か知ってるんじゃないのか」
「知っていたらお止めしようもあるのですが」
「それはそうだ」
もっともらしい言に、フェリクスは深く納得した様子だった。
――この手の話になるとひやりとさせられる。
なまじ〝あれ〟を知ってしまっているだけに、毎回ごまかしに苦慮する。いつかフェリクスにも伝えねばならないとは思うのだが、いつ、どうやって話すべきなのかまるで見えなかった。
「ユーグの奴めが協力している節がありますからなぁ」
「確かに。アーデのことはともかく、そろそろ本来の任務に戻すべきなのかもな」
「そのユーグが戻ってきたようですぞ」
周囲に展開する兵士たちの合間に、長身の騎士とその従者の姿が見えた。周りに目もくれず、一直線にこちらへ向かってきた。
「噂をすれば、か」
「どんな噂です?」
ユーグが疲れの色も見せずに、口を開いた。
「アーデから解放されて元気そうだということだよ」
「それはもう。あのじゃじゃ馬――いえ、手のつけられない姫から離れられたのですから、手枷足枷の外れた剣闘士のようなものです」
「言い得て妙だ」
「それより、閣下」
表情をすっと改めて、ユーグは主君に向き直った。
「偵察の結果は、あまり思わしいものではありませんでした」
「どういう意味だ?」
「はい、叛徒の力量は想像を超えるものがあります。大半は取るに足らない相手ですが、その中に一定の割合でやけに腕の立つ者がいるようなのです」
「なぜそう思う?」
「実際に剣を交えた、現地の守備隊の者に話を聞きました。偵察をしてみても明らかに他の民たちと様子が異なる、と」
「ううむ、よもや傭兵でも雇ったのか?」
「ですが、閣下。それなら、この暴動は突発的なものではなく事前に準備されていたことになります」
「ユーグの言ももっともですが、そもそも生活に窮して暴動を起こした者たちが、カネで傭兵を雇うというのは不自然ですぞ」
「それはそうだ」
オトマルの指摘にうなずき、フェリクスは思案した。
「ユーグ、お前は直に見たのか」
「はい、可能なかぎり近づいて。不自然だったのは、服の下に鎧を着込んでいる者たちがいたことです」
「なるほどな、表面上は普通の民に見せかけようとしているわけか」
「ええ、通常の傭兵ならこんなことはしません。相手を威圧するためと、自身の名を売るためにかえって目立とうとするはずです」
「民でもない、傭兵でもない、それでも剣の達者な誰かか――おおよそ見えてきたな」
それは、フェリクスが不敵な笑みを浮かべたときのことだった。
兵士たちがざわつきだした。それぞれの視線は、前方に向けられている。
「なんだ?」
「誰か、こちらへ向かっているようですぞ」
オトマルの視線の先には、馬に乗って駆けてくるひとりの騎士の姿があった。
しかし、その様子は尋常なものではない。鎧のあちらこちらが傷つき、見た目にもわかるほどひどい怪我を負っている。
息も絶え絶えにフェリクスの近くまでやってくると、そのノイシュタットの騎士は下へ落ちるようにして馬から降りた。
「申し上げます!」
「どうした」
「先に奇襲を受け、フィズベク守備隊は壊滅。守備隊長ロラント卿が捕らえられました!」
一同に衝撃が走った。
「……どうしてそんなことになった」
「前線の守備隊は通常どおり陣を展開していたのですが、側面を左右同時に突かれ、混乱。その中、隊長が捕らえられてしまい、隊を立て直すこともままなりませんでした」
「なんという失態だ!」
フェリクスは、歯噛みした。
「オトマル、ロラントの腕は確かだったはずだが」
「はい、元々はユーグめの師だった男です。剣の腕だけでなく、将としても有能な騎士。よもや、このような事態に陥ろうとは……」
「それで、ロラントは」
「はい、人質として捕らえられており、叛乱者どもは解放するための条件を提示してきました」
「条件?」
「このフィズベク以南の地域の自治権を認めよ、と」
「そんなもの、認められるはずがなかろう!」
ノイシュタットはおろか帝国内には現在、自治領なるものは存在しない。以前はロシー族に一定の自治は認められていたが、彼らとの対立とともにそれは剥奪されることになった。
へたにそんな要求をのめば、各地で同様の暴動が頻発し、国内外にノイシュタットの混乱、引いては帝国弱体化を喧伝することになりかねない。
今は、皆が注目している。へたを打つわけにはいかなかった。
「しかし、フェリクス様。これで、敵の思惑がようやく見えてきましたな」
「ああ」
ノイシュタット領内で暴動を起こさせ、かつフィズベク以南が自治領となることを望む存在。
それは、混乱した現在にあっても比較的はっきりとしていた。
「もうこれ以上、茶番に付き合う必要はない。すぐに出陣するぞ!」
フェリクスの号令一下、迅速に前進の準備が進められていく。
そこへ、ユーグが近づいていった。
「フェリクス閣下」
「どうした? 久しぶりの実戦で怖じ気づいたか」
「いえ、むしろ私を前線に出させてほしいのですが」
「何?」
ユーグは、騎士は騎士でも近衛騎士。その名のとおり、主君を守るのがその使命だ。ときには、優秀な近衛騎士があえて隊を率いて前線に出ることもあるが、それはあくまで例外だった。
「どういうことだ、ユーグ」
「どうしても、この目で確認しておきたいことがあるのです。閣下がお許しくださるなら、前で戦いたいのです」
「単に功を焦っているわけではないようだな」
「はい、叛乱者たちの背後にいる存在を確実に見抜ければと思いまして」
フェリクスが、オトマルのほうへ目配せした。老騎士はなかば呆れながらも、頷きを返した。
「ユーグの目は確かです。しかし、守備隊の責任者ならともかく、近衛騎士がもっとも危険な最前線へこのような戦いで出ることはあってはならぬこと。そこでどうでしょう、とりあえず左翼の指揮を任せてみては」
「それもそうだな。どうだ、ユーグ」
「はっ、十分でございます」
礼もそこそこに、若き近衛騎士は配下の者を引き連れて、陣の左側へ向かっていった。
「ユーグの気持ちもわかるからな」
「ええ、何か確証が得られれば今後の対応に関しても有利になります」
決定的な証拠があれば、裏で画策している相手を糾弾することもできる。そこまで行かなくとも、交渉がしやすくなることは疑いない。
ノイシュタット侯軍は、準備が整えられるとすぐに前進を開始した。
はるか前方の暴徒たちからどよめきが上がる。守備隊長という要職にある人間を人質にとったにもかかわらず、こうもあっさりと戦いを選択するとは予想していなかったのだろう。
「ロラントも、騎士であるからには覚悟はできているだろう」
「ええ、人質として生き恥をさらすより、こうして戦いを継続することを望んでいるはずです」
みずから望んで南方の守備隊になった元近衛騎士は、そういう男であった。
しかし今はそれよりも、眼前に見える敵の動きが気にかかっていた。
「――対応が早い」
「これはもう、間違いなく〝本職〟がいるとしか考えられませんな」
驚愕にあたふたとしていた叛徒たちが、一部の者たちの指示ですぐに冷静さを取り戻し、こちらを迎え撃つ態勢を整えている。こんなことは、有能な傭兵にさえ不可能なことであった。
程なくして、互いの前衛がぶつかり合った。もはや、ノイシュタット侯軍に油断はない。急造の敵兵はどんどんと押し込まれ、ぎりぎりのところで陣を維持している。
個々の力量の差は歴然、鍛えられた正規兵にふだん農具や網を持つ人々がかなうはずもなかった。
しかし、それでもすぐに全体が崩れないのはよくこらえているほうだ。
「敵ながらあっぱれだ。民の戦闘能力も捨てたものではないな」
「感心している場合ではございません。この戦い、長引けばどうなるかわかりませぬ」
「ああ。背後に控えている奴らが、何か次の手を考えているかもしれない」
こういったときは、速攻にかぎる。敵が次善の策をとる前に、先に先に対応していく。そうすれば、気がついたら自分たちのほうが追い込まれていたという事態だけは防げる。
「このまま順調に行きそうだ」
「だといいのですが。どうも、守備隊が奇襲でやられたというのが気になります」
「だからこそ、左翼にユーグを持っていったのだろう?」
「ええ、まあ、そうなのですが」
単なる奇襲だけですめばいいが、とオトマルは声には出さずに、違和感に首をかしげた。
その左翼後方において、当のユーグは前へ出る機会を虎視眈々とうかがっていた。
「ユーグ様、あまり無茶をなさらないほうが……」
「ティーロ、お前はオトマル卿のようなことを言うのだな」
「いえ、ふだんユーグ様がアーデ殿下におっしゃっていることです」
「…………」
一言も反論ができず、ユーグは仕方なくそっぽを向いた。
「そもそも、何を狙っておいでなのです?」
「決定的な証拠を摑むんだよ、叛徒の裏にいる連中の。そのためには、前線で戦うしかない」
――のだが、主力の攻勢が順調すぎて、左翼にはおこぼれさえ回ってこない。少し左翼を前に出そうかとも思うが、そんな勝手なことをして陣形を崩すわけにもいかなかった。
時間だけが刻々と過ぎていく。味方が圧倒的に優勢だというのに、ユーグだけは焦れていた。
「今回は無理か……」
とつぶやいたちょうどそのとき、陣の左側にある林が、やにわに騒がしくなった。
「ユーグ様」
「なんだ……?」
周囲の兵士たちも気づきはじめ、よく訓練された彼らはすぐさま武器を構えて臨戦態勢をとった。
ユーグはまさかと思った。奇襲の可能性を考慮に入れてはいたが、こちら側からの攻撃は予測していなかった。
なぜなら、この林の向こうはドルシアという名の川だからだ。
――あの川を気づかれずに渡ってきたというのか!
川幅があるだけでなく、それなりの深さもある。それを成し遂げるには、そもそも命を懸ける覚悟が必要だった。
――敵も必死だな。
裏で糸を引いているのが誰であろうと、兵士にその気がなければ動かない。ここまでのことをするほどこの地の住人は追い詰められていたのかと、別の面で驚愕した。
だが、今は叛徒の事情を思いやっている場合ではない。ユーグはすぐに隊の向きを変えるべく、号令を発した。
「転進しろ! 側面から来る敵を迎え撃て!」
先ほどまで前方を向いていた隊が、前衛が向きを変えることで陣を組み直していく。
だが、その動きはいつもとはどこか違い、緩慢だった。奇襲に動揺しているためだとは思えない。
――なんだ。何が起きてる。
再び訪れた悪寒に、ユーグがさっと視線を動かして状況を把握しようとした。ふだんと比べると、何かがおかしい。
その原因に明確に気づく前に、部下から報告が上がってきた。
「申し上げます!」
「なんだ!?」
「一部の者が寝返った模様! そのせいで、周囲は乱戦と化しております」
さすがのユーグも言葉を失った。
まさか、そこまでのことが起きようとは……完全な想定外だった。
裏切った連中の実情は知れない。カネのためか、それとも以前から領主に不満があったのか。どちらにせよ、正規兵とはいえ民兵を組み込んでいるノイシュタット侯軍の構成が裏目に出てしまった。
「いったん兵を引け! 本隊近くまで下がれ!」
「よ、よろしいのですか!?」
「どうせ相手にノイシュタット侯軍の本隊を破るほどの力はない。それよりも今は、左翼の陣形を整えることのほうが先決だ!」
隊が下がれば、内部で暴れている離反者を分離させることができる。そうして隊を立て直し、あとは一気に叩くだけだ。
だが、相手は奇襲側と連係し、左翼のより深くへと入り込んでくる。気がつくと、後衛まで直接戦うしかない状況に追い込まれていた。
ユーグもみずから剣を抜き、ひとりひとり簡単に敵を屠っていく。しかし、乱戦の影響はいかんともしがたく、せっかくの兵力の差を活かせなくなっていた。
――もっとも愚かなことをしてしまったな。
敵の思惑どおり乱戦に持ち込まれ、兵をいたずらに疲弊させている。将としては最低の対応だ。叱責されても文句は言えないことであった。
だが今は、どうせならこの状況を逆に利用するだけだ。
――この中に、指示を出している奴がいるはずだ。
この暴動の当初から見え隠れしている怪しい奴ら。今も民兵の振りをして指揮を執っているに違いない。
――あいつか!
ひとりを見つけた。服は粗末な物をまとってはいるが、その体躯は筋骨たくましく、厳つい顔の二つの眼は戦いに爛々と輝いている。
――あんな奴がただの暴徒のはずがなかろう。
なかば失笑し、ユーグはそちらへ馬首を巡らせた。
「あっ、お待ちください、ユーグ様!」
気がついたティーロが急いで追いかけるものの、ユーグの手綱さばきは巧みだ。あっという間に背中が小さくなり、見失わないようにするので精いっぱいだった。
「共和国の犬め、その首もらい受ける!」
かまをかけてみたが、相手の反応は乏しい。たいした確認もとれないまま、剣を打ち合わせることになった。
馬上から、問答無用で剣を振り下ろす。高さの利点もあり、それを受け止めた相手を一気に押し込んだ。
二撃目。
相手は上段からの攻撃を、今度は後ろへ飛びのくことでかわしてみせた。すかさず、前へ踏み込んで横薙ぎの一撃を放ってくる。
それを、ユーグは剣を立てて防いだ。
――こいつ、馬を狙っているのか。
こちらを、まずは馬上から降ろそうという魂胆なのだろう。ユーグは、相手の目論見を逆に利用することにした。
数合打ち合い、相手を少しずつ追い込んでいく。それにつれて、敵は目標を馬へと明確にしていった。
ユーグが剣を振りきると、馬がわずかによろめいた。
ほんの一瞬、生じた隙。
民兵に化けた男は、ここぞとばかりに馬の前脚を狙った。
うまくいく――男は、確かな手応えを感じたはずだった。
しかし次の瞬間、そのすべては覆された。
対象をとらえたかに思われた男の剣が、空を切った。馬は一足飛びに前進し、一瞬前までいたところからは消えていた。
はっとして男が振り向いたときにはもう、ユーグは己の得物を振り上げている。
とっさに防御姿勢をとろうとした男であったが、そこに:第二の誤算があった。
馬上の騎士が利き腕に握っていたのは、剣ではなく長大な騎兵槍。
その最速の突きが男の剣を弾き飛ばし、服の下の鎧を突き破ってその肩を貫いていった。
うめき声を上げることすらできず、男が仰向けに倒れていく。
「ティーロ!」
「は、はい!」
「こいつを捕らえて、本隊のほうへ連れていけ」
ようやく追いついてきた若い騎士は、言われるまま男を引きずるようにして下がっていった。
――それにしても。
この戦い、負けることはないだろうが、ノイシュタットにとって諸々の損害は小さくはないだろう。最悪、この後遺症は数年つづくかもしれない。
――フェリクス様。
隊を指揮しながらも本隊のほうを見やると、さすがに一同に動揺した姿は微塵も見られなかった。しかし、そのこころの内はけっして穏やかではないはずだ。
実際、フェリクスとオトマルは、戦いの趨勢が決しはじめたというのに、その表情はますます硬いものに変じていた。
「戦いの最中に次のことを考えるのはよくないが、先が思いやられるな」
「ですが、さすがにノイシュタットの中で暴動が起きてしまうのはここくらいでしょう。他は、生活が苦しい地域でさえフェリクス様を慕っておりますし」
「父上の負の遺産か……」
このフィズベク以南の地域は、元々小さな独立した国家だった。しかし、公王による圧制は苛斂誅求を極め、たびたび反乱が起きていた。
十六年前、大規模な内紛が発生した際、その一派がノイシュタットへの帰属を求めてきた。そこで先代は出兵を決断し、対象地域を併合することに成功し、以後そこの民が戦で苦しむようなことはなくなった。
しかし、一部では未だ帝国とノイシュタットに反感を持つ者は存在し、何かあるとこうして不満が爆発するのだった。
「それより閣下、敵が一気に崩れはじめておりますぞ」
「――――」
見れば、叛徒の軍は総崩れの体であった。烏合の衆などしょせんこんなものだともいえるが、あまりに急すぎる。
「黒幕がいったん手を引いたか」
「でしょうな。相手からすれば、小手調べといったところなのでしょう」
「問題は次にどう出てくるか、だな」
相手の次の一手は未だ読めないが、今回のことが布石であるなら、かならずなんらかの行動には出てくるだろう。
そのとき、自分たちがどれだけ迅速に、かつ的確に対応できるかでノイシュタット、引いては帝国の命運を左右することになる。
「狙いが帝国なら、まだいいのですが」
「ノイシュタットそのものを狙っているかもしれんということか?」
オトマルは、あえて返事をしなかった。
不吉な予感を覚える勝者の面前で、戦いは終わろうとしていた。
::*
いつになく議論は白熱し、それはやがて暴走と呼べるほどになって収拾がつかなくなっていた。誰も彼もが非道を叫び、かの連中を糾弾している。
そうなるのも無理はない。はぐれ翼人に降りかかる残酷なまでの現実を目の当たりにし、人間たちのどうしようもない傲慢さと愚かさとを痛感させられることになった。
人間と協力関係にある新部族の信用は地に堕ち、今や議論は〝どうやって奴らに報復するか〟に集約されていた。
「あんな連中は、はじめから信用すべきではなかったのだ」
フーゴにつづいて、〝極光〟の面々が口々に言った。
「だが、これではっきりとした。やっぱり、他の組織は注意したほうがいい」
「今度こそ俺たちだけでなんとかできるはずだ」
「また邪魔をするならねじ伏せてやるだけだ。俺たちの力を見せつけてやれ」
厳しい批判や罵りがとどまる気配はまるでない。
今回ばかりは、ナーゲルも止めはしなかった。他ならぬ彼自身、奴らの所行に許しがたいものを感じていた。
「まさか、あんな騙され方をするとはな」
「ああ、こちらを虚仮にするにもほどがある。次こそは、かならず引導を渡してやる」
あれから丸一日を過ぎても、怒りの声は一向に収る気配がない。時間が経つほどかえって憎しみがふくらむようで、激しい怒気に未だ震えが止まらなかった。
アーシェラはそんな一同の様子を、冷たい視線で眺めていた。
ばかばかしいという思いと、しょせんは人間と翼人ではわかり合うことは無理なのかという諦念にも似た思いが混在し、自分でも驚くほど失望感があった。
もはや、どうしようもない――そう一同が確信した頃、それまでずっと黙ったままだったネリーがすっと立ち上がった。
「みんな」
呼びかけると、場にいた者たちがいっせいに声の主のほうを向いた。
「怒りたくなる気持ちはよくわかる。でもまずは、どこまでが事実でどこまでがそうじゃないのか確認するべきなんじゃない?」
「でもな、ネリー。奴ら、あんなことをやってたんだぞ。信用できるような相手じゃない」
「それこそが勘違いかもしれない」
「それは……」
ナーゲルは言葉に詰まった。言われてみれば、向こうがこちらを騙したことを裏付ける証拠は少ない。
「すべてが私たちの思い違いの可能性もあるとは思わない? ひょっとしたら、相手側も同じように考えているかもしれない。まだ話し合える部分もきっとあると思うの」
あれだけ騒いでいた一同が、ネリーの真摯な物言いにいつの間にか聞き入っていた。辺りに静けさが戻り、それぞれに落ち着きが甦っていく。
「もう一度だけ、協力する可能性に賭けてみましょう。ここまで来てすべて捨て去るなんてもったいない。勇気を出して、もう一度だけ私たちから歩み寄るのよ」
「しかし、またあんなことになったらどうする?」
フーゴの言葉は、皆の思いを代弁していた。
「それはそれでいいじゃない」
「ネリー……」
「裏切られることを怖がっていたら、新しい関係なんて築けない。疑って何もしないくらいだったら、喜んで裏切られるくらいに思いましょう」
無茶苦茶な言い分に思える。しかし一方で、それは正しいようにも感じていた。
「自分たちがあえて犠牲になるというのか」
「かならずしも犠牲になる必要はないと思う。ただ、はじめから可能性を捨ててしまうのはよくないというだけ」
「よき可能性を見ろということか……」
ネリーは首肯した。
「どんなことにも、難しい部分はある。でも、逆にいい部分も探せばあるはずよ。みんなでそういうのを見つけていけば、なんとかなるんじゃないかな」
「だが、ネリー。それも相手によりけりだ。可能性の低い存在に賭けられるほど、俺たちに余裕はない」
「だったら、まずは調べましょう」
ネリーの答えははっきりとしていた。
「まだ相手のことがよくわかっていないのに一方的に判断してしまってる。もっといろいろと調べてからでも遅くはないはずでしょ?」
「全部ネリーの言うとおりじゃないか」
それまで体を木に預けていたアーシェラが体を起こした。
「ほとんど仮定の話ばかりなのに、勝手に結論を出してる。こういうときは、議論する前に詳細を調べるのが当然というものだろう」
周りの男たちは、ばつが悪そうに目を背けた。いつもは落ち着いたナーゲルでさえ、言われて初めて自身も冷静さを欠いていたことを痛感した。
「――わかったよ。言われたとおり、今度は徹底的にあいつらを調べてみよう」
「そうだな。ネリーとアーシェラの二人に責められたらかなわん」
「責めるだなんて」
ネリーが口をとがらせると、仲間たちから笑いが起きた。それぞれは、いつしかふだんの表情に戻っていた。
――それがお前のすごさだよ、ネリー。
やさしげな、それでいてどこか寂しげな目でアーシェラは、周りを囲まれた友を見つめていた。




