第四章 第十六節
建物の外面を覆った白大理石が、傾いた日の光を見事に反射し、赤く輝いている。先の出来事があるだけに、そこに不気味さを感じる者もいるだろうが、純粋に美しさを感じる部分もあった。
帝都リヒテンベルクにあるレラーティア教の総本山、グロースグロクナー大神殿はもう日が陰ってきたというのに、中も外も人でごった返していた。
騒乱以降、復旧は着実に進んでいるものの、まだまだやらねばならないことは多く、働いても働いても作業が終わることはない。
すべては自業自得。
今のところ帝国側の支援をまともに受けられないこともあり、神官とその支援者のみで神殿関連の諸事をなんとかしてやっていく他なかった。
「ライナー様、西側の神殿の塔はいかがいたしましょう」
「それくらい現場の者たちに任せなさい。確か西神殿は、ほとんどの神官が無事だったはず。なんでも大神殿側に頼ろうとするなと返してやりなさい」
「わ、わかりました」
少し気圧されたように、若い神官はそそくさと立ち去った。
大神官のひとり、ライナーは書類に目を通しながらも、そっとため息をついた。
あの騒乱が起き、大神官長が失脚してからというもの、周囲はますます自分たち大神官に依存するようになっていった。
些細なことでさえみずから判断せず、上役に判断を仰ぐ。あまりにひどいことが起きたがために動揺し、不安なのはわかるが、そろそろいつもの状態に戻ってほしかった。
――もっとも、これが以前からつづく神殿の現状なのかもしれないが。
ノーラのきつい言葉が思い起こされる。
〝今の神殿は、自分でできることさえみずからやろうとせず、それでいてすべてを他人の責任にしようとする弱者の集まりだ〟
それは言いすぎだ、と反論した憶えがある。すべてを自己判断できる者はまれで、判断基準が間違っていればかえって弊害がある、だからそれを神殿側が示してやる必要がある、と。
そのとき、彼女はいっさい反論せず、ただ鼻で笑った。
――笑われてもしょうがないか。
責任ある立場になってから痛感した。
みずから判断し、みずから行動できる者の少ないことが、いかに組織にとって危険であるかを。
神官長らの負担が増すというだけではない、引いては本人にとっての弊害がもっとも大きく、思考能力の低下を招き、他人とは馴れ合いの関係に堕してしまうことで、互いが互いを駄目にしていく。
大神殿の腐敗の原因は、役職の世襲化でも上級職の無能でもなく、神官ひとりひとりの質の低下にあるように思えてならなかった。
「また不景気な顔をしているな、ライナー」
「リシェか。私の顔はいつもこんなものだ」
「違いない」
失礼なことを言って、笑っている。
ゆるやかに波打つ長髪をなびかせた、神官というより役者のような風貌のこの男は、こともあろうに大神官の一席を占める者であった。自分との付き合いは古く、神官になる前、見習いの寄宿舎生活からの馴染みだった。
「復旧はだいぶ進んだようだな。よそに比べると、まだまだだが」
「いったいどこへ行ってたんだ、リシェ。よりにもよってこんなときに」
「さすがの俺も、遊びには行かないさ。例の話だよ」
「例の話?」
「帝国各地の神殿も襲われているという」
「ああ、あれか」
帝都騒乱以降、否、前カセル侯が動きはじめてから、各所にある神殿が翼人に狙われているという報告があった。
「で、どうだった?」
「思ったよりもひどくはなかったが、一部がすでに襲われたのは本当だった。特にアルスフェルトは悲惨だったな。瓦礫以外、何も残ってない。犠牲者の埋葬さえまだすべては行われていない始末だ」
「……そうか」
今さらとは思いつつ、命を失った者たちの冥福を祈らずにはいられなかった。
ただ、それは当然の報いかもしれなかった。正統なレラーティア教は、これまで翼人を毛嫌いしてきた。先の騒乱では、あくまでカセルと結んだにすぎない。直接翼人と協力することなど考えもしなかった。
自分たちより能力の高い存在を認めたくない、神のごとく空を勝手に舞う者を許せない――そういった思いよりも、もっと厄介なことがあった。
そもそもレラーティア教の神々は太古の翼人なのだとする〝翼神派〟が、他の信者たちの反感をあおってしまっていた。しかも、さまざまな調査で、それを裏付けるものがいくつか出ているだけに問題をさらにややこしくしている。
「神殿側としては、翼人を虐げるつもりはなかったんだが……」
「わからんさ。俺たちでさえ、大神殿だけでもすべてをきちんと把握できているわけじゃない。地方で何かが起きていたとしても不思議ではないだろう」
「そうだな。ところで、他には」
「ああ、実は巡礼を口実に他国も見てきた」
「口実にって、ちゃんと祈ってこなかったのか?」
「一応はしてきたよ。それより、思ったよりも各国がこっちの動向を気にしてる」
「なぜ?」
「わかるだろ。今、帝国は弱ってる。この国を攻めるには、大義名分が必要なんだよ」
「それが、大神殿の意向にかかってるということか」
「そうだ。本音としては、〝お墨付き〟が欲しいんだ、周りは。少なくとも、聖堂騎士団は動かさないでほしいと思ってる」
「しかしそれでは、周辺諸国は本気でこの国を狙いはじめてるということではないか」
「そういうことだ」
ぞっとしない話だ。
帝都の壊滅、カセルの荒廃、そして宮廷軍と各侯軍の疲弊によって、今、帝国は建国以来最大の危機を迎えている。
しかも、聞けば各地で暴動やら翼人の襲撃やらが相次いでいるという。こんなときに他国に侵略されたら、さすがに持たないのではないか。
「いざとなったら、俺たちもどうするかだが」
「ああ、神殿は政治的に中立が原則だからな」
神殿は、各国の政にはいっさい関与しない。
一方、各国も神殿の内政には干渉しない。
それが、これまで千年以上に渡ってつづいてきたこの地域の大原則であった。
しかし、それも表向きのことでしかない。神殿は常に政治に左右され、神殿側も各国に対して圧力をかけることもあった。
これまでは、その綱引きの上に均衡が保たれてきたといっても過言ではなかった。
「だが、もし実質的に帝国への侵略を黙認したら、ここの市民はきっと我々を許さないだろう」
「まあ、この国での神殿はおしまいかもな」
「恐ろしいことをさらりと言ってくれる」
「事実なんだからしょうがない」
確かに、そのとおりではあった。
今でさえ、道を歩く神官が石を投げつけられたり、こころない一部の者から暴行を受けたりする事件があとを絶たない。衛兵の屯所が復活し、帝都の警備が整ってきたおかげでそうしたことも減ってはきたが、反乱者側についた大神殿の汚名は簡単にすすげるものではなかった。
大神殿の置かれた立場の微妙さと、これからの立ち回り方の難しさを思い、沈黙してしまう。
折しも、日が完全に没して窓から入る光が急速に弱まり、室内は真夜中のごとく暗くなった。
ふだんの儀礼どおり、神官が部屋のろうそくに明かりを点けていく中、扉を開けて近づいてくる者があった。
「ライナー様、よろしいでしょうか」
「なんです?」
「それが、どうしても今すぐお会いしたいと申す者が来ているのですが」
「明日にしてもらいなさい。面会の時間はとうの昔に終わったでしょう」
「ですが、妙なことを申しておりまして……」
「妙なこと?」
「はい、どうしても直接お渡ししたい手紙があると。それを受け取らなければ、帝国の大神殿は後悔することになると」
「帝国の、ね」
リシェが意味深に顎をなでた。この男が、何か考えのあるときによくする癖だ。
「ライナー、試しにその手紙を受け取ってみればいいさ。あとのことはあとのことだ」
「それはそうだが……」
妙に嫌な予感がするライナーはその人物に会うのも憚られたが、リシェのすすめに従い、目の前の神官に相手を通すよう伝えた。
少しして、先の神官に先導されてその男がやってきた。
中肉中背のこれといって特徴のない男。やや小柄で、猫背のようにも見える。身なりはきちんと整えているが、どこかあか抜けない印象もあった。
「私が大神官のライナーです。隣が、同じくリシェ」
「おお、まさか二人の大神官様にお会いできるとは、光栄の至りです」
「それで、今日はどのようなご用件で?」
「そういったことは、すべてこの中に」
男は、ふところから厳重に蝋で封をされた書状を両手で差し出した。外側には、宛名も差出人の名も何もない殺風景なものだ。
「そもそも、あなたはどちらからいらしたのです?」
「それも、直接は申し上げられません。すべてはその中にとしかお伝えできないのです。何せわたくし自身、手紙を確実に大神殿へ運び、かならず大神官様に直接お渡しするようにとしか仰せつかっておらぬのです」
「それで、余計なことは言うなと?」
「は、はあ」
リシェがちくりとやり返すと、それまで落ち着いた様子だった男がわずかに狼狽の色を見せた。
「まあ、確かに受け取りました。もしあなたが先方と再び会う機会があったら、可能なかぎり早くお返事するとお伝えください」
「はい、かならずや」
男は、腰の低い様子で退出していった。
それを見届けてから、まずリシェが口を開いた。
「ライナー、気づいたか?」
「何を?」
「あいつ、普通の役人のような顔をしてるが、武術の心得があるぞ」
「そうなのか?」
「ああ、所作にいっさい無駄がない。それに、いつでも離脱できるようにかなり周囲に注意を配っていた」
「さすがだな、リシェ」
彼は、元々は聖騎士という異色の大神官だった。レラーティア教の長い歴史の中でも、それは異例のことで過去に数例しかない。大神官長になったとすると、二度目の大偉業となる。
「俺を褒めてどうする。それより中だ、中」
「そうだった」
手早く封を開けてみると、その中には一枚の書状が入っているだけだった。
二人がざっとそれに目を通すと、二人が同じように眉をひそめた。
「さっそく来たな」
「しかし、共和国か……意外だな」
「いや、だからこそかもしれんぞ。今までばれないように力を蓄え、機会をうかがっていたんだろう」
「なるほど」
帝国と対立する国として出てくる名は、これまでメルセアや北のゴールばかり。ダスク共和国の名は、よくわからないものを意味する隠喩としてたまに使われるくらいだった。
「それにしても、あからさまだな」
「ああ、それだけ奴らが本気ってことだろう」
書状には遠回しに、なんらかの理由で帝国と共和国が争ったとしても、大神殿は不介入であるはずのことを確認する内容がしたためられていた。
また、念には念をということか、大神殿が正義と平等を貫くなら、多額の寄付を行う用意があるとも、こちらははっきりと記されている。
「ううむ、あの共和国がこちらに気をつかってくるとは思わなかった」
「〝信教の自由〟か。珍しいからな、レラーティア教を国教としないところは」
それでも、ダスク共和国でさえレラーティア教徒が大半であることに変わりはなかった。ただ極めて異質なのは、他の宗教も公に認め、それでありながら政治的には中立を保っていることであった。
「これも、さっきリシェが言った〝本気〟の表れなんだろうな」
「おいおい、すべて鵜呑みにするなよ。まだ例え話にしかすぎない」
「だが、帝国ではなく我々に対して内々に接触を図ってきたということは――」
「ま、何かを企んでることは間違いないだろう」
きな臭いものを感じ、ライナーは嫌悪感もあらわに書状をすぐに封筒の中に戻した。
「厄介なことになった。立場上、帝国側に知らせるわけにもいかん」
「そんなに帝国に気を使うことはない。私たちは独立した存在なんだ」
「その驕りが、あやまちを起こさせた」
もう二度と、帝都騒乱のときのような間違いを犯してはならない。それはライナー自身が、みずからに厳しく課した戒めでもあった。
「ま、独立心を持つことが驕りかどうかはともかくとして、結局は帝国と共和国の問題だろう。我々には、本来関係のないことだ」
「だが、帝都が再び戦いに巻き込まれたらどうする?」
「そこまで行くわけがない」
「帝都が巻き込まれるはずがない、と誰もが考えていただろうな、カセル侯が反乱を起こすまでは」
「…………」
「しかし、現実にそれは起きた。いろんな人々のいろんな思惑がからみ合って。次は大丈夫だという保証なんて、もうどこにもない。何があっても不思議ではないんだ、現状は」
甘い考えが許されるほど、現実は単純ではなかった。
それをわかっているのかいないのか、リシェは軽く肩をすくめてみせた。
どうも彼は、自分にとって都合の悪いことを意識的にも無意識的にも考えようとしないところがある。その原因がなんなのかは知らないが、元々バルタザルの案に最初から賛成していたことからしても、どこか危なっかしいところのある男だった。
「それでライナー、なんて返事をするつもりなんだ」
「それこそ、私の一存で決められるわけがないだろう。これは一応、他の大神官も緊急召集しないといけないだろうな」
「また俺たちの仕事が増えるわけか。ありがたいことだ」
大仰に天を仰いで、嘆息してみせる。
この男、本当に役者になったほうがいいのではないかと思うライナーであった。




