第4章 第1話:新しき世界の開拓者と、約束の船出
世界の因果、すなわち歴史の行く末や生命の歩み、果ては誰が幸福になり誰が不幸になるかという運命の理そのものを、冷徹な数式の方程式のように管理していた『運命の神』が完全消滅した。
あの日、大聖堂の天頂を突き破るほどのまばゆい黄金の光柱と、すべてを穿つ漆黒の崩壊光線が、神の核心を内側から木っ端微塵に爆砕したあの運命の瞬間、このセカイを数百年にわたって縛り付けていた絶対的な『プログラム』は、光と影の美しい粒子となって夜空へ霧散し、跡形もなく崩壊したのである。
世界の理は、もはや絶対的な誰かのものではない。そこに生き、地を這い、泥にまみれてもがき、血を流してでも前へ進もうとする人々の純粋な意志と選択によって、いくらでも書き換え、いくらでも描き直すことができる自由な白紙へと生まれ変わったのだ。それは、人類が神の支配を脱し、初めてその手につかみ取った、本当の意味での「自由」の証明であった。神が定めた不幸な結末も、あらかじめ決められていた悲劇のシナリオも、もうどこにも存在しない。明日という不確実な未来をどのような色に染めるかは、ただ人間の足跡だけに委ねられていた。エイルが文字通り命を賭して世界のプログラムをハッキングし、因果のすべてを書き換えた世界は、今や完全に人類の手に取り戻されたのである。
王都は今、かつてないほどの平和と、溢れんばかりの復興の熱気に包まれていた。
大聖堂での壮減な激闘を乗り越え、名実ともに「本物の英雄」としての重い覚悟を決めたレイハルトの光に照らされ、民衆は新しい時代の幕開けを確信して笑顔を取り戻している。中央広場の市場には色鮮やかな花々がこれでもかと咲き乱れ、瓦礫を片付ける復興のハンマーの音が小気味よく響き渡り、大通りの至る所で人々が手を取り合って未来の計画を語り合っていた。広場の噴水前では、旅の吟遊詩人たちが新しき国の統治者となったレイハルトと、その隣に寄り添う誠実な新たな伴侶の織りなす奇跡の物語を、声を枯らして高らかに歌い上げていた。誰もが明日という日を疑わずに信じ、温かい寝床と温かい食事に感謝する、そんな当たり前の、しかしこれまでは神の気まぐれな天秤によって容易に奪われていた奇跡のような日常が、王都の隅々にまで定着しつつあった。王都を覆う光は、かつてのような虚飾に満ちたものではなく、人々の血の滲むような復興への歩みが支える、本物の光へと完全に昇華していた。エイルがかつて「雑用補給兵」として泥水交じりの硬いパンをかじりながら、エリート騎士たちに見下されつつ見上げていた、あの冷酷な王都の面影は、もうどこにもなかった。
だが、そんな祝福と栄華、そして世界中から寄せられる賞賛の喧騒から静かに背を向けるようにして、エイル・ラングレンとセリアの二人は、再び世界の最果てであるあの断崖の丘へと帰ってきていた。
視界のすべてを埋め尽くすように広がる、どこまでも青い硝子の海。
波一つ立たないその滑らかな水面は、夕暮れの淡い極光を浴びて、静かに、そして息を呑むほど美しく煌めいている。空と海の境界すらも曖昧にするその圧倒的な静寂の特等席は、世界がどれほど激しく揺れ動き、劇的な変革を遂げようとも、変わらぬ温かさと冷徹なまでの美しさで二人を迎えてくれた。風が吹くたびに、潮の匂いと乾いた草の香りが混ざり合い、かつて二人で過ごした寂しくも温かい隠居生活の記憶を優しく呼び覚ます。ここには、エイルを「お荷物補給兵」「無能な寄生虫」と蔑む声もなければ、セリアを「崇高なる大聖女」「人類の生贄」として縛り付ける重い鎖もない。ただ、一人の男の子と一人の女の子が、ありのままの姿で呼吸することを許される、世界で唯一の、そして最高の聖域だった。エイルは壊れた馬車の車輪を直す必要もなく、ただ静かに、セリアが淹れてくれる野草のハーブティーの温かい湯気を見つめながら、二人の間を流れる贅沢な時間を噛み締めていた。
エイル・ラングレンの右腕は、あの日、大聖堂の頂で世界の神の絶対障壁を逆ハックし、因果のすべてを無理やり書き換えて『影の神殺しの暗器』を顕現させた代償として、未だに完全な感覚を失ったままだった。肩の付け根から指先に至るまでピクリとも動かせず、だらりと力なく垂れ下がっている。皮膚の表面には、神の強大な魔力と衝突した際に発生した膨大なコードエラーの残滓――幾何学的な回路のような微細な傷痕が、激しく焦げたように赤黒く残っていた。王都のいかなる高位の治癒魔術師を以てしても、その魔力神経は完全に焼き切れており、二度と動くことはないと告げられていた。かつて隠密極振りの暗殺型スナイパーとして、三千ヤード先の敵を音もなく射抜いていたあの神技の指先は、今や羽毛の重さすら感じ取ることができない。
だが、その不自由な身体を視界の端に捉えながらも、エイルの顔には一寸の悔いも、寂しさも、悲哀の色すらも無かった。右手首に固く巻かれた、少しだけ戦火で焦げてしまった緋色のリボンが、海から吹き上げる穏やかな潮風に揺られてパチパチと誇らしげに踊っている。これこそが、彼が世界の底ですべてを賭けて戦い抜き、最も大切な人の笑顔と未来を守り通したという、何よりの勲章であり、二人の真実の絆の証明だったからだ。右腕の感覚を完全に失うことで、セリアが生きる未来を神の手から買い戻せたのだとしたら、それは彼にとってこれ以上ないほどに安い買い物だった。彼は自分の選択を、今でも世界で一番誇りに思っていた。
「エイル、お待たせ! 荷物の準備、これで本当に全部終わったわよ」
小さな手作りの木造小屋から、バタバタと賑やかな足音を立てて出てきたセリアは、華奢な肩に大きめの旅の背嚢を背負っていた。
その表情には、かつて王都で大教会の重圧に耐え、人類の希望として冷たい祭壇の前で張り詰めた祈りを捧げ続けていた高貴な聖女の面影はどこにもない。昔、泥にまみれて一緒に野山を駆け回り、エイルの後ろを必死に追いかけていた頃のような、満開のひまわりを思わせる、ただの愛らしい一人の少女の笑顔がそこにはあった。彼女の琥珀色の瞳は、これからの未来に対する純粋な期待と、隣にいる青年への深い恋慕と信頼で、硝子の海よりも深く、眩しく輝いていた。彼女の身に纏う衣服も、華美な大聖女の法衣ではなく、動きやすい素朴な旅人の仕立てになっており、それが彼女の本来の快活さを際立たせていた。
二人が望みさえすれば、王都に留まり、世界の救世主の最高顧問や大聖女としての最高位に就き、一生涯の栄華と不自由のない暮らしを約束される道もあった。事実、彼らの旅立ちの前夜、王城の密室でのレイハルトとの別れの光景が、エイルの脳裏に鮮やかに蘇る。
レイハルトは、かつての虚飾に満ちた傲慢な輝きを完全に捨て去り、一人の誠実な男としてエイルの前に跪いていた。
『どうか私の隣で、この新しい国の未来を一緒に作ってほしい。エイル、君たちこそが、本当の意味で世界を救った影と光の救世主なのだから。私一人では、皆が押し付けてくるこの光の重さに耐えかねてしまう。君が裏で支えてくれなければ、私はまたどこかで折れてしまうかもしれないんだ』
レイハルトの言葉に嘘はなかった。彼はエイルの圧倒的な超演算の実力と、セリアの無償の愛の深さを、誰よりも正当に理解し、心の底からの敬意と恐怖を抱いていたからこそ、親友として涙を流しながら引き止めたのだ。自分の無力さを知った本物の英雄は、影の英雄の去り際を、誰よりも寂しがっていた。だが、エイルはレイハルトの肩を左手で優しく叩き、『お前ならもう大丈夫だ。お前が光でいる限り、世界は絶対に裏返らない。今度は、お前自身の足で歩め』と告げて、静かに微笑みながら背を向けたのだ。
「本当にいいのかい、セリア」
エイルはいつもの頼りない、しかしどこまでも穏やかで優しい声音で、荷物を背負い直す彼女を見つめた。
「王都にいれば、誰もが君を敬い、跪き、何一つ不自由のない最高に幸福な暮らしができたはずだ。僕のような、右腕一つまともに動かせなくなった補給係の男と一緒にいたら、これから先、たくさん苦労することになる。泥にまみれることも、冷たい雨に打たれることもあるかもしれないんだよ。今の僕には、君を遠くから弓で守るような圧倒的な力すら、もう残っていないかもしれないんだ」
「もう、まだそんなことを言っているの? エイル」
セリアは呆れたようにくすくすと笑うと、背嚢の重さをものともせずに一歩一歩確かな足取りで歩み寄り、エイルの動く左腕に、自らの両腕をそっと絡ませた。そして、彼のしっかりとした温かい肩にそっと自分の頭を預け、愛おしそうに水平線の彼方を見つめる。
「あなたって、世界をハッキングして神様をスクラップにするほどの凄腕のくせに、こういう私の気持ちに関しては、本当に心配性で不器用なんだから。少しは私の決意を信じなさいよ。私はね、守られるだけの弱いお姫様でいるのを、あの日時計塔の裏で、あなたの血溜まりを見た瞬間にやめたの。今度は、私があなたを支える番だって、心に決めたんだから。あなたが右腕を動かせないなら、私のこの両腕が、あなたの右腕になるわ」
セリアはエイルの右手首に巻かれたリボンの結び目に、そっと自らの白い指先で触れた。その布地を通じて、エイルの体内に眠る影の魔力と、セリアの聖なる魔力がお互いに溶け合い、心地よい微熱を伴って静かに同調していくのを感じる。かつてはエイルを無能だと信じ込み、その裏での命がけの代償に全く気づけなかったセリアだったが、真実を知った今、彼女の魔力はエイルの肉体を優しく包み込み、暴走する影の負荷を完璧に宥めるための最高のバックアップコードへと進化していた。エイルの右腕は動かなくとも、二人の精神のリンクは全盛期以上に強固に、そして深く繋がっていた。
「聖女としての地位も、周りからの名誉も、煌びやかなお城での暮らしも、あの日あなたの真実を知った瞬間に、全部全部捨てたって言ったでしょう? 私にとって、あなたのいない世界がどれほど平和で豊かだったとしても、そんなものには何の意味もないの。あなたの隣で、あなたの動かない右腕になって、あなたと一緒に笑い合えること以上に、私にとって価値のある場所なんて、この世界のどこを探したって無いのよ。だから、もう二度と私を置いていこうなんて考えないでね」
彼女の言葉は、一寸の迷いもない確信に満ちていた。
エイルは、かつて自分が一人で血を吐きながら、彼女のレイハルトへの恋の相談を特等席の友人として笑顔で受け流し、胸を締め付けられるような孤独に耐えていた切ない日々を思い出していた。あの時の報われない無償の愛の痛みは、今、彼女の細い身体の温もりと、真っ直ぐな恋慕の言葉によって、完全に洗い流され、最高級の幸福へと昇華していくのを感じる。世界中を敵に回しても、この少女のこの言葉さえあれば、自分の歩んできた仄暗い影の道はすべて報われたのだと、彼は心の底から深く実感していた。エイルは動く左手で、セリアの小さな手を優しく、しかし離さないように強く握りしめた。
「神様が消えたことで、あの硝子の海の向こう側――今までは世界のシステム(障壁)によって絶対に立ち入ることができなかった『世界の果ての未踏領域』への扉が開いたんでしょう? だったら、行くしかないじゃない。私たちがまだ小さくて、村の外の世界なんて何も知らなかった頃……二人で夜空を見上げながら、秘密の指切りをして約束した、海の向こうにある『本当の綺麗な国』を探しにね。今度の旅は、誰かのためじゃない。私たちがまだ小さかった頃からの本当の約束を果たす、二人だけの始まりなんだから。ね、一緒に行きましょう、エイル」
エイルは微笑んだ。
それは、これまでのどんな過酷な戦場でも見せることのなかった、原型を留めないほど無能を装う擬態の仮面でもない、心からの愛おしさと、深い幸福感に満ちた、優しい幼馴染の男の子の笑みだった。
「ああ、そうだね。あの約束は、子供の頃の他愛のない迷信なんかじゃない。俺たちの、終わりなき本当の未来の始まりだ。君が隣にいてくれるなら、俺はどこまでだって行けるよ。たとえこの先、世界のプログラムがどんなバグを起こそうともね」
エイルの右腕は、これからも一生動かないかもしれない。スナイパーとしての圧倒的な超演算の弓は、もう引けないかもしれない。だが、そんなことは二人の前では些細な問題に過ぎなかった。セリアが彼の動かぬ右腕となり、エイルが彼女を包み込む影となる。二人の絆がこの緋色のリボンでしっかりと結ばれている限り、たとえこれから先、どんな理不尽な世界の悪意や新たな困難、未踏の地の未知の脅威が立ちはだかろうとも、その左指一つでシステムごとハッキングして突き崩し、どこまでだって歩んでいける。二人の愛の力は、すでに世界の神の因果すらも捩じ伏せ、超越してみせたのだから。彼らの紡ぐオープンコードは、いかなる世界のプログラムよりも強固で、エラーのない完璧な絆だった。
「行こう、セリア。俺たちの、新しい世界の開拓へ」
「ええ! どこまでだって、あなたと一緒よ、エイル! 見て、あの船……私たちの新しい家になる、小さな『リボン号』よ!」
最果ての断崖の下、静かに波に揺れていた、二人のためだけに用意された小さな帆船へと乗り込み、二人はどこまでも広がる青い硝子の海へと、まっすぐに舵を切った。船の頑丈な麻ロープを引くセリアの手元を、エイルが唯一動く左手で器用にサポートする。その二人の共同作業は、驚くほど自然で、完璧な呼吸のシンクロを見せていた。
世界を照らすまばゆい光の英雄は、最も信頼できる友に完全に託して。
かつて世界に蔑まれ、愛する人に振り回されながらも、ただ一人を守るためにすべてを捧げ尽くした影の救世主と、その真実の愛の深さに気づき、自らの意志で光の座を降りた少女は、自分たちだけの本当の幸福の答えを掴み取るために、新しき世界の大海原へと、誇らしげに船出していくのだった。その白い帆は夕日をいっぱいに浴びて、二人の未来を祝福するように、どこまでも高く、美しく膨らんでいた。硝子の海の彼方、まだ見ぬ美しい国を目指して、二人の新しい物語が今、静かに、そして壮大に幕を開ける。
(第4章・完結)




