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第七章 チェシャ猫の誘い

送信ボタンを押してから四十八時間、桜井未来の生活は表面上、平穏を取り戻していた。彼女はいつものように会社に出勤し、会議に出席し、メールを処理し、山田健太たちと製品の次のイテレーションについて議論した。彼女は意気消沈したチームを励まし、博通広告の失敗は一時的な挫折に過ぎず、市場にはまだ無数のチャンスが待っていると語りかけた。


しかし、彼女自身だけが、そのすべてが大きな賭けの上になりたっていることを知っていた。彼女は数分おきに無意識にあのマイナーな金融フォーラムのページを更新し、空っぽの受信トレイを睨みつけては、心臓がまるで見えない糸で引っぱられているかのように、宙に浮いたり、どん底に沈んだりするのを感じていた。


川端真音があのIDをまだ使っているのか、あのメッセージを見てくれたのか、そして返信をくれるのか、彼女には確信が持てなかった。結局のところ、二人の友情は「世界の仕組み」に関するあの口論の日に、とっくに終わりを告げていたのだ。真音にしてみれば、当時の自分は、おそらく白黒をはっきりさせたがり、グレーの芸術を理解しない「優等生」に過ぎなかったのだろう。


桜井が希望を諦めかけた三日目の未明、かすかな「ポリン」という通知音と共に、"Ariadne"と名付けた新しいアカウントの受信トレイに、一通の新しいプライベートメッセージが届いた。


送信者は、まさしく"CheshireCat"だった。


そこには文字はなく、ただ座標と時間だけが記されていた。


「北緯35.6645度、東経139.7323度」

「T+2, 21:00」

「ドレスコード:ブラック&ゴールド」


桜井はすぐに座標を地図に入力した。西麻布にある場所が浮かび上がった。地図上に店名はなく、ただ「The Looking Glass」という曖昧な表示があるだけだった。


鏡の国。


いかにも彼女らしいネーミングだ。T+2は明後日を意味する。ブラック&ゴールドは、ルールであり、入場券でもある。


これは面会というより、むしろ面接、あるいは不思議の国へと続くウサギの穴への探検のようだ。川端真音は彼女が誰であるかを尋ねることも、「海賊船」と「巨大船」が何を指すのかを問うことさえしなかった。ただドアと、そのドアを開ける方法を示しただけ。ドアの向こうの世界は、桜井自身が探求しなければならない。


これこそが真音だ。彼女は確信の持てないことはせず、無意味な挨拶に時間を浪費することもない。彼女がこの招待状を送ってきたこと自体、彼女がすでに何かを知っているか、あるいはどんな可能性にも対処できる十分な自信があることの現れだった。


その後の二日間、桜井は会社の日常業務をきちんと整理した。彼女は久しぶりに半日休暇を取り、銀座で「ブラック&ゴールド」のテーマに合うドレスを選んだ。それはすっきりとしたカッティングの黒いロングドレスで、余計な装飾は一切なく、腰に細いゴールドのチェーンが巻かれているだけ。アシンメトリーな裾のデザインが、ふくらはぎのラインを若隱若現させ、優雅さと同時にどこか奔放な雰囲気を醸し出していた。彼女はまた、ゴールドのハイヒールも選んだ。そのヒールが地面を叩く軽快な音は、何かを宣言しているかのようだった。


彼女にはこの「鎧」が必要だった。なぜなら、彼女が会いに行くのは、もはや彼女の上段ベッドで眠り、彼女の堅物ぶりをからかっていた少女ではなく、資本という大海原で目に見えない巨大な波を乗りこなす「船長」だからだ。助けを求める弱者として現れるわけにはいかない。対等で、投資する価値のある協力者としてでなければならなかった。


水曜日の夜9時、夜の帳が下りた西麻布は、昼間よりもその魅力を増していた。大通りの喧騒から離れ、桜井は住所を頼りに、目立たない黒い建物を探し当てた。建物の外には看板一つなく、まるで黒曜石の塊から彫り出されたかのような重厚なドアがあるだけだった。ドアの前には、スーツを着こなし、インカムをつけた二人の警備員が立っていた。がっしりとした体格で、その眼光は鷹のように鋭い。


桜井は深呼吸をして、前に進み出た。


「こんばんは。」彼女は落ち着いて言った。


警備員の一人の視線が彼女に注がれた。冷静でプロフェッショナルな吟味。彼女の髪の先からヒールの先まで、どんな些細な点も見逃さない。彼は何も言わず、ただ体を少し横にずらし、ドアの横の壁にある、ほとんど闇に溶け込んでいるスクリーンを露わにした。


スクリーンには、金色の線で描かれたチェシャ猫が、彼女に向かってにっこりと微笑んでいた。


桜井は少し考え、指を伸ばして、スクリーンにそっと無限大の記号「∞」を描いた。これは彼女と真音が大学時代に使っていた小さな暗号で、「ルールの外」と「無限の可能性」を意味していた。


スクリーン上のチェシャ猫は瞬きし、その笑顔はさらに輝きを増し、そして煙のようにゆっくりと消えていった。重厚な黒曜石のドアが、音もなく内側へと滑り開き、奥深い廊下が現れた。


「どうぞ、桜井様。」警備員がようやく口を開いた。その声は低く、恭しい。


桜井の心臓がどきりと跳ねた。彼は彼女の名前を知っていた。つまり、彼女がプライベートメッセージを送った瞬間から、真音はおそらく彼女のすべてを徹底的に調査していたのだ。


廊下の突き当たりは、別世界だった。


そこは桜井が想像していたような、きらびやかで喧騒に満ちたクラブではなかった。むしろその逆で、静かで厳粛なほどだった。空間全体がダークな色調で統一され、貴重なブラックウォールナットの壁には、理解できないが高価そうな現代アートが数点飾られていた。空気中には、葉巻とウィスキーの混ざった香りがほのかに漂っている。三々五々、客たちは互いに離れたソファ席に座り、低い声で談笑していた。誰もが洗練された服装で、落ち着き払っており、まるで世界の風雲の変化など彼らには関係ない、あるいは、まさに彼らによって決定されているかのようだった。


黒いチャイナドレスを着た、すらりとした姿の女性スタッフが、微笑みながら桜井に近づいてきた。


「桜井様、川端様がお待ちです。」


彼女はスタッフについてホールを抜け、巨大な窓のある一角へと案内された。窓の外には、東京のきらびやかな夜景が広がり、遠くには東京タワーの灯りが静かに輝いていた。


ゴールドのシルクシャツに黒のワイドパンツを合わせた女性が、背を向けてベルベットのソファに座り、手の中の琥珀色の液体を静かに揺らしていた。


足音に気づき、彼女はゆっくりと振り返った。


その瞬間、桜井の息が止まったかのようだった。


目の前の女性は、知っているようで知らない人だった。川端真音の面影はあるが、大学時代の青臭さや奔放さは消え、代わりに驚くほど丹念に磨き上げられた美貌と、圧倒的なオーラをまとっていた。彼女の長い髪は無造作に低い位置でまとめられ、数本の髪が頬にかかり、気だるくセクシーな雰囲気を醸し出している。メイクは完璧で、特にその瞳は、かつていつも少し嘲笑的で遊び心のある光を宿していたものが、今では夜空のように深く、すべてを見透かしているかのようだった。


彼女こそが川端真音。あるいは、最終進化を遂げた"CheshireCat"そのものだった。


「久しぶりね、未来。」真音の口元に、見慣れた猫のような笑みが浮かんだ。「思ったより、少し早かったわね。」


「あなたも、思ったより…」桜井は言葉を止め、適切な言葉を探しているようだった。


「お金持ちになったって?」真音はくすくすと笑った。その笑い声は軽やかで、周りの静寂を破った。「座って。何か飲む?ここの山崎25年は、なかなかよ。」


「お水でいいわ、ありがとう。」桜井は彼女の向かいのソファに座り、優雅に足を組み、落ち着いた眼差しで彼女と視線を合わせた。ここの雰囲気に圧倒されるわけにはいかない。


「相変わらずね、清教徒みたい。」真音は唇を尖らせたが、それでも指を鳴らすと、スタッフがすぐにライム入りの氷水を運んできた。「話しなさい、私の愛しい『アリアドネ』。あなたの糸玉は、迷宮のどのミノタウロスを倒すために必要なの?」


Ariadneアリアドネ。ギリシャ神話でテセウスに糸玉を渡し、迷宮からの脱出を助けたクレタ島の王女。真音は彼女のアカウント名の背後にある隠喩を、一目で見抜いていた。


桜井は遠回しな言い方をせず、博通広告のコンペの顛末、伊藤啓介と黒田重信の繋がり、そしてサイバーシンク・ソリューションズという会社の張りぼての本質を、明確かつ簡潔に説明した。彼女は感情的な言葉を一切加えず、まるで自分とは無関係のビジネスケースについて語るかのように、事実だけを述べた。


真音は静かに耳を傾け、指でリズミカルにグラスを叩いていた。桜井が話し終えるのを待って、彼女がゆっくりと口を開いたが、その最初の質問は桜井の意表を突くものだった。


「それで、あなたは負けた。だから何?ビジネスの世界は、勝者がすべて。当たり前のことじゃない?そんな一つの契約のために、『巨大船を爆破したい』なんて。あなたのコストとリターンが、釣り合わないわ。」


「これは一つの契約の問題じゃない。」桜井は彼女の目をまっすぐに見つめた。「ルールの問題よ。伊藤啓介は、ルールの抜け穴を利用している。あるいは、彼に有利な、不公平なルールを作り出している。彼は、真面目にルールを守り、革新を目指すすべての人々を、彼の脚本の中の当て馬や笑いものに変えている。今日は私でも、明日は他の誰かかもしれない。この業界で確固たる地位を築きたいのなら、誰かが彼のルールを破らなければならない。」


「ルールを破る?いいえ、ダーリン。」真音は指を振り、口元の笑みをさらに深くした。「勘違いしているわ。彼はルールを破っているんじゃない、『運用』しているのよ。資本、人脈、利益交換…これらも元々ゲームのルールの一部。ただ、あなたがかつて見下していた部分なだけ。彼はそれを上手くやっている。そしてあなたは、スタートラインで負けたの。」


桜井は沈黙した。真音の言うことが事実だと、彼女は知っていた。


「じゃあ、なぜ私に会いに来たの?」真音は身を乗り出し、その深い瞳で桜井を見透かそうとした。「ただ腹いせのため?それとも、いわゆる『正義』のため?私が知っている桜井未来が、そんなにナイーブだとは思えないけど。」


「私も、『プレイヤー』になりたいから。」桜井は一言一言、疑いの余地のない決意を込めて言った。「でも、私の船は小さすぎて、いくら速くても彼の巨大船には敵わない。あなたの『海賊船』が必要なの。新しい海賊になるためじゃない。彼と同じテーブルにつくための、チケットを手に入れるために。」


「面白いわね。」真音はソファに深くもたれかかり、グラスのウィスキーを飲み干した。「どうしたいの?というか、私に何をしてほしいの?」


「サイバーシンク・ソリューションズの核心的な競争力は、技術じゃない。黒田重信と伊藤啓介の関係よ。この会社の本当の価値は、彼らが博通広告から得ようとしているこの契約にある。この契約こそが、彼らの将来の資金調達と拡大の礎なの。」桜井の思考は、かつてないほど明確になっていた。「私がしたいのは、釜底抽薪。彼らが得意満面で、すべてが思い通りだと思い込んでいる時に、その契約を奪い取ること。」


「ほう?どうやって奪うの?コンペはもう終わったのよ。」


「コンペは終わったけど、契約はまだ結ばれていないし、プロジェクトも始まっていない。その間には、少なくとも一週間から二週間のウィンドウ期間があるわ。」桜井の目に、鋭い光が宿った。「博通広告の責任者、マーケティング部長の『鈴木雄也』。この人物について調べたわ。仕事はできるけど、極端に自分の評判を気にするタイプ。自分のキャリアに傷がつくことを、何よりも恐れている。彼が伊藤啓介のやり方を黙認したのは、サイバーシンク・ソリューションズが少なくとも『見た目』はまともで、自分の経歴に汚点を残さないだろうと判断したからよ。」


「それで?」


「だから、サイバーシンク・ソリューションズに、隠しきれない巨大な『汚点』を作ってやるの。」桜井は言った。「鈴木雄也に、もし博通広告がこの会社と本当に契約を結んだら、それが彼のキャリアにおける最大のスキャンダルでありリスクになると、信じさせるの。その時、彼はどうすると思う?」


真音は笑った。今度は心からの笑みだった。「彼はすぐに提携を打ち切るでしょうね。伊藤啓介の機嫌を損ねるリスクを冒してでも、関係を断ち切ろうとするわ。そして、埋め合わせのために、最も安全で、最も優れた代替案を、最速で選ぶ。つまり…あなたたち、新星テクノロジーをね。」


「その通り。」


「完璧な計画ね。でも、その『汚点』をどうやって作り出すの?」真音は興味深そうに尋ねた。「技術的なスキャンダル?財務的な不正?それとも…創業者の品性の問題?」


「あなたの助けが必要なの。」桜井はついに、この訪問の最終目的を口にした。「サイバーシンクの唯一の技術は、倒産寸前のイスラエルの小さな会社から買収したもの。その技術を研究したわ。巨大なセキュリティ上のバックドアが存在するの。私が必要な時に、そのバックドアを利用して、大ごとになりすぎず、でもニュースの見出しを飾るには十分な技術的な事故を起こせる人が必要なの。そして、真音、あなたなら世界最高の『ハッカー』のリソースを持っていることを、私は知っている。」


再び静寂が訪れた。今度は、真音が沈黙する番だった。彼女は再び自分に酒を注いだが、飲まずに、ただグラスの中で液体が渦を巻くのを眺めていた。


「私があなたを助けて、私に何の得があるの?」ついに彼女は口を開いた。その口調はビジネスライクで、冷静だった。「友情?その言葉は、私たちが卒業した日から、もう存在しないわ。」


「新星テクノロジーの株式、20%。」桜井は落ち着いて、自分の提示額を告げた。


その数字を聞いて、真音の眉がわずかに上がった。それは間違いなく、非常に誠意のあるオファーだった。破壊的な技術を持ち、そして桜井未来――彼女がその知性と粘り強さを常に評価してきた女性――が率いる会社にとって、20%の株式の将来的な価値は、天文学的な数字になる可能性があった。


「気前のいいオファーね。」真音は言った。「でも、それだけじゃ足りない。」


「他に何が欲しいの?」


「私が欲しいものは、今のあなたには与えられないわ。」真音は立ち上がり、巨大な窓辺に歩み寄り、桜井に背を向け、足元に広がる街の灯りを見つめた。「未来、あなたには何か特別なものがある。何か…この時代のものではないものが。あなたの問題を見る角度、未来に対する確信。それは二十代の起業家が持つべきものではないわ。たぶん、あなたも私と同じように、この世界の『ソースコード』を見たことがあるんじゃないかしら?」


桜井の心臓が、激しく高鳴った。彼女は、自分の最大の秘密が、この最もよく知る、そして最も遠い友人に、その一端を覗かれてしまったのかもしれないと感じた。


「あなたの株はいらない。」真音は振り返った。彼女の顔には再びあのチェシャ猫のような笑みが浮かんでいたが、今回の笑みには、より深い意味と探求の色が混じっていた。「あなたを助けてあげる。私のすべてのリソースを使って、伊藤啓介を片付け、新星テクノロジーを然るべき高みへと押し上げてあげる。あなたの会社の『幽霊顧問』になって、水面下でのトラブルをすべて解決してあげてもいい。」


「条件は?」桜井は、自分の手のひらに汗がにじむのを感じた。


「私の条件は簡単よ。」真音は桜井の前に戻り、片手を差し出した。


「今日から、あなた、桜井未来は、私に一つ『貸し』がある。時間も、内容も、理由も問わない貸し。私が返してほしいと言った時、あなたは断れない。」


その声は柔らかだったが、抗うことのできない魔力を持っていた。


「あなたと私で、もっと長いゲームをしましょう。あなたは日の当たる場所で世界を変え、私は影の中であなたの障害を取り除く。お互いのレバレッジになって、この地球をどこまで動かせるか、見てみましょうよ。」


これはビジネス契約ではない。これは悪魔との契約だ。


未知で、おそらくは無限大の未来と引き換えに、目の前の、確実な勝利を手に入れる。


桜井は、真音が差し出した手を見つめた。その手は白くしなやかで、指には優雅なゴールドのマニキュアが塗られていた。彼女は大学卒業の時、真音が彼女に言った最後の言葉を思い出した。「いつか地球を動かしたくなった時、また私を訪ねてきなさい。」


そうか、あの時から、この招待状はすでに送られていたのだ。


桜井は顔を上げ、真音の探るような視線に応え、彼女もまた笑った。それは、すべての偽装と防御を解き、心の底から湧き上がる、安堵の笑みだった。


彼女は手を伸ばし、真音の手を握った。


「取引成立ね。」


二つの手が握り合わされた瞬間、窓の外の東京の夜景が、さらに輝きを増したように見えた。新たな嵐が、誰にも気づかれることなく、静かに胎動を始めていた。


(第七章 終わり)


**次章予告:『釜底抽薪』**


川端真音と合意に達した桜井未来は、反撃計画の実行に着手する。巧みに仕組まれた「技術事故」が、サイバーシンク・ソリューションズを大きな広報危機に陥れる。世論とプレッシャーの二重の作用の下、博通広告の鈴木雄也は、どのような選択をするのか?そして、一杯食わされたことに気づいた伊藤啓介は、どのように反撃するのか?新星テクノロジーの運命は、この一手に懸かっている。

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