最高神オーディン
一方で、真白が飛ばされた先は、見上げるほど高くまで巨大な本棚がずらりと並ぶ、どこか厳かな図書館を思わせる広大な空間だった。果てしなく続く書物の群れ。その中央で、不気味な威圧感を放つ隻眼の最高神オーディンが、愛槍のグングニルを傍らに携えて静かに待ち構えていた。
「来たか、人の子よ……。神の理に刃向かい、この神域にまで足を踏み入れるとはいい度胸だ。その身の程知らずな不遜さだけは、褒めて買ってやろう」
「……あなたたちのしている行動は、絶対に許し難いことばかり……っ! なぜ、そうやって平気で人を傷つけて、酷いことばかりするのっ!?」
真白は自身の武器を強く握り締め、毅然とした態度でオーディンを真っ向から見据えた。しかし、最高神は表情一つ変えず、鼻で笑うように吐き捨てる。
「ふん、愚問だな。我ら神々が、どこで何をどうしようが、下界の虫けら一匹に過ぎぬ貴様らには何の関係もないことだ。創造主が被造物をどう扱おうが、それは絶対的な権利であり理なのだからな」
「関係なくなんてないっ! あなたたちには、命への罪悪感というものが決定的に欠けていますっ! しかも、私たちの大切なものを幾度も奪っていながら、これっぽっちも反省の色もない……!」
込み上げる怒りと悲しみに胸を震わせながら、真白は一歩前へ踏み込み、魂の叫びをオーディンへと叩きつけた。
「あなたたちがダラダラと退屈に過ごした数千年と、あなたたちが虫ケラみたいに簡単に殺した、百人の人間の輝かしい『十年』では、その価値が全く異なるっ! 本当ならみんな、何年、何十年と幸せに生き、それぞれの生を噛み締めて過ごせたはずだったのに……っ! その命の尊さ、自由の大切さを導き教えることこそが、あなたたち神のするべきことじゃなかったのっ!!」
静まり返っていた膨大な書庫の空間に、真白の純粋な咆哮が激しく響き渡り、本棚の隙間の空気を震わせた。
だが、オーディンは眉一つ動かさず、ただ冷酷に、哀れむような視線を真白へ向ける。
「ふん。どれほど言葉を飾ろうと、勝者が歴史を刻み、敗者は文字通りゴミのように消え去るのがこの世界の理だ。不満があるならば、言葉ではなく貴様の持つ力でそれを証明して見せよ。……さぁ、来い」
オーディンが愛槍グングニルの石突でトン、と静かに床を突く。それだけで、本棚の群れがガタガタと悲鳴を上げ、絶対的な神威が空間を支配した。
「分かりました。……私があなたを倒し、私たちの生きてきた時間に意味があることを、その傲慢な鼻に証明して見せますっ!!」
真白は一歩も引かず、自身の魔力を一気に沸点へと到達させた。彼女を中心に、光と闇が混ざり合うような、かつてない濃密な波動が渦を巻いて噴き上がる。
「──限界突破Ⅱ。……聖邪の審判、アマケシカッ!!」
前回とは違い、その瞳が虚ろに濁ることはない。
光が弾けると、真白は「聖」と「邪」が同居する異質な姿へ変貌を遂げていた。
ポンチョのフードは不吉な漆黒に染まり、服は純白のフリルをあしらった戦衣へ。露出したヘソが幼さを残す一方、短いスカートと膝上の黒ブーツが戦士としての鋭さを際立たせる。
そして、その手に握られた杖が、持ち主の変貌に呼応するように姿を変えた。
持ち手には可愛らしいリボンがあしらわれながらも、刃先には薄っすらと邪の気配を纏った純白の大鎌へと。
真白がその大鎌を鋭く振るうと、空間が激しく明滅し、膨大な書庫の床に巨大な魔法陣が幾重にも重なって展開されていく。
「召喚──シルフィーヌ! ノムラ! ウルダイブ! サルバートッ!!!」
真白の叫びに応じるように、魔法陣から天を突くほどの魔力の柱が四本、同時に立ち昇った。自然を従える者、地を揺るがす者──それぞれが圧倒的な存在感を放つ四人の聖霊たちが、主である真白を守護するように、静かに、しかし強大なプレッシャーと共にその姿を現した。
本棚の隙間を埋め尽くすほどの強烈な魔力の奔流。しかし、オーディンは不敵な笑みを浮かべ、傍らの愛槍グングニルを無造作に右手に取り直す。
「……数が増えたところで、我に勝てるわけではないぞ。有象無象まとめてかかってこい。その傲慢ごと、真っ向からねじ伏せてやろう」
「みんな、行くよっ!──身体強化っ!」
『了解──ッ!!!』
真白の鋭い掛け声に、4人の聖霊たちが一斉に呼応する。
後方から魔法を扱うシルフィーヌ、ウルダイブ、サルバートが同時に詠唱を開始。それと同時に、前衛のノムラと大鎌を構えた真白は二手に分かれ、オーディンの死角を突くようにして猛然と地を蹴った。
「──木縛っ!」
「──水球の監獄!」
「──炎龍爆炎波っ!」
床を突き破り、無数の巨大な木の根がうねりながらオーディンの足を強固に絡めとる。間髪入れず、その足元から湧き上がった奔流が渦を巻き、最高神の巨体を完全に水の球体の中へと閉じ込めた。
自由を奪ったそこへ、トドメと言わんばかりにサルバートの放った極大の炎の光線が、轟音と共に着弾する。
完全に決まった──そう確信した瞬間。
「……児戯だな」
水の檻と爆炎の向こう側で、隻眼が冷酷に光った。
オーディンが無造作に愛槍グングニルを床へ突き刺すと、足元に巨大な神聖文字の魔法陣が展開される。刹那、神威の衝撃波が全方位へと爆発的に吹き荒れ、絡みつく木の根も、包み込む水牢も、荒れ狂う爆炎さえも、すべてが一瞬で塵となって吹き飛ばされた。
『──なっ!?』
三人の精霊がその圧倒的な力に息を呑むが、戦いの火蓋はすでに切られている。
「嘘、魔法が完全に相殺された……っ!?」
「……チッ、バケモノめ! だが、まだ終わっちゃいねえぞッ!!!」
煙を切り裂き、オーディンの左右から同時に躍り出たのは、真白とノムラだ。
「はあああぁぁぁッ!!」
「オラァッ!!!」
ノムラが全身の筋力を乗せて巨大な二振りの斧を振り下ろし、真白が神速の踏み込みから漆黒の気配を纏った純白の大鎌を鋭く払う。
しかし、オーディンは一歩も動かない。
迫り来る二つの凶刃に対し、最高神はグングニルの穂先と柄の強靭なしなりだけを使い、最小限の動作で二人の斬撃を完璧にいなしていく。
キィィィンッ! と鼓膜を揺らす金属音が書庫に連続して響き渡る。
ノムラが繰り出す地を割るほどの重い連撃も、真白が限界突破の速度で放つ大鎌の変幻自在な猛攻も、オーディンはまるで最初から軌道を知っていたかのように、ものともせずすべて受け流してみせた。火花が激しく散る中、息をもつかせぬ超至近距離の攻防がしばらくの間、激しく火花を散らし続けた。
これ以上の深追いは危険と瞬時に判断した二人が、息を合わせて同時にバックステップで距離を取る。その離脱と同時に、待機していた後衛三人の追撃魔法がオーディンへと襲いかかった。
「──木々の宴ッ!!!」
「──霊水の激流ッ!!!」
「──火竜の熱閃ッ!!!」
先端が鋭利な槍と化した無数の大木が、オーディンを串刺しにせんと床から次々と牙を剥く。さらにウルダイブの足元から津波のような大量の水が勢いよく押し寄せ、その水流を飛び越えるようにして、サルバートの口から凝縮された一筋の細く鋭い炎の光線が放たれた。
質量、速度、威力、すべてが先ほどを上回る波状攻撃。
しかし、オーディンはただ冷酷に隻眼を細めると、愛槍グングニルを大きく頭上へと振りかぶる。
「……児戯を重ねたところで、結果は変わらん」
一閃。
ただ無造作に槍が振り下ろされた。それだけで、空間を切り裂くほどの凄まじい衝撃波が走り、迫り来る大木の群れも、押し寄せる霊水の激流も、すべてが真っ二つに引き裂かれ、霧散していく。炎の熱閃すらもその軌道を強引に割られ、オーディンの背後の壁へと虚しく激突した。
神の放つ、あまりに理不尽な一振りの重み。
「これが神……。信じられない、強すぎるよっ……!」
「本当、つくづく神様なんて嫌いになりそうです……っ!」
「……チッ、ハンパじゃねえ強さだな。まともにぶつかっちゃキリがねえ。何か手を打たねえと全滅するぞ!」
聖霊たちが焦燥の声を上げるが、真白とノムラはすでに次の手を打っていた。
攻撃が引き裂かれた瞬間のわずかな隙を突き、二人はオーディンの視界の前後から同時に奇襲を仕掛ける。
「はあああぁぁぁッ!!」
「死角だ、喰らいやがれッ!!」
完璧な同時攻撃。しかし、最高神は振り返る必要すら、その隻眼で捉える必要すらなかった。
オーディンは背後から迫るノムラの斧を、見もしないままグングニルの柄の後端で正確に弾き飛ばし、同時に前方から切り込む真白の大鎌を鋭い穂先で受け止める。前後からの挟撃すらも流れるような一連の動作で完璧にいなされ、二人の武器が再び激しい火花を散らせた。
「その程度の攻撃を繰り返すなら時間の無駄だ。どれほど言葉を飾ろうと、結局貴様らは、神の創った箱庭で踊る玩具でしかないということだ。……遊びは終わりだ。消えろ」
オーディンの隻眼が冷酷な光を放った、その刹那。
──ガギィィィンッ!!!
一瞬でグングニルが旋回し、真白とノムラの二人がまとめて強烈に薙ぎ払われる。
凄まじい衝撃に吹き飛ぶ一同に対し、オーディンは漆黒の残影を残して神速で踏み込んだ。
それは、認識すら不可能な光速の連撃。
一人、また一人と、瞬く間にグングニルの必中の穂先が聖霊たちの身体を正確に貫いていく。
シルフィーヌが、ウルダイブが、サルバートが、そして真白を庇うように立ち塞がったノムラが、神の放つ無慈悲な一突きによって致命傷を負わされ、血飛沫と共にバタバタと床へ倒れ伏していく。
「みんな……っ!! あ、ああっ……!」
最後に残された真白の胸をも、容赦のない衝撃が貫いた。背後の巨大な本棚へと激しく叩きつけられ、古い書物を巻き散らしながら床へと崩れ落ちる。
「ぐ、がはっ……っ!」
口から鮮血が溢れ、全身を灼熱のような激痛が襲う。
文字通り次元が違う。神の最強の一角が持つ真の力は、あまりにも理不尽で、あまりにも残酷だった。
「嫌だ……負けたくない、のに……。私が、私があなたを倒して、みんなの生きてきた時間を……勝たなきゃ、いけないのに……っ」
真白は血に染まった床に這いつくばりながらも、消えかけそうな意識の奥で必死に闘志を燃やす。しかし、力なく震える指先、冷たくなっていく身体、そして最悪の絶望を前にして、彼女の心は今にもパキリと音を立てて折れそうになっていた。




