心機一転
祝杯をあげた次の日の朝。
今日が良い日になるか悪い日になるか、それはアリスの記憶がどこまで残っているかによって左右される。
リビングに一番乗りしたのは、いつも通り元気な真白だった。ソファで所在なげに座っている兄の姿を見つけるなり、小首を傾げた。
「みんなおはよーっ!……お兄ちゃん、何かそわそわしてない?」
「……っ! おはよう、真白。……そわそわなんてしてない。いつもこんな感じだ」
剣一は努めて冷静を装い、手元にあった剣の手入れ道具をいじり始めた。だが、その手つきはどこかぎこちなく、視線は無意識に、自分の部屋へと向いている。
そこへ、優雅な足取りでシロミが姿を現した。彼女はリビングの空気感を一瞬で読み取り、楽しげに目を細める。
「おはよう。アリスはまだ寝てるみたいねぇ。真白ちゃん、お兄様は今から忙しくなるかもしれないから、そっとしておいてあげて」
「え? 忙しくなるの? お仕事?」
純粋に問いかける真白に対し、シロミはクスクスと扇子で口元を隠しながら、剣一の耳元を真っ赤にさせるような視線を送った。
「ええ、心の整理とか……言い訳の準備とか、いろいろねぇ?」
「シロミ、余計なことを言うな……」
剣一は低く唸るように返したが、反論する言葉が見つからない。昨夜、おんぶした背中で聞いたあの甘い告白。そして、ベッドに横たえた時に握り返された手の感触。それらが脳内でリフレインするたびに、彼の修行で鍛えた自制心が音を立てて崩れそうになっていた。
そんな剣一の様子を面白そうに眺めていたシロミだったが、やがてエプロンの紐を結びながらキッチンへと向かう。
「とりあえず私と真白ちゃんで朝食作るから、ゆっくりしてて大丈夫よ。お兄様は……そうね、嵐が来る前に精神統一でもしておきなさいな」
「わーい! 私もお手伝いするねっ!」
真白に手を引かれ、シロミは鼻歌まじりにキッチンへ消えていった。
残された剣一は、静まり返ったリビングで一人、椅子に座り机を見つめていた。
(……アリス、どこまで覚えているんだ……?)
もし全部覚えていたら、顔を合わせた瞬間に火炎爆破が飛んでくるかもしれない。あるいは、全く覚えていなかったら……。
どちらにせよ、これまでの相棒という距離感には戻れない気がして、剣一は深い溜息をついた。
その時。
自分の部屋から、ギシッ……と床のきしむ音が聞こえてきた。
「んーっ!……みんなおはよー」
背伸びするように両手を上げ、アリスが降りてきた。
(……どっちだこれは)
覚えているが気にしないようにしてるのか、全く覚えていなくて普通に出てきたのか、どっちかわからない状況に、剣一は困惑する。
「あら、アリスおはよう。ゆっくり眠れたかしら?」
「えーっと……まぁ……眠れたかな?」
「それは良かったわ。……ちなみに昨日のこと覚えてるかしら?」
シロミの意地悪な問いかけに対し、アリスは食い気味に、そしてこれ以上ないほど不自然な「棒読み」で言い放った。
「……ななな、何も覚えてないけどっ!」
(……全部記憶あるやつじゃないか)
剣一は思わず心の中で深く突っ込んだ。
何も覚えていないと言う割には、アリスの視線は泳ぎまくり、頬は林檎のように赤らんでいる。しかも、剣一と目が合いそうになるたびに、磁石の同極同士が反発し合うように、素早く顔を背けているのだ。
「あら、そうなのぉ? 昨日のアリスちゃん、とってもお腹が空いてるみたいだったから、何か食べ残しでもあったかしらって心配しちゃったわぁ」
シロミはキッチンからフライパンを揺らしながら、確信犯的な笑みを浮かべる。
「た、食べ残しなんてないしっ! あたしはただ、普通に祝杯をあげて、普通に帰ってきただけ! そうだよね、剣一っ!?」
いきなり話を振られた剣一は、手に持っていたコップをあやうく落としそうになった。
「あ、ああ……。そうだな。……特におかしなことはなかった、と思うぞ」
剣一もまた、動揺を隠すために必死で「無」の表情を作り、嘘を重ねる。昨夜の「だーいすき」という甘い寝言や、自分の胸板への破廉恥な独白を「おかしなことではなかった」と言い切るには、かなりの精神修養が必要だった。
「……ふーん、お兄ちゃんもアリスちゃんも、なんだか変なの。お顔真っ赤だよ?」
真白が無邪気にサラダのボウルを抱えてリビングにやってくる。そのあまりにも真っ直ぐな指摘に、二人は同時に「っ!!」と肩を跳ねさせた。
「……わ、私、手伝ってくるっ! 真白、それ貸してっ!」
アリスは逃げるように真白からボウルをひったくり、キッチンへと潜り込んだ。
剣一は、アリスの去った後の空気を吸い込みながら、深く、深すぎる溜息をついた。
(覚えてる……。あいつ、全部覚えてる。……これ、どう接すればいいんだ?)
キッチンからは、シロミの楽しそうな笑い声と、それに対抗するようなアリスの「うるさい!」という怒鳴り声が聞こえてくる。
朝食が完成し、四人が席に座ると真白が元気よく声を出す。
「じゃあみんな手を合わせてっ!いただきますっ!」
『いただきます』
するとアリスは何も喋るまいと次から次へと口に放り込む。
「あらあら、アリス。そんなにがっついちゃって……まだ酔いが覚めてないのかしら?」
シロミの意地悪な問いかけに、アリスはパンを口に詰め込んだまま、リスのように頬を膨らませて必死に咀嚼した。
「……ふぐっ、もぐもぐ……っ、さ、さっきからうるさいっ! ……っ!」
喉に詰まりそうになり、慌てて横にあったグラスの水を煽る。その様子は、まるでお酒を飲んでいる時よりもよほど酔っ払いのように支離滅裂だ。
剣一は自分の皿の目玉焼きを黙々と突きながら、視線をアリスに向けないように全神経を集中させていた。しかし、アリスが隣で動くたびに、昨夜背負った時の柔らかな感触や、背中で聞いた「だーいすき」という声が、幻聴のように蘇る。
「……アリス、落ち着いて食え。誰も取らないぞ」
剣一が努めて冷静に声をかける。だが、その声には微かな震えが混じっていた。
その瞬間、アリスの手がピタリと止まる。彼女はゆっくりと、まるで錆びついた機械のように首を剣一の方へ向けた。
「……ねえ、剣一」
アリスの声は、さっきまでの騒がしさが嘘のように静かだった。
彼女はフォークを置いて、潤んだ瞳で真っ直ぐに剣一を射抜く。
「……昨日のこと。……あんた、どこまで……どこまで聞いてたの?」
「っ……!」
剣一の喉が大きく鳴る。
今ここで全部聞こえていたと言えば、アリスはこの場で爆発するだろう。かといって何も聞こえなかったと嘘をつくには、今の二人の間の空気はあまりに濃密すぎた。
その気まずい沈黙を、真白が無邪気に切り裂く。
「昨日のこと? ……赤ちゃんのことなら、私ちゃんと覚えてるよ! お兄ちゃんに似た子がいたら可愛いだろうなぁって話だよねっ!」
真白の爆弾が、テーブルの中央で炸裂した。
「そ、そうそう!赤ちゃんっていう生き物は可愛いよねー……」
アリスは引きつった笑顔を浮かべ、完全に空回りした調子で同意した。
その声は裏返り、語尾が震えている。真白の無邪気な爆弾発言を、何とかその場の勢いで押し流そうとする必死の抵抗だった。
「……そ、そうっ! 生物としての、その、純粋な可愛さについて語り合ってただけ! 剣一もそう思うでしょっ!?」
アリスは縋るような目で剣一を見た。
剣一はコーヒーカップを口元で静止させたまま、まるで石像のように固まっている。視線が定まらず、かといってどこかへ逃げることもできず、彼はただこめかみに一筋の冷や汗を流していた。
「……ああ。……まあ、そうだな。……生き物としては、可愛いのかもしれないな」
剣一は自分の心音を必死に抑え込みながら、絞り出すように答えた。
そのあまりに他人事のような、そしてどこか逃げ腰な返答に、アリスの頬の赤みはさらに深化する。
(……反応、薄っ! もっとこう、男として何かあるじゃんっ!)
心の中で悶絶するアリスに対し、シロミは手元のナイフとフォークをカチャリと音を立てて置くと、楽しげに目を細めた。
「あらあら、お兄様。随分と淡白ねぇ。……アリスはね、昨夜、お兄様についてもっと別の可愛いところをたくさん熱弁していたわよ?」
「シロミ……っ!」
剣一が警告するように低く声を出すが、シロミは止まらない。
彼女は優雅にカップを傾け、追い打ちをかける。
「例えば、分厚い胸板のこととか。あたしの胸より分厚いんじゃないかって、それはもう、真剣な眼差しで……」
「ぶっーーーっ!!」
アリスが口に含んでいたオレンジジュースを、危うく剣一のほうへ吹き出しそうになった。彼女は必死に口を塞ぎ、顔を真っ赤にしてテーブルに突っ伏す。
「……っ、ち、ちがっ……! あたしはそんな……っ!」
「あら、冗談よ。そんなに熱くならなくても、二人の仲の良さは真白ちゃんにも伝わっているわよ、ねぇ?」
シロミが真白に水を向けると、真白はきょとんとしてから、にっこりと花のような笑顔を咲かせた。
「うんっ! お兄ちゃんとアリスちゃんが仲良しだと、私も嬉しいよっ!」
そのあまりにも純粋無垢な一言が、アリスにとっては何よりも強力なトドメとなった。
彼女は顔を上げたまま、蒸気機関車のように頭から湯気を出し、椅子の上で崩れ落ちるように固まってしまった。
「だから……二人とも、仲良いはずなのに、なんだか変にそわそわしないで欲しいな。私は、いつものお兄ちゃんとアリスちゃんが見たいもん」
真白は心配そうな顔で、そう付け加えた。
まるで聖女のようなその純粋無垢な願いが、空回りしていた二人の動揺をピタリと止める。
(……あたし、なんてことを。真白ちゃんに心配かけるほど、意識しすぎてた……!?)
アリスは頭を抱えたまま、椅子の上で小さく丸まった。
真白の言う通りだ。自分たちが意識しすぎて挙動不審になっているせいで、一番大切な妹分にまで余計な気を遣わせてしまっている。
(……恥ずかしがってる場合じゃないよね。あたし、しっかりしなきゃっ!)
アリスの脳内で、先ほどまでの捕食者への恐怖あるいは期待が急速に冷めていき、代わりに保護者としての責任感と、消え入りたいほどの羞恥心が入り混じる。
一方、剣一もまた、真白の真っ直ぐな瞳に見透かされたようで、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……真白、ああ、そうだな。……すまなかった」
剣一はそう短く応えると、意を決したように椅子を引いた。
そして、今なお机に突っ伏したままのアリスの肩に、大きな手をそっと置く。昨夜、彼女を背負った時の柔らかな重みが、一瞬だけ指先から脳裏をよぎったが、彼はそれを強引に振り払った。
「アリス。……朝飯、まだ残っているぞ。……冷める前に、ちゃんと食っておかないと、また今日の訓練でへばるぞ」
剣一の不器用で、けれど最大限にいつも通りを装った、ぶっきらぼうな優しさ。
アリスはゆっくりと顔を上げ、彼の顔を盗み見た。剣一の耳元はまだ少し赤い。だが、その瞳はしっかりと自分を見据えている。それが何よりも、彼もまた今の状況を打破しようと必死なのだという証拠に思えて、アリスは小さく鼻をすすった。
「……べ、別に、へばってなんかないし。……お腹、空いてるし」
アリスは乱暴に前髪をかき上げると、ようやく椅子に座り直した。
シロミはそんな二人を眺めながら、満足げにパンをちぎる。
「あらあら。一件落着、かしらぁ? ……さあ、食事にしましょう。真白ちゃんが作ってくれたスープが冷めちゃうわよぉ」
嵐が過ぎ去った後の食卓には、どこか気まずくも、昨日までよりずっと密度の濃い空気が満ちていた。
剣一とアリスの間にある境界線は、まだそこにある。だが、真白の純粋な一言によって、それは「隠すべき後ろめたさ」から「分かち合うべき秘密」へと、形を変えようとしていた。




