ふぇ…②
数時間が経過し、夜の静寂が街を包み始める頃。案の定、アリスは完全な「出来上がり」状態となっていた。
最初こそヤケクソで肉を詰め込んでいた彼女だったが、シロミのからかいと剣一の無自覚な優しさに当てられ、逃げるように煽った酒が、ついにその理性を完全にノックアウトしたのだ。
「アリスちゃん、大丈夫かな……? さっきからずっと、お兄ちゃんに『赤ちゃんがどうの』って言ってるけど……」
「っ……! 真白、それはもう忘れろ!」
剣一が慌てて制止するが、当のアリスはさらに深く剣一の腕に顔を埋めた。
「……いいじゃん、赤ちゃん……。剣一に似て、不器用で……バカみたいに、お人好しな子が……。あたし、そういうの、嫌いじゃないし……。」
アリスの指先が、剣一の服の裾をぎゅっと掴む。
もはや食べちゃうどころか、完全に捕食者と化したアリスに、剣一は助けを求めるようにシロミを見たが、彼女はただ優雅に微笑むだけだった。
しかし、酒の力を借りたアリスの口撃は止まらない。
「……け、剣一ぃ……。なんでそんなに……胸板……分厚いのよぉ……。あたしの……胸よりも……分厚いんじゃないのぉ……。ひっく」
その場にいた全員の動きが、一瞬にして完全に凍りついた。
真白は口元に運んでいた箸をポロリと落とし、シロミはワイングラスを傾けたまま、これ以上ないほど目を丸くしてアリスと剣一を交互に見ている。
剣一に至っては、まるで落雷でも受けたかのように背筋をピンと張り詰め、顔の赤さは極限を超えて、もはや耳まで沸騰せんばかりだ。
「……あ、アリス……お前、今、何と言った……」
剣一の震える声に、アリスは全く気づく様子もなく、とろりとした瞳で彼の胸元にさらに顔を擦り寄せる。
「……だってぇ……あたしだって、女の子だもん……。でも……剣一の……その、硬い筋肉に……あたしのなんて、全然敵わないなぁって……ひっく……」
「っ――!!」
もはやテラス席の周囲の客など視界に入っていない。ただ、酒の熱と、剣一への抑えきれない執着が、彼女の理性を完全に焼き尽くしていた。
アリスはすっかりとろんとした瞳で、隣に座る剣一の肩に頭を預けていた。普段の勝気な彼女からは想像もつかないほど、その声は甘ったるく、とろけている。
「……仕方ないな。今日はもう解散だ。アリス、帰るぞ。歩けるか?」
「……むりぃ。運んで……。さっきみたいに……また、おんぶ……」
アリスは両手を広げ、完全に「おねだり」の体制に入る。剣一は観念したように背を向け、アリスを背負った。
テラス席の賑わいから離れ、街灯の少ない夜道を、四人は静かに歩き出す。
背中越しに伝わってくるアリスの体温は、先ほどのお酒のせいか、あるいは別の熱か、驚くほど熱い。彼女の柔らかな重みが、剣一の修行で鍛え上げられた背中に、これ以上ないほど密着していた。
「……んぅ……け、んいち……」
アリスは剣一の首に腕を回し、その隙間に顔を埋めて、寝息を混じらせた寝言を漏らす。
「……まだ起きているのか? もうすぐ着くから、少し我慢しろ」
剣一は努めて平静を装い、淡々と話しかける。だが、その声は心なしかいつもより低く、少しだけ震えていた。
背中でアリスが小さく身じろぎし、彼の耳元で吐息を漏らす。
「……剣一の……におい……。……ずっと、こうして……てほしかった……」
「……っ!」
剣一の足が一瞬だけ止まる。
シロミと真白は少し前を歩いており、今は二人だけの、夜の静寂に守られた空間だった。
アリスは剣一の肩に顔を擦り付け、さらに甘く、とろけるような声で呟く。
「……バカ……。……本当はね……わかってるの……。……剣一は、あたしのことなんて……」
一瞬の間があった。
夜風が二人の髪を揺らし、鼓動の音が重なる。
「……あたし……好きだよ……。……バカ剣一…………だーいすき……」
最後の言葉は、風の音にかき消されそうなほど小さな声だった。
だが、剣一の耳には、心臓に杭を打ち込まれるよりも深く、鮮明に響いた。
彼は驚愕で目を見開き、背中のアリスを振り返ることはできなかった。ただ、夜の闇の中で、男の耳までが真っ赤に染まっているのが、かすかな月明かりでシロミの目にははっきりと映っていた。
「……ふふ。お兄様、今のは聞こえなかったことにするのかしらぁ?」
先を歩くシロミが、振り返りもせずに意地悪く微笑む。
「……うるさい。……今は寝ているんだ。……ただの寝言だ」
剣一はそう言い切ったが、その声は自分でも驚くほど優しく、そして……どこか幸せそうに弾んでいた。
一行はそのまま帰宅し、真白とシロミが同じ部屋へ、剣一はアリスを、自分の部屋のベッドへと運び、壊れ物を扱うような手つきでそっと横たえた。
静まり返った屋敷に、夜の帳が深く下りる。
酒の熱で上気した彼女の頬は、月明かりを浴びて淡い桜色に染まっている。
「……ん、ふぇ……剣一……」
眠りの淵で、アリスが小さくその名を呼んだ。無意識に伸ばされた彼女の手が、去ろうとした剣一のシャツの袖をぎゅっと掴んで離さない。
「……たく、世話の焼けるやつだ」
剣一は苦笑交じりに、けれどその瞳には隠しきれない情愛を湛えながら、彼女の枕元に腰を下ろした。
(……さっきの、あれ……本当に寝言なんだよな?)
耳に残る「だーいすき」という甘い響き。その一言が、剣一の胸の奥にある正体不明の熱に、決定的な一撃を加えていた。彼は自分の大きな手で、アリスの乱れた髪をそっと撫でつける。指先に触れる髪の柔らかさが、今の二人の境界線を曖昧にしていくようだった。
「……おやすみ、アリス」
剣一は袖を掴む彼女の指先を優しく解き、その代わりにその手を包み込むように一度だけ強く握った。
部屋を出た剣一は、自分の胸元にまだ残っているアリスの重みと、彼女が放った「胸板がどうの」という破廉恥な独白を思い出し、再び顔を真っ赤にして廊下で立ち尽くした。
「……修行、だな。……もっと、精神を鍛え直さないと……」
自分に言い聞かせるように呟いたが、その口元は緩んだままだった。
隣の部屋では、シロミが全てを見透かしたような笑みを浮かべて眠りにつき、真白は兄とアリスの幸せな未来を夢見ているのだろうか、穏やかな寝息を立てている。
平和で、けれど確実に二人の関係が書き換えられた夜。
明日、目を覚ましたアリスが昨夜の記憶をどれだけ持っているかによって、この屋敷の平穏が決まることを、今の剣一はまだ知らない。




