わたしの名前は――
――凍るような冷たさを全身に感じて、目を覚ました。
耳にごぼごぼと水の流れる音が響いている。そして背中には砂利の感触。首を回すと、森の木々が目の端に見えた。
どうやら、山を流れる川の浅瀬で気絶してしまっていたらしい。
「わたし……」
何がどうしてこんな状況にいるのだろう。頭にモヤがかかったような感じがして思い出せない。
ただ、どうしようもなく胸が痛い。息が苦しい。
「クズルヒ!」
わたしの名前を呼ぶ声がした。重い身体を水から起こし、立ち上がる。
森の奥から、草をかき分けてやってきたのは、ムナガラだった。肩を上下させ、息を切らしている。
「……やっと追いついた」
「あんた、なんでここに」
「なんでって、お前……」
困惑の表情を浮かべるムナガラだったが、ふと視線を下ろし、急にわたしから目を背けた。
「おま……それより服着ろよ!」
「??」
「そうか、変身したときに……。女の子なんだから……俺のを貸してやるから……」
ムナガラはいそいそと白い絹の衣を脱ぎ、呆然としているわたしに頭から被せてきた。
わたしはされるがままに服を着せられる。今の今まで裸だったらしい。
どうして? 変身ってどういう……。
「母さんのことは、そりゃ辛いけど。今は逃げないと」
「かあさん……おかあさ、ま」
――その言葉が引き金になった。
記憶が濁流のように押し寄せてくる。
そうだ、セイメイと戦って、とどめを刺そうとして、間にお母様が割って入ってきて。
わたしの触手で、お母様の胸の柔らかい肉をえぐり抜いて。
血が飛んで、温かい血、血、血、血血血血……!!
「おげええええええええええええ……!」
胃からこみあげてきたモノを勢いよく吐き出す。
訳もわからず、目から大粒の涙がボロボロと溢れる。
殺した。
わたしがお母様を……殺した……!
「クズルヒ!」
「うぇ……おえぇ……」
「しっかりしろ、クズルヒ……!」
「む、ムナガラ、わたし、あのね、わたし」
肩を支えてくれるムナガラを見上げ、無様にすがりつく。
「お、お母様を……どうしよう……どうしよう……」
「クズルヒ、気持ちはわかるが落ち着け!」
「ムナガラ」
「セイメイが追ってきてる。このままじゃ二人とも捕まる。俺が囮になる」
背後の森に気を払いながら、ムナガラは早口に言う。
「それ、どういう……」
「森の触手憑きをかき集めた。時間くらいなら稼げるから」
ムナガラは右手に聖玉を握っていた。
言われてみれば、確かに周囲の森から触手憑きたちの気配を感じる。お母様が見張りのため山のあちこちに放っていた触手憑きだ。
そのほとんどはすでにセイメイに殺されていたが、まだ何体か生き残っていたらしい。
「必ず迎えにいく。今は、遠くに、逃げろ!」
わたしの両肩を掴み、はっきりと口に出すムナガラは、何かを決意したように見えた。
だけどその心中を図るよりも先に、わたしは背中を押され、転がるように駆け出した。
遠くに、どこか遠くに行かなきゃ。
苦しくて、叫びたくなる衝動を必死に堪えながら、わたしは逃げた。
***
いったいどのくらい長い間走り続けたんだろう。
三日三晩、いやそれ以上かもしれない。
どこへ行こうとしているのかもわからないまま、水も飲まず、物も食べず、がむしゃらに山の中を走り続けた。
餌になる野生動物はたくさんいたけれど、食欲はまるで湧かなかった。
それどころか、すでに空っぽになった胃の中身を何度も吐き出していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
お母様に、謝り続ける。胸が苦しくて、呼吸が定まらない。
今まで何人もの人間を破滅させてきた。記憶を奪うのに失敗して廃人にしたり、触手憑きに食われるのをただ眺めたりしてきたけれど、こんな罪悪感に苛まれたことなんて一度もなかった。
所詮相手は下等生物。いずれ復活した九頭龍に食われるだけの小さな存在だ。陸蛸の女王たるこのわたしが情をかける価値なんて、これっぽっちもない。
だけど……お母様は、お母様だけは。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
そもそも、お母様はすでに病床に伏していた。
明らかに普通の病ではなかったし、死期が近づいていることも薄々感じていた。
そう、遅かれ早かれ死んでいたのだから、わたしのせいじゃない……。なんて無理矢理思い込もうとするけれど、逃げ道は塞がれている。なぜならば。
「お母様の病は……きっとお父様と交わったから……」
地球の生物が、異界の生物の体液を注がれて、影響を受けないはずがない。
逃げ道になるどころか、結局のところ、わたしを孕まなければ、お母様は死ななかったという冷酷な事実を強固なものにするだけだ。
「ごめんなさい……」
ふと、対峙したセイメイの言葉が脳裏に蘇る。
『クズルヒ、お主は生きててはならぬ存在じゃ』
憎い仇の戯言だと、あのときは気にもかけなかった。
しかし今になって、楔のように胸に突き刺さり、傷口を抉ってくる。
「……生まれてきて、ごめんなさい」
その謝罪の言葉を口に出した瞬間、ぷつりと、何かが切れる音がした。
わたしは走るのをやめた。
疲れたわけじゃない。ただ、足が前に進んでくれない。
「……湧き水」
苔の生えた岩の窪みに、水が湧いているのが目に映った。
わたしは右腕を……お母様を殺した触手を水の中に入れ、洗う。何度も、何度も何度も何度も何度も、皮が擦りむけて痛くなっても、擦り続ける。
ここまで走ってくる間、水場を見つけるたびに、同じことを繰り返していた。
「うううっ……」
だけど汚れは落ちてくれない。
おぞましい感触が腕に、脳に、こべりついて離れない。
忘れたい、何もかも。
消してしまいたい、汚れを。わたしのすべてを。
過去のことも、お母さまのことも、この化物の身体に産まれたことさえも……
「……あははっ」
ふと笑いが溢れた。
突然、素晴らしい天啓が降りてきたきたからだ。
あるじゃないか、わたしには。
何もかもを忘れさせる力が。
洗いすぎて血の滲んだ右腕を、細い触手に変化させる。
その触手を、わたしは、わたし自身の耳に入れる。
鼓膜の奥の、もっと先。
触手の先端が脳みそに触れると、全身に痺れるような快感が巡り、震えた。
痛覚を快楽に転換させた、偽りの快楽。だけど、今はそれがたまらなく心地よい。
「はは、あははァ、はははははははははははは……」
こんな忌まわしい思い出は捨ててしまえばいい。
か弱く、無垢な人間の娘になって、のたれ死んでしまえばいい。
それでも、もしも生き伸びて……いつか、もしも、また思い出す日が来るとしたら。
あるいは思い出せなくても、ムナガラがわたしを迎えに来てくれたら。
そのときこそが、お母様から託された役目を果たすとき。
それだけが、こんなわたしに残された最後の価値。
だから、そのときまでは。
この苦しみから逃げることを許して……お母様。
「――サヨナラ」
……
…………
…………ああ。
思い出した。
わたしは――――
***
「戦いの後、儂はクズルヒを見つけることはできなんだ」
セイメイは静かに語り終えた。
俺も姉さんも、ただ絶句することしかできない。
「カエデの正体が人間じゃない」と聞かされ、必死に否定しようとしていたが、そんな威勢はすっかり消え失せてしまっていた。
宇宙船の機械の駆動音だけが部屋にうるさく響いている。
「カエデが、昔セイメイさんと戦って、そして、母親を、殺した……」
「記憶をなくした原因もそれじゃろうと思う。子供が幼い頃のトラウマを封じてしまうことはさほど珍しくない。クズルヒはサンを慕っておったからの。いや、サンしか慕っていなかったと言うべきか」
「カエデ……」
俺は隣に座っているカエデに目を向ける。
カエデは話の途中から眉をしかめ、目を閉じ、息を荒げ始めていた。
その苦しげな様子に俺は一度中断を申し出たのだが、結局、カエデ自身が話を聞き続けることを望んだ。
ただ、今もまだ息苦しそうに喘いでいる。かつては人間と敵対していて、しかも実の母親を手にかけていたと知らされたのだ。その精神的ダメージは計り知れない。
「さて、儂の知っていることはおよそ話したと思う。何か聞きたいことはあるか?」
セイメイは俺たちを見回して質問を促す。
俺と姉さんはまずはカエデの様子を伺ったが、カエデは無言のままだ。そこで俺が最初に口を開く。
「一つ、尋ねたい」
「なんじゃ?」
「……」
――セイメイは今でもカエデを殺そうとしているのか、
その最も訊ねたい質問を俺は口に出そうとして……できなかった。
答えを聞いてしまったら、もう後戻りができなくなる。そんな予感を覚え、怖気づいてしまったのだ。
「……結局、なんでムナガラやサンは、カエデを必要としてるんだ?」
結局俺は、気になっていたもう一つのことを先に質問することにした。
それを聞いた姉さんが首をかしげる。
「”陸蛸の女王”にさせるからって話じゃないの?」
「それだよ。”陸蛸の女王”ってのが具体的に何を意味するのか、何もわかってない」
「具体的に……?」
セイメイの話の中では掘り下げられなかったが、これはこれで重要な話だろう。九頭龍教団の狙いの根幹にかかわる問題だ。
「九頭龍教団の計画をまとめると、こうだ。まず、ムナガラが空間転移の聖術で空の彼方にいる陸蛸たちをジパングに召喚する。陸蛸はまた暴れまわる。そして奴らの親玉である九頭龍を復活させることが、奴らの最終目的だ」
「うむ」
「一方、陸蛸は一度九頭龍戦争に負けて滅んでる。それは『帝の威光』のおかげと言われているけれど、セイメイさんは信じていない」
「はは……はっきり言うのう」
戦争の最中、人類は実際のところ負け戦だった。
既存戦力はまるで歯が立たず、途中から使えるようになった聖術でさえ、辛うじて敵の進軍を遅れさせる程度。
なのにある日を境に、陸蛸たちは皆一様に動きが鈍くなっていき、数も減っていき、やがて力尽きて全滅した……。そんな記録は確かに存在し、実際に目の当たりにした人も大勢いる。
朝廷が政治利用せずとも、”神の威光”と民の間で語り草になるのも自然な流れだった。
それくらい不可解な勝利だったのだ。
「陸蛸が滅んだのには何か理由がある。そして、カエデが”陸蛸の女王”になれば、陸蛸のその弱点は克服される。だからサンやムナガラはカエデを必要としている。……セイメイさんはそう推測してるわけだ」
「寸分違わぬ、正しい理解じゃよ」
「その、陸蛸の弱点ってのは、結局なんだ? なぜカエデが関係あるんだ?」
俺は前のめりになる。
「弱点がわかれば、奴らへの武器になる。計画の先を読んで、ぶっ潰してやる。カエデを利用させてたまるか」
「もちろん、儂も突き止めようとしてきたが……」
しかし、セイメイは歯切れが悪かった。
「サンが用心深かったんじゃろうな。手掛かりは残されておらなんだ。いまだに有力な仮説さえ立っておらん」
「くそっ!」
俺は拳を機械に叩きつける。
――その直後だった。氷のように透き通った冷たい女の声が、部屋に響いた。
「病」
「え?」
最初、その言葉を発したのが隣のカエデだと、俺は気づけなかった。
一拍置いて、部屋の全員が一斉にカエデに目を向ける。
カエデは目を閉じ、顔を伏せたまま、淡々と言葉を紡ぐ。
「地球上には目に見えない微細菌が無数にいる。人間は生まれつき免疫のおかげで害を受けることはないけれど、宇宙から来た陸蛸たちにとって、未知の病原菌は致命的だった」
「か、カエデ? なんだ、びさいきん? めんえき?」
「陸蛸が滅んだ原因は、免疫を持たないが故の病。そして……」
カエデは顔を上げる。その目は、よく知った優しい幼馴染の目ではなかった。
恐ろしく空洞で、光の灯らない暗い目……。
「……人間と混血のこのわたしは、病に対抗できる免疫を持った、唯一の”生殖個体”」
「お主」
セイメイが勢いよく立ち上がり、唇を震わせる。
「”陸蛸の女王”となって、彼らとまぐわい、産まれた仔たちに免疫を分け与える。それこそがお母様がわたしに与えた役目」
「何言ってるんだ、カエデ。混乱してるのか? 大丈夫か……?」
俺はおそるおそるカエデの肩に触れようとして――
「触るな!!」
――その手は、鋭い拒絶とともに、払い除けられた。
「か、えで」
「その名で呼ぶなよ、人間」
カエデはゆっくりと立ち上がる。
殺気立つセイメイを牽制するかのように、背中から何本もの赤黒い触手を伸ばす。
そして、俺を見下ろしながら、自らの名を、高らかに叫んだ。
「わたしの名前は……クズルヒだ!!!!」
やっと……やっと第三章「変わりゆく果てに」終了です。
執筆のモチベがヤバかったり、リアルが死ぬほど忙しかったりで、超遅筆を晒してしまいましたが、ようやく最終章まで漕ぎつけました。
ここまで来たら最後まで書き切りたいと思います。是非お付き合いください。




